「リビングストーン・デージー」というそうです。
3月17日撮影
まだ3週間前か。「週間日記」です。
●2月
25日(月)恒例電話取材~原稿~今年一番の熱戦アーセナル:ミランに酔う
26日(火)原稿~晩は同級生Mト君宅にさいたま市よりOur Mixiの大食の人Hさんが来るというので訪問。やはりHさんを知る写真仕事関係者Kさん、OG・Eさんも来て飲み、食べる
27日(水)朝起きて、Kさん車でHさんと3人で早くから開いていそうな気がする川本・おおにし製麺へ。15分早かったので近く農林公園で時間つぶし、ついでに花を3鉢買う(3月8日付)。うどん大盛200円に2名とも生卵と天ぷら2つという朝から高度なパフォーマンスを見せたので、いったん1つで通過したが戻って一つ追加。さすがにHさんはうまいと喜んでいただけだが、地元組2名帰り車中苦しむ~原稿~出張授業
28日(木)原稿、大体片付く
29日(金)アートな日(↓)。昼はK市富士屋でラーメン、夜は新宿・上海小吃
●3月
1日(土)テスト前補習の出張授業
2日(日)朝から同級生Mト君らの応援+写真撮影で「深谷シティマラソン」会場に~午後はぽてとや(詳しくは3月8日付に)~帰って競馬は久しぶりの1万ちょい馬券で少々損失補填
【カウンター08】
ラーメン1/11 他外食2/9 外飲み1/9 アウェイ飲み1/11 展覧会2/2 TV海外サッカーは後で整理
本日はなんと、永久歯初の虫歯歯医者行き。矯正したのはなしだと乳歯以来推定37年ぶりで、歯科医の中学、高校の2つ先輩が神経まで膿が行ってますね、というのでどんなに痛いのだろうとどきどきしてたらほとんど痛みなし。なんともこれでは物足りん、と思ったのですが、それはまた別の機会に。今回の付録も、当該週のことです。
・・・・・・・
四年に一回のこの日付はちょうど仕事も次の作業の待ち時間に入り、ちょうどいいと、めったにないアートな一日にするべく奥関東平野を出た。
まず9時過ぎの列車に乗って千葉のK市でMixiで知り合ったUさんの個展。前にも一枚だけみたことはあるが、今回はめったにない大きなものだというので期待していた。
あまりにいい天気だったので、途中の11時ごろの千葉からの乗換ではビールを飲むほど。田園風景でも内陸のそれとは様子の違う車窓を眺めながらだと、同じサッポロ黒ラベルでも一味違う。翌日から三月の陽光を楽しむうちにK市に着くと、初めて会うUさんがいかした赤い車で駅まで迎えに来てくれていた。
車の中で小さなヴォリュームでかかっていた曲を、あっ、ルーファス・ウェインライト、というと違っててピーター・ガブリエルだった。地域のこと、家のこと、オーディオのこと。ネット上ではよく話してきたのでずいぶん前から知っているように話す。Mixi上の知り合いにはすべて、誰かだったりアーティストだったりの「○○を通じて」という「メディア」があるものだが、Uさんの場合は映画『トランス・アメリカ』のレビューだった。Uさんの好きなシニード・オコナーもききながらのドライブは15分ほどで、会場のSFみたいな施設に着く。
色とりどり、大小の点の点が画面いっぱいに広がって、Uさんが住む森、故郷の海、そして自身の心象風景を、思ってもみないかたちに描き出すUさんの作品は、こういっていいのかどうか、ご自身の好きなシニード・オコナーの歌のように張りつめたおだやかさがある。見える通りには描きたくない、とUさんはいう。
そんな中で見入ったのは、すでにMixiフォトで画像だけは知っていた、自身「20歳の頃のセンチメンタル」と解説する初期の作品。タイトルは "I'll be your mirror"。ロックファンなら誰もが知っているヴェルヴェット・アンダーグラウンドの名曲のタイトルだ。
