☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

神想観を怠ってはならない

2015-01-31 18:51:17 | 今日の光明法語


実相の世界は すべての善きものの本源である。


実相の世界を観ずることによって、

それに心の波長を合わせるなら、

実相の世界のよきものが 自(おのず)から地上に 「 祝福 」 として

現われて来るのである。


神想観を怠る者は、いくら 「 人間 神の子 」 と頭で知っていても

現象世界が整うて来るということはないのである。


吾々は実相世界に波長を合わす方法に四つある。

その一つは 想(おも)いを凝らして、実相を観ずること。

その二は よき言葉を使うこと。

その三は、 「 甘露の法雨 」 の読誦。

その四は 愛を行ずることである。



『 生長の家 』 昭和二十五年二月号  八日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




自分の中(うち)に神が実現することが尊い

2015-01-31 18:36:12 | 今日の光明法語


自分が人に対して深切を尽してやっているのに、

それが却(かえ)って相手からよき結果を得られなかったと云って、

悔いることは要らないのである。


現象的な結果よりも、尚(なお)大切な心霊的結果があるのである。


自分の中に 神が実現したかどうかということが

もっとも大切なことであるのである。


愛の行いは、実相の世界に於ける 神の愛の反映であるのである。


それはそれ自身に於いて尊いのであって、

功利的な目的が達し得られると達し得られないとに拘(かか)わらず、

その値打が減るということはないのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年二月号  七日の法語  谷 口 雅 春 先 生 









人に奉仕する事は 神に奉仕することになる

2015-01-31 18:20:38 | 今日の光明法語


吾々は 無限の祝福を

神から頂いて生活しているのである。


神に報いないということは、

その無限の祝福を

取りどくに したことになるのである。


吾々が その無限の祝福に気がつき これに感謝し、

神に対するお礼の意味に於いて 神の愛を実践し、

神の み心を広く述べ伝えることが必要である。


すべて 与えられながら、取り得にするものは、

やがて奪いかえされるのである。


すべての人に神が宿っているということを知るならば、

すべての人の幸福のために奉仕するということは

神に奉仕していることになる。



『 生長の家 』 昭和二十五年二月号  六日の法語  谷 口 雅 春 先 生 







神に与える事によって 神から与えられる

2015-01-30 22:22:16 | 今日の光明法語


自分を神の子なりと信ぜよ。然して自分の内に神が宿っており、

その神の愛を 神の栄光の現われんがために行ずるのだと思って行ぜよ。


それは神に与える行為であるのである。

神に与えることによってのみ、神から与えられるのである。


すべての人間から来る賞讃や利益を目的とせず、

神の愛を、神のために実現せんとして行われたる行為は、

自分の内に 魂の賞讃を湧(わ)きたたすのである。


良心の満足は 法悦となって現われる。

それは自己に宿る神の賞讃の声なのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年二月号  五日の法語  谷 口 雅 春 先 生 






行為の価は内的動機で高下する

2015-01-30 22:08:00 | 今日の光明法語


現象面だけ見ておれば、金銭を目的にした勤労行為も、

愛を捧げんがために、実践された奉仕も、

同じような効果をあげることができるのである。


然しこれを心霊的方面から観察するならば、

それは驚くべき差異があるのである。


金銭を目的にした勤労は、魂の上からいえば、ただ利欲の念の現われにすぎないのである。


又(また)人から認められたり賞讃(しょうさん)されんことを のぞんでした愛行は、

それは愛の形をとっていても、ただ利己的な虚栄心の現われにすぎないのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年二月号  四日の法語  谷 口 雅 春 先 生 



愛は現象を見ないで実相を見る

2015-01-30 09:36:29 | 今日の光明法語


愛とは 感情ではない 行為である ― とニイルはいったのであるが、

愛は 相手に宿る神性の凝視であり、相手に宿る仏性の礼拝である。


感情でどうにもできないものを 智慧では愛することができるのである。

彼の現象を見ず、実相を見て 彼のために奉仕するのである。


光明皇后が、癩病(らいびょう)患者の膿血(のうけつ)を吸い給(たま)い、

聖フランシスが癩病患者を抱擁し、接吻(せっぷん)したことの如きはそれである。


光明皇后と雖(いえど)も、聖フランシスと雖も、

不潔な癩病患者を感情で 「 好きだ 」 と思うわけには行かないのである。


愛は 「 好き 」 を超えて 智慧の目で

相手の実相を見て愛するのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年二月号  三日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




憎んでいる者を一層愛さねばならぬ

2015-01-29 23:08:23 | 今日の光明法語


スター・デーリーは 「 愛は刑よりも強し 」 の中で、

憎んでいる者ほど愛さなければならない ということを書いているのである。


敵対するものほど 吾々は愛さなければならないのである。


それは 「 お前には このような人間でも愛することができるか 」 というテストを

神から与えられているのであるからである。


自分を愛する者を愛するのは 誰(たれ)でもできるのである。


自分に敵対する者、自分を悪(あ)しざまにいう者さえも

愛し得るのが本当の愛である。


キリストは 自分を捕えに来た兵卒の傷をも 癒(いや)したのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年二月号  二日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





報い求めぬ愛は尊し

2015-01-29 22:50:02 | 今日の光明法語


すべての愛の行為は 尊く、

報いを求める行為は 卑しいのである。


愛は ただ捧(ささ)げようとするのであるから 尊く清く感じられるのであり、

報いを求める行為は、その行為が 他から 「 奪おう 」 ということの手段として

行われるのであるから 卑しく感じられるのである。


凡(およ)そ よき行為には 自然によき報いが与えられるのである。


然(しか)しその報いの中には、人から来る報いと

神から来る報いとがあるのである。


人から来る報いを予期せる所の愛行は、

全然無価値ではないけれども、神から報いを得る資格には遠いのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年二月号  一日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




