小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

「わかることを信じる」ということ~酒井邦嘉『科学者という仕事―独創性はどのように生まれるか』

2006-08-31 23:05:36 | 読書
夕方はけっこう揺れた今日は読書の番。前回、内田樹+春日武彦両氏で「わかりやすさ」について考えたので、最近読んだ中から酒井邦嘉氏の本です。

…………
酒井氏の著作に触れて驚かされるのは、何よりその「わかり方」によってだ。
私は「わかりやすくわかる」ということを、あまり信じることができない。そのため「わかり方」を語ろうとして、かえってわかりにくくなってしまいがちだ。そんなこともあって、最初に読んだこの若く有望な科学者の著作『言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか』は、美しくデザインされた建築物や見事な創造物である生物の構造のように感じられて新鮮な驚きを感じた。
すべての論理は見事に一貫している。なのにそこに疑問を差し挟む余地がない。普通なら少しずつわかっていくことが、あらかじめわかっているかのような、かつて触れたことがない直線的な論理展開。

この人の「わかり方」、つまり論理は、一般の人のそれとは違ったかたちをしているのだろう。そんな論理で、たとえば、従来は言語を科学に持ち込むことができないと考えられてきたが、チョムスキーの生成文法や新たな脳の分析技術によってそれは可能になったといわれれば、そうだと思うほかない。
その酒井氏が、アインシュタイン、ニュートン、チョムスキー、朝永振一郎といった偉大な先人たちの言葉から、「科学」や「独創性」を語るというのだから期待は大きかった。

そして読んでいくうちに、酒井氏の企みがタイトルやテーマと別のところにあるのではないかと思えてくる。
たとえば第1章の冒頭に置かれるのは、「この世界に関して永遠に不可解なのは、『世界が分かる』ということだ」というアインシュタインの言葉。魅力的な名言の数々でも知られるアインシュタイン以外も膨大な文献からの興味深い言葉がいくつも続き、そして彼らの言葉を借りながら、科学の魅力、社会における科学者の役割、科学者の資質を明らかにしていく。

とにかく、厳選された一つひとつの言葉がおもしろい。一般に「科学者」といわれる人々だけでなく、ヴァイオリン職人、詰将棋、からくり箱など、さまざまな世界のプロの言も科学を語るために集められる。成功するのに必要な「運・鈍・根」、「孤独」の重要さ、「最小性」といった考えも実に刺激的だ。

心地よい知的興奮を楽しみながら読み進めると、「科学」の社会的機能、倫理、表現や教育の大切さなどが、壮大な建築物の柱のようにくっきりしてくる。そしてその中心に立つのは、おそらく著者がもっとも重要と考える「わかる」ということの、すばらしさや不思議さ、また絶対にまがいものを許さない厳しさだろう。

私なども、塾では「わかる」ということの奇妙さに日々たじろいでいる。そのすばらしさを伝えることも難しいが、不思議さ、厳しさを伝えることはもっと難しいことだ。
それは私が本当に「わかる」ということをわかっていないのかも知れないし、単に技術の問題かもしれない。
けれど本書を読んで思うことは、「わかることを信じる」ということの重要さ。それだけでも、無限に広がる大きな世界がぎゅっと詰まったこの小さい本に感謝したい。

(BGMはJ-WAVE。スガシカオがゲストでしたが、ディスコの新曲はリズムの解釈がおもしろいと思う反面、何だか少し恥ずかしい感じも。今回から新企画として、その日に触れて気になったメディアの記事を。まずはこのところの毎日新聞連載、「となりの達人」(http://www.mainichi-msn.co.jp/keizai/wadai/tatujin/archive/)。プロというのは気持ちです)

6月27日読了 ブックガーデン上野で購入
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71:29~『健全な肉体に狂気は宿る』内田樹・春日武彦

2006-08-23 23:41:38 | 読書
よし4日連続更新。この辺でレギュラーに戻り本のレビューです。
といって、8月の下旬に前の年の12月に読んだ本のことを書くというのも何かと思いますが。

実に期待値の大きかった両名の対談は読んでびっくり。
ともに複数読んだことはあるが、その中では内田氏では『先生はえらい』、春日氏では『不幸になりたがる人々』が、どちらもその年のベストといっていいほど印象深い。