「バナナ」と呼ばれるヴェルヴェッツの名盤でゲストのニコは3曲を歌っているが、個人的に一番好きなのはこれ。ダークなイメージの曲ばかりのこのアルバムの中、シンプルだが効果的なギターにニコのこれはのんびりしたヴォーカル、そしていい加減にきこえるコーラスで終る3分ほどの、ほっとする小さな曲だ。そう、20歳の頃この絵が描き上がった時、まるで鏡みたいにみえたから、とUさんがいう。それからこれは後からメールでおしえてもらったことだが、描き上がった時には映画『ミツバチのささやき』でアナが水面に映ってるのをみたのと同じフランケンシュタインもみえたそうだ。Uさんはそんな20歳だったのだろう。
街への帰りには、このあたりの名物という竹岡ラーメンの店、冨士屋に。
ねこの話とかいろいろしながら食べたラーメンはなるほど今までには食べたことのない種類でおいしい。子どもを迎えに行くというUさんと別れて午後2時、駅に向かった。
次は六本木でロートレック展。
何といっても天気がいいので、駅で今度は一番搾りを買ってしまう。来る時と同じ線路を戻ったが、途中で少し寝ちまった。おおっと起きて、ブザーが鳴る電車に乗るとなんと戻っていく。しかし車内の路線図を見ると、戻った次の駅からは京葉線があってこっちでもいいらしい。ちょうどいい、別の線で行った方がおもしろいだろうと乗り換えた。
六本木に午後5時頃着。この街は学生時代は敷居が高い感じがし、今もたまに仕事で来るくらいでとくに思い入れはない。東京ミッドタウンというのも初めてだった。
同行の、やはりMixi経由の知己だがこちらは何度も会っているKさんが少し遅れるというので同じ建物5階でやっていた九州デザイン展というのを覗く。有名な仏壇メーカーの幹部らしき人が振るう熱弁も耳を引いたが、“デザイン”としてはポール・スミスを思わせるストライプや日本の綿とは思えない素材感が「和」や「九州」だけで語れない、「小倉縞」というのに興味を持った。
3階に下りてワイスワイスなる、こりゃあいい:ひょえこれじゃ買えねえ、のものばかりの店で、こりゃ・ひょえ、心の中で騒いでいるうちにKさん到着。Kさんが手に入れてくれたチケットで、大量のロートレック作品をみる。
ロートレックはずっと前から好きだったし、パリのムーランルージュは外からならみたことあり、その時は観光客らしき欧州女子学生風に頼まれて、もちろん本人のカメラで本人だけ写真に撮ったこともある。だが、都内では何度も行われているロートレック展をみたいと思っていたのは何より25年前、19歳の時の友人Hとの宿題があったからで、25年目の今回はその宿題を終えるのにちょうどいい機会と思ったのだ。
展示はよく練られたすばらしいものだった。本人だけでなくほか同時代の何人もの作家の作品を並べて厚みを持たせているし、とくにロートレック作品では重要なモデルたちの解説も実に丁寧だ。われら世代の多くにとって最初のロートレックといえば、ドラマ『傷だらけの天使』でショーケン:オサムと水谷豊:アキラが住む代々木の屋根裏部屋に貼ってあった「アリスティード・ブリュアン」だろうが、この当時の人気歌手の映像がわずか数秒とはいえみることができるなんて最初にみた小学校の頃には考えもしなかった。
まったく知らなかったパリ以前の作品。母の肖像なんかはゴッホのようなタッチだし、よく知られている一連の作品に達するまでの試行錯誤がよくわかる。展示が始まってすぐに赤瀬川原平も毎日新聞連載に書いていた、ポスターのつくりのリアル。複製もよく目にする名作が、何枚もの紙を貼り付けての行き当たりばったりでつくられているという生な感じに思わず笑ってしまう。
そしてロートレック作で忘れちゃいけない、観客とか部屋の飾りとかの、一見どうでもいいものどもの奇妙な主張。散文的なこの見事なあり方は、たとえば映画作家なら画面でブニュエルとかセリフでアルモドバルとかと同じ種類の、ありそうでそうでもない奇跡的なセンスでしか成り立たないのではないかと思っている。
確か2時間くらい。ベル・エポックを十分に楽しんだ後はKさんと、では何か食べようということになり、といっても六本木はよく知らず、Kさんがその後ライブに行くという新宿に移動した。
