27日は2年前にカロンタンが裏の道で転がっていた日。今日はやつのこと書きましょう。
思い出すことはいくらでもあるけれど、今回はカロンタンのごちそうの話。
その子孫と同じくキャネットを中心に食べていたカロンタンですが、今も子どもや孫や曾孫がそうしているように、私が風呂上りに持ってくるつまみの類、つまらぬものですが「ごちそう」と呼んだものは、食生活に変化をつけるために特別な何かだったようです。
人間と違って食べ物に飽きないといわれるねこ。ですが、私がみる限りではいつも同じキャネットをそうは喜びません。といって別のカリカリ、お魚たっぷりなどを買って来てもあまり食べたがらないので詳しいことはわかりませんが、ひとまず確かなことは、やつらの誰もが私が持ってくるごちそうに目の色を変えて集まって来るということです。
ねこどもが特に好きなのは、肉類ならレバーで魚類はサバ。ねこは「バ」で終わるものが好きなのかと思ったりもしましたが、そういった名前を知らないやつらにとっては関係あるはずがありません。
レバサバを持って入って来た時の集合スピードの違いからやつらがそれを何らかの手段で認識していることは確かですが、名前のないものに期待するというのがどういう状態なのかは言語を解する人間にとって知るすべのないこと。もちろんプリプリとしたレバサバの感触と脂肪分の快楽が、小さな前頭葉に残っているに過ぎないでしょう。ねずみでさえ脂肪分に味をしめるという記事を読んだ記憶もありますから。
いずれにしてもとくにレバサバの時は、やつら全盛期のバレンシアのようなハードなプレッシングでにゃーにゃ-。脚をひっかくやつもいて困ったものです。今日の“サバ・ポゼッション”は人間41:ねこ59だったなとか思いつつ、キュウリとか冷奴とかねこチームが関心を示さないつまみのハーフタイムを迎える時、「なあ、カロンタン」と行儀のいいカロンタンと差しで飲んでいた日々を思い出します。
子ねこ時代を家ねことして過ごしたカロンタンは、外に出した最初は付近ねこの銀にゃんに近づいては怒られる繰り返しでした。それでも子どもを産んで母親になってからずいぶん強くなり、銀にゃんを追い払うこともしばしば。キャネットをやっている時は何ともなかったですが、私がごちそうを持って帰って来ると目の色が変わりました。
ドアの前で待っている銀にゃんに、「まあ、おめえにもちょっとやるからよ」とアジのせいごの下とか肉と一緒に炒めたもやしとかをやろうとすると、どこからかタタタッとやって来て、「フやーっ!」と銀にゃんを追い払います。いつもあまりの剣幕なので、「わかったわかったカロンタン。もう銀にゃんにはやらないよ」と言い聞かせ、銀にゃんにすまないなと思いながら、落ち着いたカロンタンと子どもたちといっしょにごちそうの時間を過ごしたものです。
2年前の27日、昼から風呂に入って来ると銀にゃんがドアの前にいたのに出て来なかったカロンタン。「おっ、今日は来ないから少しやるぞ」とアジか何かを少しあげて、アナログプレイヤーにあった確かブルックナーをきいてビールを飲み、呑気にやつはどこ行ったんだろうと思っていたのですが、その時には暑い日差しの下で道に寝転がっていたのでしょう。
それから多くのねことの別れもありましたがいつも思うことは、「ねこがいい」とはどういうことだろう、ということです。
“かたち”なら写真があればいいかも知れませんが、それではちっともおもしろくない。“手触り”も大きいですが、夏にはちょっと暑苦しい。
あの『星の王子様』でバラの花を想うプティ・プランスにキツネがいったように、それはきっと「ひまつぶし」をしたから。具体的にどういうことかを多少は科学的にいうと、カロンタンがみた世界がカロンタンの頭の中にある電気信号の束をつくりだし、それが動かすカロンタンをみたことで私の頭の中にまた別の電気信号の束が生まれ、カロンタンはそれがあまりに気持ちいいから何度もその電気信号を求め、私の方もその電気信号が嬉しくて何度でもカロンタンがみた世界をみようとする、そういうものだと思います。
カロンタンが大事にしたごちそうと、ごちそうを大事にしたカロンタンを思い出すこと。
ねこにどれだけ記憶というものがあるかは明らかでなく、母親の話をしても何も答えないカロンタンの子どもたちをなでながら、カロンタンを思い出せる人間の幸福を素直に喜び、またその不幸を存分に悲しむこと、それが“私という人間の大事なごちそう”に違いありません。
それにしても、好きなものが好きなもののことを考える時のこの快さ。一体何なのか。生きている限り私は、カロンタンが好きだったレバサバをカロンタンを思い出しながら食べることができるでしょう。
(写真は2年前5月のカロンタン。庭の名の知れぬ樹にいた場面で、背景をつけたようですが無加工です。BGMは、やつとなかよくなった頃、よくきいていたので「カロンタンのテーマ」とも呼んでいたハイ・ラマズの「ザ・クリック・アンド・ザ・フィズ」。今日は何度も何度もききました。イントロのヴァイオリンにキョロキョロしていたカロンタンをよく憶えています。ハエかなんかがいたのかも知れませんけれど)