内田氏の美点は圧倒的ともいえる明快さ。
たとえば難解さの固まりのように思われるジャック・ラカンをあんなに噛み砕いて語るというのは、あまりに衝撃的だった。「わかる」ということは必ずしも「わかりやすい」ということではない、というのが私の持論である。たとえばヴィトゲンシュタインやハイデガーに、「わかりやすくわかる」ということがあり得ないというような。
しかし内田氏の著書は、そんな素人論議にかんたんに穴を開けてしまう説得力がある。それで「先生」という、奇妙なコミュニケーションを暴いてみせるのだから恐れ入った。「わかりようのわかりやすさ」でいえば、私としては木田元氏にもっとも近いと思える。

一方、春日氏のそれは奇跡的と思えるスタンスの絶妙さ。
真摯な臨床精神医の著作がおもしろいのは当たり前といえば当たり前だが、たとえばこちらも大変勉強になる香山リカ氏が対象と同じ視点で隣に“並ぶ”ように症例を語るに対して、春日氏は一定のスタンスで対象に“向き合い”、常に新鮮に驚いている。
なぜトラに食われたいのか、なぜ木工細工の角度がそうでなければいけないのか、そして狂気のありふれかたという一種の“退屈”にさえ驚くのを読書として体験する時間が、氏の著作の抗しがたい魅力だと思う。“向かい合う”というかたちの日々新たなコミュニケーション。

そんな期待をもって臨んだこの対談。いったいどんなことをいうのだろうという興味は、意外ともいえる読感で打ち破られた。
それは、たとえばEURO2000のイタリア:オランダ戦のように、圧倒的なポゼッションでシュートを打ち続けるオランダのような内田氏と、一瞬のカウンターを狙って相手の動きをみるイタリアのような春日氏の姿である。

もちろん、対談だから編集者のさじ加減は大きい。確か最初の頃は全文の録音起こしがホームページで公開されていた記憶があるが、残念ながら見逃した。
それはどうでも本として読んだ感じからすれば、ワードポゼッションは、内田氏71:春日氏29くらいだ。
そして多くのサッカーの試合が、ほとんどボールを持っていなくても効果的で圧縮された時間を支配したチームが勝利を得る。この対談はサッカーでないから勝負はつかないが、ひとまず効果的ということでは春日氏の方が印象に残った。
しかしそれはサッカーがそうであるように、両氏のコミュニケーションのあり方の違いだろう。なにしろ、一方は哲学者で一方は精神科医だ。

翻って私たちの身近で普通の「対話」はどうだろう。
ワードポゼッションはどうやって決まるのか。そしてそこに何らかの“狙い”はあるのか。ある時はシュートの雨を降らせていた人物が、別の時には厳しいカテナチオをかけていないか。

お二人が話していた内容も、もちろん興味深いものだった。だが、8カ月が経った今思い起こしてみるとワードポゼッションの方が強烈な印象。
ちなみに哲学科出身OB・I君とこの本に関してよく話題になるのは、身体を中心に考えることの多い内田氏が重視していた「からだに響く言葉」です。
そういえば出張先でこの本を買った後、当時京都にいたI君と少し酒を飲んだのだった。

京都タワーの書店で購入。05年12月15日読了

(BGMはまったく関係ない、リッキー・リー・ジョーンズ "pop pop" 。たまにしかきかないけれど「からだに響く声」)
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世界は“戻れる”か~藤田紘一郎『パラサイトの教え』

2006-06-07 10:40:12 | 読書
原稿も書かねばですが、ラピッドライティングのトレーニングに5日連続更新。これまた半年前の読書です。

【introduction】
寄生虫学の立場から「超清潔思向」に真っ向から食ってかかる著者の発言は、新聞などで読んで注目していました。著書は初めて。

【review】
たまたまブックオフで見つけたので買った文庫版だが、茂木健一郎氏の著書に続き選択ミス。おもしろくなくはないが、インドネシアにばかり焦点が当てられていて著者の全体的な考えには触れられなかった。

とはいえ、第2次世界大戦直後の日本人の大部分には回虫がいたとか、寄生虫がいなくなったからアトピーなんかも出てきたんだという部分には納得。もしそうなら、生き物というのは何と不思議なものだろう。