しかし、ここでうっかりする。行こうとしたのは多分もう10回くらいは行っていて大きなねこもいる歌舞伎町の上海料理の店なのだが、いつも誰かと一緒に行っているので正確な場所がわからない。実はこういうことは今まで一度や二度ではなく何度もあり、その反省をもとにどうして改善されないのかは我ながらおかしいがそういうものだともいえる。ともかく、異国語飛び交う歌舞伎町をしばらくさまよった末、目印のルノワールからの方向が反対だったことがわかり何とかその店に着いた。きっともう次は大丈夫。
というわけで、上海料理屋で2時間ほどか。この日はねこには会えなかったが、ビールとともにいろいろめずらしいものを食べてKさんは南米音楽のライブに、こっちは高崎線に乗って北埼玉に帰る。電車で少し寝たけどまだ酒も残っていたので塾で少しさまして帰ろうとして、おお、まだこんな時間とNHK渋谷陽一をつけると、かかっていたのはブルース・スプリングスティーン。きいていない昨年10月に出た新譜だった。
・・・・・・・
帰り道、思い出していたのは、25年前にロートレックに行く約束をしたHのことだった。
同じ高校に行っていたHを知ったのは遅くてたぶん高3の夏。同じ弓道部で映画をつくっていたIのところで会ったように思う。
ともに予備校生となった翌1982年の多分夏に新宿伊勢丹でやっていた、その数年前に盗難に遭って返還された『マルセル』出展というポスターをみて、ああ、これみたいなというと美大を受験しようとしていたHが、じゃあ行こうぜ、という。
といっても、当時からよくそうしていたいい加減にいっただけの一言だったし、考えてみれば当時、自分の意志で美術展に行ったことなどあっただろうか。浪人生といっても受験勉強には縁遠かったけれど、暇な時間はくだらない遊びに埋められていたから、20世紀初頭のパリの画家などすっかりどうでもよくなっていた。
数日後、予備校のあった大塚の喫茶店にいるとHが来ていう。何だよ、ロートレック行かねえのかよ、あ、ちょっと待って、いや、もっと時間と金があれば行くんだが、何だよそれ、というとHはぶんむくれて行ってしまった。
取るに足りない行き違い。だが、この頃は私も今よりもっと愚かな19歳だった、というよりHのよくわからない剣幕にたじろいだ、といった方が正確だろう。詳しくはおぼえていないが、すまんすまんと何度もHに謝ったような気がするし、Hはそれから何ヶ月かことあるごとに、時間と金があればな、といっていた。
いずれにしても、今も昔も一貫していい加減でだらしない私はうっかりしてよく蹴られたりしていたから、Hとのこのこともとくにめずらしいということはないし、その後も20代の半ば頃まで多くの時間をともに過ごした。
このHとのロートレックが別の意味を持ったのは、2002年の夏、つまり伊勢丹『マルセル』の20年後、偉大な種牡馬サンデーサイレンス死没と同じ日、Hがオーバー40になる前に死んでしまったからだ。
詳しいことも、最後に会ったのがいつだったかもわからない。たぶん21世紀になってから会ったことはなかったと思う。末期の近くに会っていた友人の話には、朝から安焼酎の1升ペットボトルを飲み始めて晩にはなくなっていたとか、ベンチャー起業で成功した同級生のところにチンチロリンをしに行っていたとかきいた。
死んでしまうとはどういうことかは、近しい者が死んだ時なんかに、それこそたまに考える。精神のこと、物質のこと、いろいろあるが、その後も生きる者にとっては、たとえばHと25年前に約束したロートレックのような約束を、それがどんなに遅れても果たす可能性があるかどうか、その一点ではないか。死んでしまった者を思うことはできるが、死んでしまった者と一緒に何かすることはできない。
閏日金曜、帰りの高崎線。
これも浪人の時だから1982年か、巨人が最終戦を江川~西本の必勝リレーで勝てず優勝を逃した時、熊谷の友人宅でみてから電車に乗り、チャンスに三振したトマソンを「いやあ、あのトマソンの最後のホームランすごかったよな。まさかあんなところで打つとわなあ」などと10代特有の、はた迷惑でくだらぬパフォーマンスをして喜んでいたこの列車でHのことを考えたら、ロートレックだけでなくこの日にあった一つひとつが、すべてやつにつながるような気がしてきた。
