小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

ダンカン・タッカー『トランスアメリカ』―「新しいテーマは古いスタイル」で

2006-12-17 22:54:14 | 映画
個人的には、なぜかまったく盛り上がっていなかったトヨタクラブW杯。さすがに決勝は途中からですがみました。むむ、実にサッカーらしい結果です。ロナウジーニョは今年全般的によくないですね。デコはどんどん進化しているけど。
さて、それには関係なく映画レビューを。

「ロードムービー」とはすごい発明だと思う。
性同一障害、親子関係、少数民族、ワーキングプアなど実に多様な、しかも今日的なテーマを詰め込みながら、それを難なくまとめてしまえたのは、ロードムービーというすばらしい“道路”があってこそ。もちろんそれをかたちにした監督・脚本の新鋭、ダンカン・タッカーの手腕も大きいだろう。「新しい酒は新しい袋」にというが、映画のような表現では案外、「新しいテーマは古いスタイル」にが正しいのかもしれない。と思って公式サイトをみると監督自身、「古風な映画」と発言していた。
確かに「女性になりたい男」にしか見えないフェリシティ・ハフマンは好演。そしてそれ以上に、「リバー・フェニックスの再来」だというケヴィン・ゼガーズという若手がすばらしい。このところの日本では元気のいい10代少女に押されて映画のテーマになりにくいが、現実世界でも10代後半少年というのも他者性において際立つ存在だとよく思う。そのざらざら、ぎざぎざとした感触をうまく描いた作品は、トリュフォーなどフランス・ヌーヴェルヴァーグ勢などを除きそう多くはないが、本作のゼガーズはその数少ない例の一つといえる。脚本が先にあったかキャストが先かはわからないが、あの年代の少年特有の倦怠や幼児性との二面性が見事に描かれていた。
ストーリーはその息子ゼガーズが、彼にとってまったくの他者である少数民族のオヤジやいかにも南部的な奥様である祖母、性的に解放されたみなさんとの出会いを通して他者を受け入れ、社会性を身につけることを学んでいく。そしてそんな息子を受け入れることを通して主人公たる父は、自分を開きつつ完成させていくという構造をとる。これもロードムービーの傑作といえる『気狂いピエロ』で、やはり何かの引用かベルモンド、フェルディナンは「旅は若さをつくる」というが、「旅は大人もつくる」のだ。
それにしても、大陸を疾走するおんぼろステーションワゴンのかっこいいこと。これがもしヤッピーたちの乗る最新の欧州車なら、この作品の魅力は半減していたろう。こうした作品にこんな古めの小道具が必要になってしまうということは、『パリ・テキサス』でヴェンダースが「最後のアメリカ映画」を撮ろうとしたというのも本当なのかも知れない。
なお、今年みてよかった映画は『ぼくを葬る(おくる)』『ブロークバック・マウンテン』など少数派セクシュアリティがテーマの作品が多い。社会との軋轢があるから実に映画向きの素材だとは思うが、それを『ブロークバック』のように切なさと美しさでなく力強さで描いた点に作家のメッセージがあるのだろう。テーマに関わらず、みた後の印象は実にさわやか。

11月30日 シネマテークたかさき

(BGMはJ-WAVE、小林克也のプリンス特集。プリンスも何というか少数派セクシュアリティの人だが、常に新しいところはすごい)
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C・イーストウッド『父親たちの星条旗』―第一部だけでも戦争映画の新たな傑作