世に少なくない「はだしの教育」のようなものも、きっと著者のような思想も取り入れられているのだろうが、ひょっとしたら私たち現代日本人もさまざまな“自己選択”の1カテゴリーとして、「きれいにするかどうか」を選ぶべき時代にたどり着いたのかもしれない。
もし寄生虫が本当にアレルギーに有効なら、乱暴なようだが学区に関係なく小学校を選ぶように、健康のために“きれいでない環境”に入るという選択が考えられていいのではないだろうか。臨床データがあればぜひみたい。

ここでも、世界は“戻れる”か、という問題を考えなければいけなくなる。
先行きの見えない時代でノスタルジックな共同体再生論もよくきくが、“進んで”しまった世界を人間は戻すことが可能なのだろうか。

不確かな根拠ながら、私は世界はもとのかたちには戻らないと思っている。養老孟司氏がいうよう社会が脳によってつくられたものなら、脳が戻るのでなくあるものの上に積み重なっていくことのアナロジーとして、世界は決してもとと同じには戻らないだろう。
だとすれば、もとのかたちをもう一度つくるか、ヒトにとってふさわしいまったく新しいかたちをつくり出すしかない。共同体にしても、身体環境にしても。

とはいいつつ、これだけ清潔化した社会の一部に不潔を築くということ、つまり“人工的な不潔社会”が、具体的にどういうことかはまったくイメージできないのだけれど。ビオトープとか、テーマパークみたいになってしまうのだろうか。

05年11月17日読了 ブックオフで購入

(BGMは「不潔」といって思いあたった90年代のグランジの名盤、ニルヴァーナ "never mind" 。この前、WOWOW のリーガ・エスパニョーラ総集編できいたヒップホップ版もよかったが、"smells like teen spirit" というのはやはり名曲。といって、ほかの曲はほとんどきかないのだが。ところで、アルバムタイトルはどういう意味だろう)
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今、「脳」についての説得力とは~茂木健一郎『「脳」整理法』

2006-05-14 01:05:39 | 読書
今日は読書レビューの番、というのもおかしく、半年前に読んで細かい部分は忘れている本について書くのもどうかと思いますが、とにかくどんどんいきましょう。

【introduction】
塾OB・I君によれば、「最近テレビでもよくみます」の茂木氏。とはいえ、スポーツと映画、たまにニュースくらいしかみない私は画面で拝見したことはありません。
新聞書評などで読んだ「クオリア」という概念には興味を持っていたものの、著書に触れるのは初めて。多くの作がある著者のものを初めて読む場合は最新の手頃なものを選ぶという個人ルールに従い、本著に手が伸びました。

【review】
という個人ルールは、完全な失策。私が知りたかったクオリアについてはほとんど知見が深まることはなく、「ひらめき」「偶有性」「『他人』との関係」などから、「脳」を整理するためのハウトゥー本のようでした。私はとくに自分の脳を整理したいわけなどではなく、クオリアの正体がよく知りたかっただけなのです。
「最新の科学的知見をベース」にしたといいますが、何だかはぐらかされた感じ。よくみないで買った私が愚かでした。
それにしても、私が最初に脳に関する本、といってもほぼブルーバックスどまりですが、そんな本を読んだ頃からこの20年くらいの、脳科学の進歩はすごいものだなと改めて思います。右脳だ左脳だというあたりから扁桃核などの構造。CD批判で脳波のα波が注目を集めた時代もありました。そしてMRIだの、名前は忘れましたが温度で色が変わる装置など新テクノロジーの導入。そのほかドーパミンがどうしたという脳内分子とか、A10神経はじめ神経の構造や発展のしかたがどうのとか、いろいろなアイテムがかけめぐってきました。
おそらく私が感じた本書の物足りなさは、そういった“科学的”なアイテムなしに、先の「ひらめき」「偶有性」「『他人』との関係」のような、きわめて文系的なタームで語られていることへの、いくらか的外れな“違和感”なのでしょう。そして茂木氏が支持されているのは、まさしくクオリアというキーワードで脳の置き場を文系側に引き戻したことなのではないかと思います。
近年読んだ中でもっとも刺激的だったのは酒井邦嘉氏の『言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか』ですが、同じ学際的な成果でも素人目には、酒井氏の場合は理⇒文、茂木氏の場合は文⇒理という印象あり。もはや、科学的なデータだけでは人々の脳への欲求は満たせないのかも知れません。
脳に対しての私の個人的最大テーマは、例えば中学生に歴史を伝えようとしている時、なぜ“物語”が効果があるのか、それが脳にどう関わっているのかということです。この問いに対する答えを探していつも脳に関する本を読んでいるのですが、今のところもっとも納得したのは、10年以上前に読んだ養老孟司氏『唯脳論』で見つけた「脳がそうなっているからだ」という一説。この謎の関わりそうなクオリアの正体を知るため、そのうちほかの茂木氏の著書を読んでみましょう。
ところで、最初に書いたI君との会話。「いまひとつだったな」という私にI君が、「あれ、センセイ、前におもしろいっていってましたよ」。やはり、脳の整理は必要なようです。けれど、脳は常に上書きされるものだともみなさん書いてますが。