"I'll be your mirror" が入っているヴェルヴェッツの「バナナ」は、「マクシズ・カンサスシティー」やローリング・ストーンズの『ギミー・シェルター』なんかといっしょにHに借りて初めてきいた。いや、この日、K市に行く時、路線検索では東京乗換のところこっちが近いと秋葉原で総武線に乗ったのだが、それで通過することになった両国で降りたのはこれまでで一度だけ、Hに誘われて行ったアレン・ギンズバーグの訳者諏訪優の語る会だったな。六本木の「小倉織」で思い出したポール・スミスは、Hもよくきいていたシンプリー・レッドが2ndのライナーで「costume by」と明記していた。ロートレックはいうまでもない。その後に行った新宿の上海料理屋は、Hが住んでいた中華街でよく行った、パイコー麺を食べ時、だめよそんなに辛子持ってっちゃ、とこれもあやふやなおばちゃんの日本語で怒られたあの店に似ていないか。そして、帰った時のスプリングスティーン。
そうか、めずらしくやけにアートだった08年のウルー・デイは、日常の隙間に開いたHの日だったのか。
しかしそんなUさんの言葉を借りていう「20歳の頃のセンチメンタル」はものの五秒で消え去る。そんなことはない。「ここでないところ」に行ってしまったHと違って、こっちは25年前とまったく「同じところ」を回っているだけなのだ。
だからルー・リードが好きなUさんと知り合って "I'll be your mirror" をみる、ロートレックをみに行く、上海料理屋で食べる、この夜のスプリングスティーンなんて、当時の高校生や大学生みたいに渋谷陽一なんてきかなければぶつからなかったじゃないか。
Uさんもいってた。20歳の頃になんて戻りたくはないと。
くだらないけれどかけがえのない、つまり極上の時間をHといくつも過ごした中で忘れられない言葉がある。まだ20歳過ぎた頃、Hはいつもそうするようにロンパリ気味の目を本人から見て右方向に泳がせていった。
「ニール・キャサディってさ、まことに似てると思うんだよ。いってることいつも支離滅裂だし、車の運転もうまいような気がするし」
ニール・キャサディは、Hのバイブルだったジャック・ケルアック『路上』に出てくるディーン・モリアーティのモデルだ。一つとして作品は残さなかったが、破天荒な生き方がもっともビート的だったとされる。
しかしまったくもって一貫した意気地なしの私は、もちろんニール・キャサディにはほど遠い。だいたい「支離滅裂」はいいにしても、運転はまったくうまくないぞ。まあ、当時はHは免許持ってなかったもんな。20歳やそこらじゃ、そのくらいの見立て違いは当たり前といえば当たり前だし、その後、Hがその見立てをどう変えたかどうかもわからない。
いずれにしてもH。
こっちのニール・キャサディは、同じところをぐるぐる回っているだけだよ。でもそれもそんなに悪いことじゃない。
「バナナ」は何回もきけるし、ルー・リードの新作だってきける。Hが死んだ次の年の『レイヴン』はよかったぞ。ロートレックだって、その次もそのまた次もみられるんだ。まだちょっとペットボトル焼酎を飲むまでには至らないけど、ビールとか安ウィスキーはいくらだって飲める。
そうだ、H。
アイル・ビ・ユア・ミラー。
ギンズバーグの思潮社の翻訳は、「お前のものはおれのもの」のIがお前持ってんだろう、持って来いよ、っていったからかんおけに入れて焼いちゃって読めないからもう一冊買わなきゃな、ちょっと高いけど。
(BGMはヴェルヴェッツ「バナナ」と、ルー・リード&ジョン・ケールは亡きアンディ・ウォホールに捧げた『ソングス・フォー・ドレラ』。20歳頃のHはウォホールが目標だった)
・当該週画像
千葉県K市富士屋
あったかくなった庭でティーとタンゲゲンタ
・今週画像
窓辺の「/」(スラッシュ)