2006-12-09 03:27:36 | 映画
順番無視で今日は映画。明日の『硫黄島からの手紙』公開前にと思ったので。

『硫黄島』をみた後ではきっと印象が変わってしまうから今日のうちに。この第一部だけでも十分な傑作だと思う。
まず監督イーストウッドの、76歳にして新たなジャンルに挑戦し、しかも相性のよくないCG、記憶の中では一度もやったことのないバラバラの時間軸といった冒険を余計なこだわりなく導入した素晴らしいアティテュードに敬意を表したい。きっと方法より、描きたいことの方が先に出る人なのだろう。何よりも映画を知り尽くした職人であり、どんなにしても娯楽性が失われないところがすごい。
たとえばCGでいえば、スピルバーグ色が強い戦闘シーンより、物語的にも大きな意味を持つスタジアムのシーンだ。あの観客と花火に、縦方向のカメラの移動を使って実に効果的な映像にすることに成功している。
そして、さっき立ち読みで確かめようと市内の24時間書店に行っても見つからなかった原作ではおそらくそうではなく、脚本P・ハギスの手によると思われる自在の時間軸。この映画ならではの手法を物語がわかりにくくなるとする向きもあるだろうが、それより登場人物たちの心情を表すのにあげていた効果を重くみたい。このカットバックがなければ、イギーのエピソードは伝えられないだろう。映画に必要以上の説明はいらないのだ。ハギス脚本も、個人的にはいまいちだった『ミリオン』より『クラッシュ』より数段よかった。
そして、印象的な二つのシーン。硫黄島に向かう船でラジオに聴き入るところと、涙を誘う浜辺の海水浴シーン。たとえば、ドクが遅れてゆっくりとズボンを脱ぐシーンを後ろから撮るような、当たり前過ぎてしかもこれ以上には考えらず揺るぎない演出は、イーストウッドの真骨頂といえ、しかもこのシーンのような印象はかつて彼の監督作で味わったことがない。つまりは76歳にして彼の映画力は進化しているのだ。
難点をあげれば、確かに3人以外のエピソードはわかりにくかった。かといって、これらを切って捨てるのがよかったとは思えないのだが。監督の話ばかりになったが、アダム・ビーチはじめ俳優陣もすばらしい。
本作のエピソードが、『硫黄島』でどのように展開するのかも楽しみだ。それにしても、『ピアノ・ブルース』のような珠玉の作品をつくったすぐ後にこういった作品ができるのだからおそれいる。そういえば終映後モノクロのドリームワークスは、淀川氏が『タイタニック』の時に強調していた追悼の意なのか。
戦争映画の新たな傑作の誕生を賞賛しよう。けれどもこの後もイーストウッドで好きな作品といわれれば、『ホワイトハンター ブラックハート』や『ブロンコ・ビリー』と応えてしまうんだろうな。そしてそれはイーストウッドの世界の、とめどもない広さを物語っている。

(BGMは今日が命日のジョン・レノンで『ダブル・ファンタジー』から『アコースティック』。そういえば、何をやっても娯楽性を失わないところはイーストウッドと似てる)
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クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』―現実感から遠いところでしか描き得ないもの

2006-11-30 02:05:36 | 映画
今日は映画。今年に入ってから劇場でみた新作でよかったものだけ書いていて、これでほぼ追いつきそうです。

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【introduction】
気にはなっていたがバロウズの原作にひかれてみた『裸のランチ』以外はみたことのなかったクローネンバーグ作。ファンの同級生M君に誘われて出かけた。平和に暮らしていたコーヒー店主のもとに、かつて店主にひどいことをされたというマフィアがやって来て穏やかな日常が崩れていくというスリラー。

【review】
ほとんど作品をみたことがなくても知っている、多くの映画人に影響を与えた、ドサッ、ドサッと倒れ、目いっぱいに鮮血が吹き出る人。幸運にもリアルライフでそうやって人が殺されて倒れる場面に出くわしたことはないが、やっぱりあの倒れ方は現実的ではないだろう。そしてあの倒れ方は、作品がリアリティよりむしろ寓話として、しかも現実を映す寓話として成り立っていることの宣言ではないかと思われる。
冒頭の殺戮シーンは見るからに異常としても、店主妻のチアガールコスプレ、息子のさえない学校生活、母子が行くへんてこなショッピングモールといった日常のシーンが、何とも現実味を欠いているところがすごい。映画は、例えばケン・ローチのようなリアリティ重視の社会派でも作家のスタイルから離れることはできないが、それにしてもこの現実感のねじれ方は見事だ。それがミュージカル映画のように、リアリティを飛び越えることなく離れているのがおもしろい。途中、妻に銃を用意しろというあたりの暴走感を経て、店主の正体が明かされていく過程にはあっけにとられた。特に妻に性衝動をぶつけるあの階段シーンは、「暴力の来歴」が濃縮されているようで見応えがある。
それは現実感から少しだけずれた土台を並べた上に広がっていた、やはり現実感のない穏やかさを、主人公の店主自らが崩そうとする、現実的な衝動という風に思えた。しかも、それが奇妙に現実感から遠い映像で描かれるから不気味さは増す。現実感から遠いところでしか描き得ないものが、粗っぽい丁寧さで描かれていて絶妙だ。
それだけに、敵のアジトに行ってからのアクションシーンはつまらなかった。