05年11月4日読了。上野駅ブックガーデンで購入

(BGMは、スラップ・ハッピーのメンバーによるテレビ向けのオペラという00年作 "CAMERA" 。めったに活性化しない種類のクオリアが刺激されます)
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『トカトントン』と「ララララー」の後に~上田紀行『生きる意味』

2006-03-24 05:41:51 | 読書
今日はこれまた久々の読書の感想。といっても半年近く前に読んだ本です。
ブログ用「下書き」ファイルに未レビューの映画、本、CDなどがたまっていて、年度末の道路工事のように片づけているのですが、それもまたどんなものでしょう。
まあ、ひとまず今日はこれを書こうと思って本を探して見つからず。アマゾンで目次を見直しつつ記憶をたどって書きますが、憶え違いがあるかも知れません。

【introduction】
肩書は文化人類学者の上田氏の文章は、新聞や雑誌で読んで気になっていはいました。『朝まで生テレビ』でも何度か。しかし一冊まとめて読むのは初めてです。
ど真ん中ストレートのタイトルはなぜか買う時には気にならず、読み終わってから、おおっと思った次第。

【review】
誰もが同じものをほしがらされているから空しい~人はそれぞれ~わくわくするには苦悩も必要~「内的成長」こそが「生きる意味」をつくる、と要約すれば、この本のメッセージはそう目新しいものではないかも知れません。
こういったいわゆる“人生指南本”をよく読むわけではありませんが、例えば諸富祥彦氏の本などを時に手に取ってしまうのは、同世代の人文系の学者がたどり着いたのは、どのような地点なのかという興味からです。
そして上田氏が現在行きついたのは、クールな話しぶりからすると意外なほど熱っぽく語られる「内的成長」というキーワードでした。「内的成長」。なるほど素晴らしい言葉です。これに気づかなくて不幸に感じている人は少なくないでしょう。

と、ここで今の自分を考えて、氏のいう「空しさ」をほとんど感じなくなっていることに気づく。若い頃あんなに感じていた空しさに対し、ちょうどおかしなにおいがずっとかぎ続けていると気にならなくなってしまうように。
空しいなどと思う間もなく、おお、来週はチャンピオンズリーグベスト8だぜとか、早く帰ってにゃんどもなでようとか、明日はあそこのラーメンを食べようとか、そうやっているうちに今年も早3ヶ月が経とうとして驚くばかり。あほのようだが白状すると、私はたまに本気でこの世の中は竜宮城ではないかと心配するくらいなのだ。
これは一体どうしてか。20年ほど前の私にとって世界は空しさで充満していて、何をやってもしかたない、何をやってもつまらないと、同じくらいの本気さで考えていた。

特に若い者どもと接している時、彼らもやはりそういう空しさの只中にいるんだなあと思うことがよくある。正体はわからないけれど、常にまとわりつく空しさ。
そういえばそれは太宰治の『トカトントン』や、ゴダールの『気狂いピエロ』で歌われる「ララララー」という歌で表現されていたものに似ている。そしてかつての私は、自分の中のそういった空しさを、なぜか大事にしていた。