3月16日撮影
3月17日撮影
まだ3週間前か。「週間日記」です。
●2月
25日(月)恒例電話取材~原稿~今年一番の熱戦アーセナル:ミランに酔う
26日(火)原稿~晩は同級生Mト君宅にさいたま市よりOur Mixiの大食の人Hさんが来るというので訪問。やはりHさんを知る写真仕事関係者Kさん、OG・Eさんも来て飲み、食べる
27日(水)朝起きて、Kさん車でHさんと3人で早くから開いていそうな気がする川本・おおにし製麺へ。15分早かったので近く農林公園で時間つぶし、ついでに花を3鉢買う(3月8日付)。うどん大盛200円に2名とも生卵と天ぷら2つという朝から高度なパフォーマンスを見せたので、いったん1つで通過したが戻って一つ追加。さすがにHさんはうまいと喜んでいただけだが、地元組2名帰り車中苦しむ~原稿~出張授業
28日(木)原稿、大体片付く
29日(金)アートな日(↓)。昼はK市富士屋でラーメン、夜は新宿・上海小吃
●3月
1日(土)テスト前補習の出張授業
2日(日)朝から同級生Mト君らの応援+写真撮影で「深谷シティマラソン」会場に~午後はぽてとや(詳しくは3月8日付に)~帰って競馬は久しぶりの1万ちょい馬券で少々損失補填
【カウンター08】
ラーメン1/11 他外食2/9 外飲み1/9 アウェイ飲み1/11 展覧会2/2 TV海外サッカーは後で整理
本日はなんと、永久歯初の虫歯歯医者行き。矯正したのはなしだと乳歯以来推定37年ぶりで、歯科医の中学、高校の2つ先輩が神経まで膿が行ってますね、というのでどんなに痛いのだろうとどきどきしてたらほとんど痛みなし。なんともこれでは物足りん、と思ったのですが、それはまた別の機会に。今回の付録も、当該週のことです。
・・・・・・・
四年に一回のこの日付はちょうど仕事も次の作業の待ち時間に入り、ちょうどいいと、めったにないアートな一日にするべく奥関東平野を出た。
まず9時過ぎの列車に乗って千葉のK市でMixiで知り合ったUさんの個展。前にも一枚だけみたことはあるが、今回はめったにない大きなものだというので期待していた。
あまりにいい天気だったので、途中の11時ごろの千葉からの乗換ではビールを飲むほど。田園風景でも内陸のそれとは様子の違う車窓を眺めながらだと、同じサッポロ黒ラベルでも一味違う。翌日から三月の陽光を楽しむうちにK市に着くと、初めて会うUさんがいかした赤い車で駅まで迎えに来てくれていた。
車の中で小さなヴォリュームでかかっていた曲を、あっ、ルーファス・ウェインライト、というと違っててピーター・ガブリエルだった。地域のこと、家のこと、オーディオのこと。ネット上ではよく話してきたのでずいぶん前から知っているように話す。Mixi上の知り合いにはすべて、誰かだったりアーティストだったりの「○○を通じて」という「メディア」があるものだが、Uさんの場合は映画『トランス・アメリカ』のレビューだった。Uさんの好きなシニード・オコナーもききながらのドライブは15分ほどで、会場のSFみたいな施設に着く。
色とりどり、大小の点の点が画面いっぱいに広がって、Uさんが住む森、故郷の海、そして自身の心象風景を、思ってもみないかたちに描き出すUさんの作品は、こういっていいのかどうか、ご自身の好きなシニード・オコナーの歌のように張りつめたおだやかさがある。見える通りには描きたくない、とUさんはいう。
そんな中で見入ったのは、すでにMixiフォトで画像だけは知っていた、自身「20歳の頃のセンチメンタル」と解説する初期の作品。タイトルは "I'll be your mirror"。ロックファンなら誰もが知っているヴェルヴェット・アンダーグラウンドの名曲のタイトルだ。