6月2日 高崎シネマテーク

(BGMはまったく関係なく、目に付いたスライ&ファミリーストーン "anthology"。「ファミリーストーン」って何のことだろうと思ったら、家族バンドと知って驚き)
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B・デ・パルマ『ブラック・ダリア』―たまたまみたメタリカかオフスプリングのような

2006-11-05 23:42:40 | 映画
好天続きの連休最終日は仕事。昼は11月とは思えないほど暖かいのに夜は寒く、身が縮こまると不思議に安心します。読書~音楽~映画サイクルを外れようとも思ったのですが、やっぱり先週みたばかりの映画を。

そんなに多くみているわけでもないブライアン・デ・パルマについては、特に思い入れがない代わりに別に嫌いなわけでもなく、『ブラック・ダリア』は知らなかったJ・エルロイは馳星周氏絶賛の『ホワイト・ジャズ』を読み、ツイストが過ぎて途中からもう何も信じられない状態に入り辟易とした記憶があり、ただスカーレット・ヨハンソンは、若くてまだ硬い感じだった『モンタナの風に吹かれて』や『ゴースト・ワールド』、それから見事に輪郭がぼやけてとろけそうになった『ロスト・イン・トランスレーション』とみて、まあ米国若手女優では注目していて、劇場でみるだけの価値ありと車で出かけた。
何だかんだいって、観客を飽きさせないのはさすが。ただその印象はどちらのファンも納得しないだろうが、たとえばそう、名前を挙げればメタリカとかオフスプリングとか、そんなに興味がなくてラジオできいたことくらいはあってもCDは持っていないバンドのライブをたまたまテレビか何かでみて、ああ、うまいしエンターテインメントとしてはよくできてるし、好きな人は好きなんだろうなといった感じなのだ個人的には。ハッタリ満点で適度におどろおどろしく、高度にパターンナイズされている点が似ている。
『アンタッチャブル』を思い出すフィルム・ノワール風味や得意の階段を使った演出、そのシーンでは初期にヒッチコックの後継者といわれた影の使い方も見事だった。いつもながらのよくできたセット、ボクシングシーンのリングや観客席、女優の配置やお手本通りの撮影、もったいつけたカット割りなどなど。それらはメタリカやオフスプリングの完璧なリフや構成、文句のつけようもないステージングと同じように、熱狂的なファンや反対に苦笑の対象にしたがる映画ファンにとっては、これ以上ないデ・パルマ作を堪能できるのだろう。
しかしそのどちらでもない観客にとっては、やはりいつものデ・パルマ作。入場料を損したと思わない代わりに、次のデ・パルマが楽しみとも思わない。変ないい方だが、もはや安心してみられる“コージー”サスペンスホラー。たとえばほぼ同時代が舞台の『ロード・トゥ・パーディション』みたいに、文句のいいようがあればその方がいいようにも思えるが。
といってきっと次のデ・パルマ作も、時間があればみにいってしまうのだろうな。おそらくキャストとか題材とか、こっちの気を引くのを見つけてくるに違いないから。
唯一の謎は、ブラック・ダリアの映像を粒子の粗くないモノクロで撮ったのはなぜかということ。あの片目だけの涙のシーンは、確かにオールドフィルムタッチでは表せなかったろうが。
ヨハンヨンはよかった。大根っぽい演出もデ・パルマの得意とするところだと思う。

11月2日 伊勢崎MOVIX

(BGMは J-WAVE で小林克也の番組でマーヴィン・ゲイ特集から11時の鳥山何とかのジャズ番組に。日曜のこの時間のラインアップもいい。Phは goo では2点しかなく、イマイチだがヨハンヨンの方をチョイス)
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『ホテル・ルワンダ』―「本当であること」の重要さ