と、話は本の感想からずいぶんずれましたが、これもこの本のテーマである「空しさ」と「内的成長」から思い至ったこと。いい表現とは、多くのことを気づかせてくれる表現といえるでしょう。
今夜気づいた、感じなくなったのか、それとも慣れてしまったのかわからない空しさについては、これから少しずつ考えたいと思います。

(BGMは、Al Kooper "naked songs"。名曲 "Jolie" をはじめとするこのような音楽をきく時間は、少なくとも空しくない時間です)

10月11日読了 蔦屋熊谷店にて購入
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広野由美子『批評理論入門』~自分が少し尖った気がする知的興奮の一冊

2005-12-15 01:26:44 | 読書
しばらくぶりの「読書」カテゴリーですが、これも3ヶ月前に読んだもの。まずい、どんどん読まねば。

【introduction】
『フランケンシュタイン』を素材に、小説の技法と批評理論を紹介する知的興奮にあふれた一冊。帯の「理論を知ることによって、直観はさらに鋭いものへと磨かれる」に大いに納得。読んだ後、自分が少し磨かれて尖った気がします。

【review】
音楽を語る時に「シンコペーション」という言葉を知らなかったら、映画を語る時に「長回し」という言葉を知らなかったら。どんなに不自由なことだろう。
そんなことを考えるのが「Ⅰ 小説技法篇」。「技法」は特に小説の場合、まったく知らずに読むことができ、それがまた「小説」という形式の懐の深さとも思うが、知っていて読むのと知らないで読むのとでは楽しみの質がずいぶん違う。それは例えば、中学校の頃に初めてきいたビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の途中で転調するところ。子どもの頃は何か不思議でいいなあと思う程度だったが、そのうちコードについていくらか知るようになり、楽譜をみて「何だ、こんなんなってたのか」と驚きを新たにしたのに似ている。もちろんそんなことを知らなくてもこの曲は、そして小説は楽しめるが、知っていればより深い時間を過ごせるのは確かだ。
わかっていたけれど何というのかわからなかったことに名が与えられるのは気持ちがいい。この本で、同じ単語の繰り返しを避けるための言い換えのことを「エレガント・ヴァリエーション」というのと知ったのは大きな喜びだった。それはちょうど電車で毎日顔を見て知っているだけの人が、誰かと一緒にいてその人に名を呼ばれ、さらには行っている学校や音楽の好みなどがわかり、ああ、あの人は○○さんっていうのか、△△が好きなんだ、と嬉しい思いがするのに似ている。
「Ⅱ 批評理論篇」も、効果としては同じこと。『フランケンシュタイン』の語り方を通して、ポストコロニアル、フェミニズム、マルクス主義などさまざまな理論を紹介していくという方法は、例えばビートルズあたりのカバー集でそのアーチストの方法がわかるというのに似て、わかりやすく楽しい。「ジャンル」というものに対して否定的な見方は少なくない。もちろんジャンル分けだけからは何も生まれないし、ジャンル分けすることの弊害もないわけではないが、「理解」ということでいえば大きな助けになることも忘れてはならないだろう。以前読んだ長沼行太郎『思考のための文章読本』というのは、文章に沿った「思考」そのものを分類して興味深かったが、文学理論に限定して批評理論のジャンルを大胆に整理した、著者のこの仕事の意味は小さくない。
サッカー解説なども、個人技重視理論、システム重視理論、精神重視理論などと分類するとおもしろいかも知れない。
なお、当然『フランケンシュタイン』にも改めて興味がわき、先月のイマジカで2本やっていたので楽しみにしていたが、忙し過ぎて録画できず。特に『ミツバチのささやき』に出てきた作品はぜひみたいのだが。

中公新書 蔦屋にて購入 9月19日読了
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『ランドマーク』~完璧と構造で描く破綻と崩壊

2005-09-21 23:59:32 | 読書
今日は本。『プレイタイム』と順番が前後しました。

吉田修一著 講談社 ブックオフで購入 9月7日読了

【introduction】
吉田氏の作品は芥川賞の『パークライフ』以来。大宮に建設中のスパイラルビルの建築家と鉄筋作業員、2人の生活を交互に描き、ビル同様にねじれていくイメージがクライマックスに向って静かに、けれども激しく突き進みます。帯で村上龍氏絶賛。