「バナナ」と呼ばれるヴェルヴェッツの名盤でゲストのニコは3曲を歌っているが、個人的に一番好きなのはこれ。ダークなイメージの曲ばかりのこのアルバムの中、シンプルだが効果的なギターにニコのこれはのんびりしたヴォーカル、そしていい加減にきこえるコーラスで終る3分ほどの、ほっとする小さな曲だ。そう、20歳の頃この絵が描き上がった時、まるで鏡みたいにみえたから、とUさんがいう。それからこれは後からメールでおしえてもらったことだが、描き上がった時には映画『ミツバチのささやき』でアナが水面に映ってるのをみたのと同じフランケンシュタインもみえたそうだ。Uさんはそんな20歳だったのだろう。
街への帰りには、このあたりの名物という竹岡ラーメンの店、冨士屋に。
ねこの話とかいろいろしながら食べたラーメンはなるほど今までには食べたことのない種類でおいしい。子どもを迎えに行くというUさんと別れて午後2時、駅に向かった。
次は六本木でロートレック展。
何といっても天気がいいので、駅で今度は一番搾りを買ってしまう。来る時と同じ線路を戻ったが、途中で少し寝ちまった。おおっと起きて、ブザーが鳴る電車に乗るとなんと戻っていく。しかし車内の路線図を見ると、戻った次の駅からは京葉線があってこっちでもいいらしい。ちょうどいい、別の線で行った方がおもしろいだろうと乗り換えた。
六本木に午後5時頃着。この街は学生時代は敷居が高い感じがし、今もたまに仕事で来るくらいでとくに思い入れはない。東京ミッドタウンというのも初めてだった。
同行の、やはりMixi経由の知己だがこちらは何度も会っているKさんが少し遅れるというので同じ建物5階でやっていた九州デザイン展というのを覗く。有名な仏壇メーカーの幹部らしき人が振るう熱弁も耳を引いたが、“デザイン”としてはポール・スミスを思わせるストライプや日本の綿とは思えない素材感が「和」や「九州」だけで語れない、「小倉縞」というのに興味を持った。
3階に下りてワイスワイスなる、こりゃあいい:ひょえこれじゃ買えねえ、のものばかりの店で、こりゃ・ひょえ、心の中で騒いでいるうちにKさん到着。Kさんが手に入れてくれたチケットで、大量のロートレック作品をみる。
ロートレックはずっと前から好きだったし、パリのムーランルージュは外からならみたことあり、その時は観光客らしき欧州女子学生風に頼まれて、もちろん本人のカメラで本人だけ写真に撮ったこともある。だが、都内では何度も行われているロートレック展をみたいと思っていたのは何より25年前、19歳の時の友人Hとの宿題があったからで、25年目の今回はその宿題を終えるのにちょうどいい機会と思ったのだ。
展示はよく練られたすばらしいものだった。本人だけでなくほか同時代の何人もの作家の作品を並べて厚みを持たせているし、とくにロートレック作品では重要なモデルたちの解説も実に丁寧だ。われら世代の多くにとって最初のロートレックといえば、ドラマ『傷だらけの天使』でショーケン:オサムと水谷豊:アキラが住む代々木の屋根裏部屋に貼ってあった「アリスティード・ブリュアン」だろうが、この当時の人気歌手の映像がわずか数秒とはいえみることができるなんて最初にみた小学校の頃には考えもしなかった。
まったく知らなかったパリ以前の作品。母の肖像なんかはゴッホのようなタッチだし、よく知られている一連の作品に達するまでの試行錯誤がよくわかる。展示が始まってすぐに赤瀬川原平も毎日新聞連載に書いていた、ポスターのつくりのリアル。複製もよく目にする名作が、何枚もの紙を貼り付けての行き当たりばったりでつくられているという生な感じに思わず笑ってしまう。
そしてロートレック作で忘れちゃいけない、観客とか部屋の飾りとかの、一見どうでもいいものどもの奇妙な主張。散文的なこの見事なあり方は、たとえば映画作家なら画面でブニュエルとかセリフでアルモドバルとかと同じ種類の、ありそうでそうでもない奇跡的なセンスでしか成り立たないのではないかと思っている。
確か2時間くらい。ベル・エポックを十分に楽しんだ後はKさんと、では何か食べようということになり、といっても六本木はよく知らず、Kさんがその後ライブに行くという新宿に移動した。