2006-11-01 23:56:15 | 映画
霜月も好天の始まり。今日は映画です。

高校生の頃、当時よくそうしていたように中学の同級生と麻雀をしていて、たまたまその晩のゴールデン洋画劇場で放送される『ローマの休日』の話になった。この名作をみたことがあったメンバーが私とJ君がその素晴らしさを語っていた時にT君が放った次の質問は当時「映画」というものを信じようとしていた私に、何だか異国の言葉のように響いたのを不思議と忘れない。
「それ、本当にあった話なん?」。もちろん私はこの、今は2人の10代のよき父親で当時から実に性格のいい友人に対し、何ておろかなことをいうやつだという思いを抱いた。当時もそして今も私にとって、映画の世界が「本当」かどうかはたいして重要でない。それが現実であってもなくても、映画が産み出す「ほんとう」の方がずっと尊いものだと思い続けている。
だがこの作品をみる時、「本当」ということはこれまでにない意味を持つ。この作品にとっては、「本当」であることが何より重要なのだ。
今は「ルワンダ内戦」と呼ばれる1994年という最近のこの事実について、果たしてどれだけのことを知っていただろう。ツチ族とフツ族、宗主国の差別的統治、サッカーW杯休戦があったことなどの断片的な知識があり、すでに衛星放送を見ていたことだしいくらかのニュース映像も目にしていたかも知れない。
しかしそうした「事実」は、あの国の人々が味わっただろう恐怖をまったく説明していなかったか、または私の方がそれを受け入れる態勢を欠いていた。この映画で観客が追体験する恐怖は、それほど強烈なものである。
それまで身近にいて何のこだわりもなく関係していた人々が、突如として変貌していく。この有様はドン・シーゲル『ボディ・スナッチャー』などの恐怖SFの世界で描かれてきたものであり、それが現実のある程度平和だった街で起こるとは到底思えない。怖いのはまた、それがだんだんと起こっていくことである。
例えば『ユナイテッド93』で乗客や航空関係者が徐々に真相を知っていくことでこの上なく恐怖が増幅されていくのと同じように、信じるに足ると思っていた人物が彼らにもどうしようもない道筋で自分の反対側に変わっていくのがリアルだ。さらにいえばドン・チードル演じる主人公が、大きなヒューマニズムは崩さないながらも、自分の家族とそれ以外のボランティアなどと大きな線を引いているのも苦しいほどリアルといえる。
さらには同じ虐殺を扱った『キリングフィールド』にあった感動的といってもいい“奇蹟”のカタルシスはここにはなく、ただこうした状況では、こうやって命を信じて、どんなことでもやって手を尽くして、それでよほど運がよかった人だけ生き残れるんだなという、当たり前の事実を知るだけなのだ。『キリングフィールド』では、あの絶望的な状況の中、ああこういう奇蹟もあるんだという希望も感じられたのに。
屋上のシーン、浴室のシーンなどまるで娯楽作品のようなハラハラドキドキがあり、感動作品のように涙を誘う再会があり、悲しい別れもある。けれどそれは、あの9・11のWTCをみて「まるで映画だ」と多くの人が思ったように、こうした場面では決してめずらしくはない現実なのに映画のようなシーンで、それを再現したのがこの作品なのだろう。
とくに湾岸戦争の頃から発達してきた中途半端にリアルに感じられるニュース映像は、おそらくこうした出来事を知らせるのに向いていない。そこにあるのは衝撃や刺激だけで、人の心に迫る物語が欠けているからだ。
本作をみて「つくりもの」などという者がいたら言語道断だろう。こんな「つくりもの」をつくらせた「ほんもの」の方が貴重なのであり、そんな「つくりもの」が語るものの方が「本当」に見える「ニュース」よりよほど「ほんもの」なのだ。
T君の発言から25年。私は初めて「本当であること」が重要な映画に出会ったように思う。

8月12日 深谷シネマ

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『ニュー・ワールド』―画面に残されたうねるようなワイルドネス