【review】
この作家は、ものすごく嘘が嫌いなのだと思う。
嫌いというより許せない。『パークライフ』もそうだったが、一見静かで何も起こらないような物語は、嘘っぽく見えること、大仰に見えることをできるだけ回避しながら、細心の注意を払って描かれた緻密な工芸品のような印象がある。華美になることを恐れつつ凡庸になるでもない、ぎりぎりのところで立ち止まる誇り高さとでもいおうか。
だからその作品を読んだ時、本作のスパイラルビルなどの奇跡的な構造を持った建築物、凝りに凝った構成とコード進行の名曲、よくできたからくり人形のように、「はーっ、よくできてる」というのがまず感じられることで、おもしろいかどうかはその次、というのが正直なところ。映画ならポール・トーマス・アンダーソンなどのように、異様にうまいのだけれど、そのうまさというのは何のためだろうと思ってしまう。
本作にしても、貞操帯のカギをビルに埋めるというわけがわからないからこそ納得できる卓抜したアイディア、鉄筋工と恋人やその母親、同僚との会話の大事さとどうでもよさが心地よい按配に交差するリアリティなど唸らせられる部分は多い。だがどうしても、それだけという気がしてしまうのだ。
完璧と構造で描く破綻と崩壊。そうなのかも知れないが、私にはそれが切実さとして伝わって来ない。
とはいえ、この作家の美点は現代日本文学に貴重。また別の作品を読んでみたい。
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『疾走(上・下)』~同年代の大型“物語作家”誕生を称える

2005-09-16 00:55:51 | 読書
9月に入り、読書する時間ができました。やはり読書の秋。

【introduction】
同年生まれの重松氏の作品は数冊読んだだけですが、次回が最終回の毎日新聞連載http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/bebe/shigematsu/ など小説以外の仕事にも敬意を感じています。
12月にSABU監督で映画化もされるという本作は、家庭や学校の身近な出来事を題材にしてきた重松氏が、家庭崩壊や殺人などハードなテーマに挑んだ意欲作です。
読み応え十分。大胆で荒れ狂う物語の力に圧倒され、登場人物たちへの感情移入できたことでは近年まれな作品で、たとえば村上龍著『コインロッカー・ベイビーズ』のキクとハシを思い出します。彼らの運命に終盤ついに涙。つまり極上の読書体験となり、シュウジやエリのことは一生のうち何度も思い出すことになるでしょう。
もう一つ個人的には、この小説はたれ目との隔離生活中に暑い部屋で読んだ本だということ。たれ目の左目と『疾走』、シュウジやエリとはお互いに結びつけられて記憶されます。

【review】
重松氏の書いたもので一番心に残っているのは、実は故・中上健次氏が亡くなった時の毎日新聞での追悼文である。学生時代に中上氏の周辺にいた重松氏が最後の無頼派作家との日々を思い出しながら、中上氏の「おれには書くことがいくらでもある」という言葉に対し、自分は書くに値するだけの事実を持っていないということを、悲しむでもなくただそういう事実だという筆致で記していた。
重松氏の書くものを読んでいて、いつもこの文を思い出す。そしてそれだけに、この人の書くものは信用できると思う。
本作で重松氏が書きたかったのは、『枯木灘』をはじめとする中上氏の紀州路地サーガではあるまいか。そしてバブル崩壊や頻発する少年犯罪、携帯電話といった中上氏死去以降の社会をフィクションの中に投げ入れることによって、中上氏の「書くこと」=路地に迫る切実さを現出することに成功している。そういえば中上氏にも、新聞販売店の少年が主人公の『十九歳の地図』があった。
『疾走』というタイトルにもなった、鬼ケンの軽トラでのドライブはじめ、残酷な世界に対する抵抗の象徴であるエリのランニングの後姿、アカネの生への意志、神父の悲しみ、シュウイチの孤独などが圧倒的な筆致で語られ、干拓地のめまいのするような暑さ、東京の片隅の心も動かなくなる寒さなどが、自分のことのように感じられる。現実的というにはあまりに派手なドラマが続いても、だからといってそれが切実さを失うことにはつながらない。
近年の小説には、“物語”のためにもういいというほどの悲惨な出来事が並べられることが多い。だが、陰惨ないじめ、変態性描写も含めて、本作の場合主人公シュウジの心を描くのにどれも必要だったと思う。
二人称の語りも功奏。SABU監督はあまりいい印象はないが、エリ役の『誰も知らない』が鮮烈だった韓英恵をはじめ映画も楽しみだ。
同い年の大型“物語作家”の誕生を喜びたい。