しかし、ここでうっかりする。行こうとしたのは多分もう10回くらいは行っていて大きなねこもいる歌舞伎町の上海料理の店なのだが、いつも誰かと一緒に行っているので正確な場所がわからない。実はこういうことは今まで一度や二度ではなく何度もあり、その反省をもとにどうして改善されないのかは我ながらおかしいがそういうものだともいえる。ともかく、異国語飛び交う歌舞伎町をしばらくさまよった末、目印のルノワールからの方向が反対だったことがわかり何とかその店に着いた。きっともう次は大丈夫。
というわけで、上海料理屋で2時間ほどか。この日はねこには会えなかったが、ビールとともにいろいろめずらしいものを食べてKさんは南米音楽のライブに、こっちは高崎線に乗って北埼玉に帰る。電車で少し寝たけどまだ酒も残っていたので塾で少しさまして帰ろうとして、おお、まだこんな時間とNHK渋谷陽一をつけると、かかっていたのはブルース・スプリングスティーン。きいていない昨年10月に出た新譜だった。
・・・・・・・
帰り道、思い出していたのは、25年前にロートレックに行く約束をしたHのことだった。
同じ高校に行っていたHを知ったのは遅くてたぶん高3の夏。同じ弓道部で映画をつくっていたIのところで会ったように思う。
ともに予備校生となった翌1982年の多分夏に新宿伊勢丹でやっていた、その数年前に盗難に遭って返還された『マルセル』出展というポスターをみて、ああ、これみたいなというと美大を受験しようとしていたHが、じゃあ行こうぜ、という。
といっても、当時からよくそうしていたいい加減にいっただけの一言だったし、考えてみれば当時、自分の意志で美術展に行ったことなどあっただろうか。浪人生といっても受験勉強には縁遠かったけれど、暇な時間はくだらない遊びに埋められていたから、20世紀初頭のパリの画家などすっかりどうでもよくなっていた。
数日後、予備校のあった大塚の喫茶店にいるとHが来ていう。何だよ、ロートレック行かねえのかよ、あ、ちょっと待って、いや、もっと時間と金があれば行くんだが、何だよそれ、というとHはぶんむくれて行ってしまった。
取るに足りない行き違い。だが、この頃は私も今よりもっと愚かな19歳だった、というよりHのよくわからない剣幕にたじろいだ、といった方が正確だろう。詳しくはおぼえていないが、すまんすまんと何度もHに謝ったような気がするし、Hはそれから何ヶ月かことあるごとに、時間と金があればな、といっていた。
いずれにしても、今も昔も一貫していい加減でだらしない私はうっかりしてよく蹴られたりしていたから、Hとのこのこともとくにめずらしいということはないし、その後も20代の半ば頃まで多くの時間をともに過ごした。
このHとのロートレックが別の意味を持ったのは、2002年の夏、つまり伊勢丹『マルセル』の20年後、偉大な種牡馬サンデーサイレンス死没と同じ日、Hがオーバー40になる前に死んでしまったからだ。
詳しいことも、最後に会ったのがいつだったかもわからない。たぶん21世紀になってから会ったことはなかったと思う。末期の近くに会っていた友人の話には、朝から安焼酎の1升ペットボトルを飲み始めて晩にはなくなっていたとか、ベンチャー起業で成功した同級生のところにチンチロリンをしに行っていたとかきいた。
死んでしまうとはどういうことかは、近しい者が死んだ時なんかに、それこそたまに考える。精神のこと、物質のこと、いろいろあるが、その後も生きる者にとっては、たとえばHと25年前に約束したロートレックのような約束を、それがどんなに遅れても果たす可能性があるかどうか、その一点ではないか。死んでしまった者を思うことはできるが、死んでしまった者と一緒に何かすることはできない。
閏日金曜、帰りの高崎線。
これも浪人の時だから1982年か、巨人が最終戦を江川~西本の必勝リレーで勝てず優勝を逃した時、熊谷の友人宅でみてから電車に乗り、チャンスに三振したトマソンを「いやあ、あのトマソンの最後のホームランすごかったよな。まさかあんなところで打つとわなあ」などと10代特有の、はた迷惑でくだらぬパフォーマンスをして喜んでいたこの列車でHのことを考えたら、ロートレックだけでなくこの日にあった一つひとつが、すべてやつにつながるような気がしてきた。