思い出すことはいくらでもあるけれど、今回はカロンタンのごちそうの話。
その子孫と同じくキャネットを中心に食べていたカロンタンですが、今も子どもや孫や曾孫がそうしているように、私が風呂上りに持ってくるつまみの類、つまらぬものですが「ごちそう」と呼んだものは、食生活に変化をつけるために特別な何かだったようです。
人間と違って食べ物に飽きないといわれるねこ。ですが、私がみる限りではいつも同じキャネットをそうは喜びません。といって別のカリカリ、お魚たっぷりなどを買って来てもあまり食べたがらないので詳しいことはわかりませんが、ひとまず確かなことは、やつらの誰もが私が持ってくるごちそうに目の色を変えて集まって来るということです。
ねこどもが特に好きなのは、肉類ならレバーで魚類はサバ。ねこは「バ」で終わるものが好きなのかと思ったりもしましたが、そういった名前を知らないやつらにとっては関係あるはずがありません。
レバサバを持って入って来た時の集合スピードの違いからやつらがそれを何らかの手段で認識していることは確かですが、名前のないものに期待するというのがどういう状態なのかは言語を解する人間にとって知るすべのないこと。もちろんプリプリとしたレバサバの感触と脂肪分の快楽が、小さな前頭葉に残っているに過ぎないでしょう。ねずみでさえ脂肪分に味をしめるという記事を読んだ記憶もありますから。
いずれにしてもとくにレバサバの時は、やつら全盛期のバレンシアのようなハードなプレッシングでにゃーにゃ-。脚をひっかくやつもいて困ったものです。今日の“サバ・ポゼッション”は人間41:ねこ59だったなとか思いつつ、キュウリとか冷奴とかねこチームが関心を示さないつまみのハーフタイムを迎える時、「なあ、カロンタン」と行儀のいいカロンタンと差しで飲んでいた日々を思い出します。
子ねこ時代を家ねことして過ごしたカロンタンは、外に出した最初は付近ねこの銀にゃんに近づいては怒られる繰り返しでした。それでも子どもを産んで母親になってからずいぶん強くなり、銀にゃんを追い払うこともしばしば。キャネットをやっている時は何ともなかったですが、私がごちそうを持って帰って来ると目の色が変わりました。
ドアの前で待っている銀にゃんに、「まあ、おめえにもちょっとやるからよ」とアジのせいごの下とか肉と一緒に炒めたもやしとかをやろうとすると、どこからかタタタッとやって来て、「フやーっ!」と銀にゃんを追い払います。いつもあまりの剣幕なので、「わかったわかったカロンタン。もう銀にゃんにはやらないよ」と言い聞かせ、銀にゃんにすまないなと思いながら、落ち着いたカロンタンと子どもたちといっしょにごちそうの時間を過ごしたものです。
2年前の27日、昼から風呂に入って来ると銀にゃんがドアの前にいたのに出て来なかったカロンタン。「おっ、今日は来ないから少しやるぞ」とアジか何かを少しあげて、アナログプレイヤーにあった確かブルックナーをきいてビールを飲み、呑気にやつはどこ行ったんだろうと思っていたのですが、その時には暑い日差しの下で道に寝転がっていたのでしょう。
それから多くのねことの別れもありましたがいつも思うことは、「ねこがいい」とはどういうことだろう、ということです。
“かたち”なら写真があればいいかも知れませんが、それではちっともおもしろくない。“手触り”も大きいですが、夏にはちょっと暑苦しい。
あの『星の王子様』でバラの花を想うプティ・プランスにキツネがいったように、それはきっと「ひまつぶし」をしたから。具体的にどういうことかを多少は科学的にいうと、カロンタンがみた世界がカロンタンの頭の中にある電気信号の束をつくりだし、それが動かすカロンタンをみたことで私の頭の中にまた別の電気信号の束が生まれ、カロンタンはそれがあまりに気持ちいいから何度もその電気信号を求め、私の方もその電気信号が嬉しくて何度でもカロンタンがみた世界をみようとする、そういうものだと思います。
カロンタンが大事にしたごちそうと、ごちそうを大事にしたカロンタンを思い出すこと。
ねこにどれだけ記憶というものがあるかは明らかでなく、母親の話をしても何も答えないカロンタンの子どもたちをなでながら、カロンタンを思い出せる人間の幸福を素直に喜び、またその不幸を存分に悲しむこと、それが“私という人間の大事なごちそう”に違いありません。
それにしても、好きなものが好きなもののことを考える時のこの快さ。一体何なのか。生きている限り私は、カロンタンが好きだったレバサバをカロンタンを思い出しながら食べることができるでしょう。
(写真は2年前5月のカロンタン。庭の名の知れぬ樹にいた場面で、背景をつけたようですが無加工です。BGMは、やつとなかよくなった頃、よくきいていたので「カロンタンのテーマ」とも呼んでいたハイ・ラマズの「ザ・クリック・アンド・ザ・フィズ」。今日は何度も何度もききました。イントロのヴァイオリンにキョロキョロしていたカロンタンをよく憶えています。ハエかなんかがいたのかも知れませんけれど)