重松清著 角川文庫 蔦屋にて購入 9月1日読了
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『新人生論ノート』~「わからないこと」の強烈な光

2005-08-06 01:40:26 | 読書
「読書」もずいぶん間が開きました。仕事の資料を含め読んでいる文字数はけっこうあると思いますが、個人的に読み終わった本が少ない。まずいことです。

『新人生論ノート』木田元著・2005年集英社新書

【introduction】
ハイデガー研究の第一人者である日本哲学の重鎮が、もはや古典といえる三木清『人生論ノート』の方法論で書く。むしろ人間味あふれるエッセーの趣き。こういう風に歳をとれたら、とは思う。

【review】
木田さんは難しいと思っていた事柄をいつでもオセロの駒をひっくり返すように明確に言い表してくれ、まさに蒙を啓かれている思いを味わえる刺激の多い読書時間となる。どこかで、わからないことをわからないという姿勢を貫く哲学者という紹介を読んだ記憶があるが、この明確さの秘密はどうやら氏の“わかり方”より“わからな方”にありそうだ。
たとえば「理性について」。欧米の理性について私たち日本人は本当にわかることはできず、「長年苦労した」といい、わかったような顔をする自らを含めた国内の哲学の徒に疑問の目を向ける。プラトンのイデアも同様だ。
ソクラテスの無知の知に似ているが、それだけではない。「わかること」と「わからないこと」では、普通は「わかること」が光で「わからないこと」が影と考えるだろう。しかし氏の書くものでは「わからないこと」が強烈に光を放ち、「わかること」という影を明確にしているように感じられる。
明確さでは影は光に負けない。影の「わかること」が明確で不思議はないだろう。
と、いつものように抽象的な話になった。きっと自分が何をわかっていないのかさえ明確でないからに違いない。そのことはわかっても、うまく言い表すのは難しい。
本家三木清のねじれた人格については向井敏『文章読本』でも読んだが、これを読んで再確認。いい歳のとり方もいいけれど、これはこれで。
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『グランド・フィナーレ』~よく練られた破綻

2005-06-18 01:01:28 | 読書
阿部和重
文藝春秋中で

【introduction】
芥川賞受賞作にして幼女性愛がテーマ。毎日出版文化賞、伊藤整文学賞受賞の『シンセミア』と同じ神町ものです。
“現代的”な風俗があれこれと描かれ、なるほどそうだったのかと勉強になる一冊で、おもしろいことはおもしろい小説。

【review】
物語の構造にやけに意識的な著者は、若手の中で気になる存在です。『インディヴィジュアル・プロジェクション』は、映画『メメント』など世に数ある“実はこうなんだもの”の中でも出色の作品と思います。
本作も、幼女性愛だのドラッグだのという道具立てのもと、愛娘と引き離されて帰った地元神町で出会った天使のような二人の少女との無償の愛の日々でグランド・フィナーレを迎えるという展開はよくできているといえるでしょう。
しかしこういった“意外な展開”も、インディペンデント系アメリカ映画をはじめ、めずらしいものではなくなってきているのも確か。「意外な」はすでに「やっぱり」で、よく練られた破綻という感じがどうしてもしてしまいます。もっとも、そんなことなど著者にすればどうでもいいことなのかも知れませんが。
すぐれた表現には「破綻」という「力のある意外性」がつきもので、それが作品全体に生命を与えます。ウェルメイドが持ち味の著者ですが、今後、一つ突き抜けた破綻ある作品を期待します。
村上龍の「この作品がもっとも知りたい情報があったから推した」という芥川賞選評に納得。
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『赤瀬川原平の名画読本―鑑賞のポイントはどこか』 ~批評にとってのライブ感

2005-06-18 01:00:04 | 読書
OB01
ブックオフにて購入。

【introduction】
赤瀬川原平氏が自身の西洋古今名画、観賞のポイントを語る。
みる人、語る人として一流の氏がどのように絵をみるかが、まるで氏自身になったかのようにわかる貴重な読書体験。
途中まで読んで置いておいたのを、『月と六ペンス』を読んだのを期に読了。