2006-10-18 23:50:11 | 映画
一日おいて今日は映画。ずいぶん前にみたのをレビューし忘れてました。

寡作で知られるテレンス・マリック監督作品といえば、ストーリーとはまったく関係なくはさみ込まれる静かな自然描写。その特異な編集感覚は、戦争映画『シン・レッド・ライン』で血なまぐさい戦いのすぐそばにそういう生き物たちの営みが行われているという当たり前の事実を知らせてくれて新鮮だった。他の作品も、シシー・スペイセクのくるくるスクリーンを動き回るアーパー美発散、ちょっと困った邦題の『地獄の逃避行』、何だかんだいってもサム・シェパードがかっこよくてたまらない『天国の日々』と、どれも忘れられない魅力にあふれている。
そんなマリック監督の新作は、ポカホンタス伝説を映画化したこの作品。実は伝説自体よく知らなかったのだが、アメリカ建国の矛盾を突く監督渾身の一作らしいのだが、半年近く経って記憶に残っているのはストーリーより繊細この上ない映像ばかりだ。
すべて自然光という撮影といえばかつて『木靴の樹』などもあったが、現代のすぐれたフィルムの特性がうまく活かされている印象で、今までにない深みのある映像となっている。そしてそこに来る時間を待っていたであろう、計算し尽くされた太陽の位置にいちいち唸らされた。いつもながらサウンドの綿密さにも驚かされるばかりだ。
そして、こういうところはさすがアメリカ映画といえる時代考証。17世紀のネイティヴや欧州人の生活にたいした知識はなくても、きっとこうだったんだろうなと思わせるリアリティは迫力すら感じさせる。
さらにアメリカという国の奥深さを感じたのは、あの17世紀そのままのようなロケ地。東海岸にあんな場所がまだ残っているというのだからすごい国だ。
というわけでストーリーにはあまり触れられなかったが、まだ10代だというクオリアンカ・キルヒャー嬢はさすが本物といえる荒々しい魅力にあふれていたし、よくは知らないコリン・ファレル、クリスチャン・ベールも十分な存在感だった。文化衝突の問題の普遍性や、主人公のドラマのダイナミズムは十分伝わる。
また最近読んだ山下柚実著『給食の味はなぜ懐かしいのか』でこの作品で「匂いつき上映」が試みられたと知ったが、画面に残されたうねるようなワイルドネスはそうした試みにはぴったりかも知れない。試みの是非は別にして。
そうはいっても、一般ウケする作品ではないよう。一緒に行った同級生M君と、史上初の2人独占上映を体験。

5月8日 太田イオンシネマ

(BGMは西欧文化の結晶といえるケイト・ブッシュの昨年作から、NHKライブビートでビーナスペーターというバンド。すごく演奏がうまいのにふさわしくなく弱いヴォーカル、奇妙に幾何学的な印象のリズムで、これはまたあまりきいたことのないタイプの不思議音楽。あまり好きな種類ではないが)
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『スーパーマン リターンズ』―踏みとどまる技術の矜持

2006-10-12 12:21:06 | 映画
輝くような青空。いろいろなことが起こってますが関係なく、8月末に映画で同級生M君に誘われて行った、近年はめったにみなくなった娯楽作です。

【introduction】
いわずと知れたアメリカンヒーローの古典。高校生の頃か1と2は劇場でみて、非常によくできた娯楽作という印象は残り、数年前にあるムックで1の紹介原稿を書いたこともあります。やはりC・リーブスはアンフォゲッタブル。