愛はすべての罪を消す

2015-01-28 15:38:06 | 今日の光明法語


愛は すべての罪を消す所の もっとも強力なる力である。


然し一党に偏して 一方を憎むが故に もう一方を愛するというような愛し方は、

実は 愛ではなくして執着であるから、そんな愛では 決して罪は消えないのである。


愛しようと思うならば、まず憎みを放たなければならないのである。


「 神に赦(ゆる)される 」 ということは、

「 業が消える 」 ということを いいかえたにすぎないのである。


業が消えるためには すべての人間を赦し、愛し、

心を尽し、言葉を尽し、行いを尽して

その愛を実践しなければならないので、


愛行の中にとびこみ、 「 わしが愛する 」 というような傲(おご)りの心なしに、

自からが空っぽになって、神が吾に於いて 人を愛するというようになった時、

もう自分は空っぽであるから、自分に まつわりついている業も罪もないのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年一月号  三十一日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





罪を消すのは愛行にある

2015-01-28 15:03:04 | 今日の光明法語


罪はないということは、易(たやす)く いい得るけれども、

真に罪のない世界に飛躍するには 余程の修行がいるのであって、

ほんの一冊 本を読んで「 罪はない 」 と知っただけで、

罪なき世界に出られたと思ったら思い上りだ。


原因は 必ず結果を生む、結果なしに終るということはない。

無論 原因を消してしまうことにすれば 結果も消える。


人を憎んだ業をつんだものは、人を愛することによって消える。

然(しか)し愛さずに、憎んでいながら 「 罪はない 」 と考えるだけでは

観念の空廻(からまわ)りにすぎない。



『 生長の家 』 昭和二十五年一月号  三十日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




神は罰を与え給(たま)うことはない

2015-01-28 14:45:08 | 今日の光明法語


神は 決して何人にも罰を与え給うこともなければ

不幸を下し給うこともない。


全(すべ)ては 吾々が自分で蒔いた種を刈りとるにすぎない。


前生に於いて犯されたる罪は、

次の世に於いて その果実を刈りとることもある。


あの立派な人格の人が、どうしてそんなことになったのだろうと

不思議がる位に崇高なる人格が 突如として方向転換を始め 妙なことになってしまうのは、

過去世に於いて蒔かれたる或(あ)る行いの種が、

今世(いまよ)に於いて実を結んで来るのである。


それは教えの罪でもなければ、その人の現在の罪でもない。



『 生長の家 』 昭和二十五年一月号  二十九日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





値を払わねばならぬ

2015-01-28 14:26:36 | 今日の光明法語


神に祈るということが、神に感謝するということも、

結局 これらは 神に値を払っているということなのである。


神から生命を頂きながら、その生命を頂きっぱなしにして、

その一割の時間さえも 神に捧(ささ)げないということは

与えない事であり 奪いっぱなしになっていることである。


だから 常に 神からの恵みを受けようと思うものは

常に利子を払うかの如(ごと)く、

ある時間を割いて 神に感謝し祈ることが必要なのである。


行わないということも、まちがった行いと同様に

よくないことの起る原因になるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年一月号  二十八日の法語  谷 口 雅 春 先 生 





この世界は原因結果の法則が働いている

2015-01-28 14:05:14 | 今日の光明法語


この世界は 原因結果の法則が 常に働いているのである。


決して蒔(ま)かぬ種は生えぬのである。

種を蒔かずに置いて収穫を得ようと考えてはならない。


他(ほか)から得た者に値を払わないのも やはり一つの自分が貧乏になる原因である。

値を払わないで旨(うま)く利益を占めたと思っていても、

それは結局 神の世界に於(お)いては 借金になっておるのである。


それは 将来における貧乏を約束しているのと同じことである。

だから、泥棒が千万長者になったためしがない。

値を払わないでいたものは 結局消えてしまうのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年一月号  二十七日の法語  谷 口 雅 春 先 生 




 感謝は無限供給の源である

2015-01-28 13:48:29 | 今日の光明法語


今より尚(なお)一そうよき仕事がほしいと思うならば、

今与えられている仕事に対して感謝せよ、

そして、できるだけその仕事に 自分のもっている力をそそぐのである。


与えれば与えられるの法則がそうに動く。

賃金が少なければ そのもらった賃金に感謝せよ。

感謝している中(うち)に賃金が増えて来るのである。


自分の上役が自分に対して ひどいと思ったならば、

それは自分が上役に対して 感謝の心の足らぬ反映であるから

その上役に対して感謝して全力を尽せ。

そこから無限の供給が現われて来る。



『 生長の家 』 昭和二十五年一月号  二十六日の法語  谷 口 雅 春 先 生 






ほめ、讃(たた)え、感謝するところに多くの恵みがあつまる

2015-01-28 11:58:41 | 今日の光明法語


何でもほめるものが増えて来る。

何でも讃えるものが増して来る。

何でも感謝するものが増加する。


自分が与えられている恵みを数えあげて感謝せよ。

自分の今持てる其(そ)の少量の恵みに対して感謝せよ。

それを神の恵みとして感謝せよ。


こんなに僅(わず)かしか もたないとぶつぶつ不平を云わず、

真に神に感謝する時、その感謝の念が磁石となって

一そう多くの恵みが集って来るのである、

ほめるものが増え 感謝するものが増えるのが 無限供給の法則である。



『 生長の家 』 昭和二十五年一月号  二十五日の法語  谷 口 雅 春 先 生