【review】
この上なくおもしろい美術ガイド。そして今まで読んだ美術ガイドとは、まったく違った印象がありました。
何なのか考えてみると、本書の場合、一枚の絵のどのように感じそれがどのように自身の中で変わっていったかを丁寧に記していること、かなりの精度で時間軸に忠実であることにあるように思います。
どんな表現、いや表現以外の人やもの、事件でも、私たちは次々にその見方を更新しているのが普通です。ですが言葉としてそれを語る時、その途中に思ったことは置いておいて、最新の地点からどう思ったのかを記していく、それが何かを語るということの宿命だと思います。ちょうどカメラがたとえ鏡を使っても、決してカメラ自身を映すことができないように。
そんなジレンマを本書は、最初見た時はどうだった、その頃の自分はどうだった、自らも筆を手にする氏が、その作品からどんな影響を受けたのか、を語ることによって、一気に吹き飛ばしています。それは氏が本書で繰り返している、この絵のこの部分はこういう風に描かれたのではないか、こういうつもりで描いたのではないかという考察と入れ子構造になるように、絵の作者~著者~読者、3次の樹形図を構成しているといえるでしょう。
いってみれば、批評にとってのライブ感。たとえば、絵の全体をみた後、個々の部分についての思いをめぐらせ、もう一度全体をみて違った印象を考え直すといた絵の前の誰もに起こっていることを、そのままのかたちで記したことが、本書のスリリングさの秘密なのだと思います。
ちょうどこの本を読んでいた頃、T・アンゲロプロスの新作『エレニの旅』を劇場でみたのですが、彼の独特のカメラの動きは、本書の赤瀬川氏の目の動きに似ているように感じました。全体からみて、細部に近づいて戻ってきた時には驚くべきことが起こっているという点が。
なお、みる人、語る人として一流の氏の書いたもので今まで読んだ中一番のお気に入りは、毎日新聞内『ねこ新聞』にあった、「何といってもやつらは全員全裸である」です。
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『月と六ペンス』 ~“奇妙な体験”を描く装置としての奇妙なかたち

2005-06-18 00:58:06 | 読書
S・モーム 新潮文庫
ブックオフで購入

【introduction】
「ゴーギャンの伝記に暗示を得て芸術にとりつかれた天才の苦悩を描き、人間の通俗性の奥にある不可解性を追求した力作」とカバーに。
しかし、私としては登場人物ストリックランド=ゴーギャンの人物像とともに、小説そのものの奇妙さが強いしこりとして残っていて、それがこの読書体験を貴重なものにしています。
いろいろな意味で名作。

【review】
この小説の魅力を、読後、しばらくしてから時々考えます。
まず、初めはやけに退屈。そしてストリックランド登場で、物語は俄然おもしろくなり、ストルーヴ夫妻の参戦をもって最高潮に達して突然消え、再び南の島の燃えるような冒険を、当時を知る人の聞き取りのかたちで語り出します。
いわゆる手に汗握る、はらはらどきどき、というおもしろさが世の中にはあり、現在の多くのエンターテインメントはその方向でつくられています。そこでは驚きということは大きな魅力であるけれど、はらはらさせよう、びっくりさせようと思うほど、つまらなくなる、そういうことはよくあります。
ところが、文庫解説によると「安心して通俗的といえる作家」モームは、芸術的な存在に向ける通俗的な読者の側の興味を、これまた解説によると「モーム得意のシニカルな笑い」でもって引き出すことに成功しました。もはや通俗とも芸術とも、おもしろいともつまらないともいえないような、奇妙な地点にもう一度引き戻している、そう思います。
登場人物たちに向ける、語り手の視線の揺らぎのなさがまた奇妙。それがまたこの小説を、登場人物たちをさらに奇妙なものに感じさせ、何ともいいがたい重い感じを残すのです。
わからないということをこれだけ魅力的に描いた作品には、これまであまり出会ったことがありません。そしてそのわからなさこそ、本作の確かな魅力であり、この奇妙な小説のかたちは、語り手がしたはずの奇妙な体験を描くのに不可欠だったように思います。
コメント
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