"I'll be your mirror" が入っているヴェルヴェッツの「バナナ」は、「マクシズ・カンサスシティー」やローリング・ストーンズの『ギミー・シェルター』なんかといっしょにHに借りて初めてきいた。いや、この日、K市に行く時、路線検索では東京乗換のところこっちが近いと秋葉原で総武線に乗ったのだが、それで通過することになった両国で降りたのはこれまでで一度だけ、Hに誘われて行ったアレン・ギンズバーグの訳者諏訪優の語る会だったな。六本木の「小倉織」で思い出したポール・スミスは、Hもよくきいていたシンプリー・レッドが2ndのライナーで「costume by」と明記していた。ロートレックはいうまでもない。その後に行った新宿の上海料理屋は、Hが住んでいた中華街でよく行った、パイコー麺を食べ時、だめよそんなに辛子持ってっちゃ、とこれもあやふやなおばちゃんの日本語で怒られたあの店に似ていないか。そして、帰った時のスプリングスティーン。
そうか、めずらしくやけにアートだった08年のウルー・デイは、日常の隙間に開いたHの日だったのか。
しかしそんなUさんの言葉を借りていう「20歳の頃のセンチメンタル」はものの五秒で消え去る。そんなことはない。「ここでないところ」に行ってしまったHと違って、こっちは25年前とまったく「同じところ」を回っているだけなのだ。
だからルー・リードが好きなUさんと知り合って "I'll be your mirror" をみる、ロートレックをみに行く、上海料理屋で食べる、この夜のスプリングスティーンなんて、当時の高校生や大学生みたいに渋谷陽一なんてきかなければぶつからなかったじゃないか。
Uさんもいってた。20歳の頃になんて戻りたくはないと。
くだらないけれどかけがえのない、つまり極上の時間をHといくつも過ごした中で忘れられない言葉がある。まだ20歳過ぎた頃、Hはいつもそうするようにロンパリ気味の目を本人から見て右方向に泳がせていった。
「ニール・キャサディってさ、まことに似てると思うんだよ。いってることいつも支離滅裂だし、車の運転もうまいような気がするし」
ニール・キャサディは、Hのバイブルだったジャック・ケルアック『路上』に出てくるディーン・モリアーティのモデルだ。一つとして作品は残さなかったが、破天荒な生き方がもっともビート的だったとされる。
しかしまったくもって一貫した意気地なしの私は、もちろんニール・キャサディにはほど遠い。だいたい「支離滅裂」はいいにしても、運転はまったくうまくないぞ。まあ、当時はHは免許持ってなかったもんな。20歳やそこらじゃ、そのくらいの見立て違いは当たり前といえば当たり前だし、その後、Hがその見立てをどう変えたかどうかもわからない。
いずれにしてもH。
こっちのニール・キャサディは、同じところをぐるぐる回っているだけだよ。でもそれもそんなに悪いことじゃない。
「バナナ」は何回もきけるし、ルー・リードの新作だってきける。Hが死んだ次の年の『レイヴン』はよかったぞ。ロートレックだって、その次もそのまた次もみられるんだ。まだちょっとペットボトル焼酎を飲むまでには至らないけど、ビールとか安ウィスキーはいくらだって飲める。
そうだ、H。
アイル・ビ・ユア・ミラー。
ギンズバーグの思潮社の翻訳は、「お前のものはおれのもの」のIがお前持ってんだろう、持って来いよ、っていったからかんおけに入れて焼いちゃって読めないからもう一冊買わなきゃな、ちょっと高いけど。
(BGMはヴェルヴェッツ「バナナ」と、ルー・リード&ジョン・ケールは亡きアンディ・ウォホールに捧げた『ソングス・フォー・ドレラ』。20歳頃のHはウォホールが目標だった)
・当該週画像
千葉県K市富士屋
あったかくなった庭でティーとタンゲゲンタ
・今週画像
窓辺の「/」(スラッシュ)
3月16日撮影