【review】
CGは苦手だ、今のハリウッドに興味はない、そんな私でも十分に楽しめた快作。
観客15名ほどの月曜晩、地方都市の劇場、Xメンだったかワイルドスピードだか、1000円もらってもみたくない作品の恥知らずのディストーションがうるさい予告編で、「シンプルじゃなきゃ」などという字幕にまず辟易。そんなことをいう輩に本当にシンプルなやつはいないと思ってうんざりしながら、それから少し経ってスクリーンに繰り広げられた、リアルにシンプルなエンターテインメントに感心する。
スーパーマンというキャラクターの優れたところは、活躍ぶりがシンプルなことだ。止める、支える、持ち上げる、飛ぶ、間に合う、見下ろす。こうした映像的快感は、例えばNHKで何度かみた『世界最強の男』GPのようで、ただ単に「すげえなー」と思うことのよさを感じさせて潔い。つくりものだけど、それでなければ現出させられないリアル。
そういうリアルがあるから、普通ならみてられないロイスとのありきたりな葛藤劇も、あり得ないからこそ心に迫る。最高級ホテルの最上階で大富豪が町娘に言い寄るというのは興ざめだが、腕を組んで屋上に浮いた青い服の赤マントならしかたなし。お決まりの空のランデブーに、CGの力はうまく活きていた。
そして私たち世代の映画ファンに嬉しかったのは、素のシーンの1980年当時を思わせる柔らかなライティング。特に娯楽作のハリウッドは技術の進歩でうそっぽく思わせるきらきらパチッの映像ばかりの中、影をうまく使ったこの撮影は今でもやり方によってはこういう映像がつくれるのだなと、踏みとどまる技術の矜持を感じさせてくれた。
ストーリーのことはいうまい。やけに00年代的な悪役だったケヴィン・スペイシーは個人的にいただけないが、他キャストは80年代頃の雰囲気で十分。
別に若者にうけなくてもよく、つくりたい作品をつくってそれがハリウッドの奥深さになればいい。

8月29日 太田イオン

(BGMは80年代のアメリカを思い出されるカーズのベスト。"drive" はやはり名曲だ)
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『隠された記憶』―初心者がみる上級者の碁のような

2006-10-04 23:48:07 | 映画
多忙で一日開きましたが、順番通り今日は映画です。これも最近みた作品。

【introduction】
『ピアニスト』でカンヌ審査員特別グランプリ受賞のミヒャエル・ハネケ監督は本作では監督賞受賞。夫婦役にダニエル・オートゥイユとジュリエット・ビノシュという豪華な顔合わせ。自分たちの生活を映したビデオが送られてきたことから、夫婦の生活が一変します。賛否両論の『ピアニスト』の奇妙な魅力に引っかかりがあったので期待してみました。いわれているよりずっとエンターテインメント力あり。最後まで引き込まれます。

【review】
上級者の対戦する囲碁を初心者が見ているような感じ。こういう譬えでわかってもらえるだろうか。実はそれが定石通りだったとしても初心者にはその石が何を意味するかわからず、しかしやがて、なるほどここにこの石を置いたのはそういうわけだったのかとわかり、だけどどうしても初心者にはわからない秘密がもやもやしたまま残るというような。
映画の文法から大きく外れたぶっきらぼうなファーストシーンから、観客は映画の中の現実と登場人物たちの想像、そして観客自身の想像の3つの間をさまようことを余儀なくされる。その不安定なたゆたう感じは、「本当?」と繰り返されながら語られる友人の老婆と犬のエピソードに先取りされていたのだろう。ビデオをほかと結びつけようとする想像力、物語化の力が、登場人物たちと観客とを恐れと不安に追い込んでいく。
効果的なビデオの使い方、想像力が産み出す不安というテーマは10年以上前にカンヌを席巻したソダーバーグ『セックスと嘘とビデオテープ』を彷彿させるが、芸術性の高さとともに娯楽性を備えている点は共通している。私にとって映画にとっての娯楽性とは目を離せないということとほぼ同義で、わかりやすいかどうかということはそんなに大きな問題ではない。
やはり何だかわからないまま引きつけられていた『ピアニスト』のどこがすごいのか、本作をみて初めて理解したように思う。例えば意味性を最大にまで引き出すカット割りや、絶妙のタイミングの編集。本作でも緊張感が最大限に高まった後に決まって接続される、プールや農家の庭、学校の出入り口などの引きの絵が見事な効果をあげていた。
このような犯罪を扱った映画をみる時、犯人は誰かとか事件の意味は何かというのは、そんなに重要なことだろうか。それより映画の時間中、画面にどれだけ引きつけられたかを重いと思いたい。「わかる」と「おもしろい」、それと「作品のよさ」の関係はよく考えるが、この点についてはさらにまた考えよう。
『八日目』や『橋の上の娘』などと違った、シリアスなだけのオートゥイユもさすが。丸くなる一方のビノシュは、洟のかみ方がかっこよかった。

9月28日 高崎シネマテーク

(BGMはNHKライブビートで spaghetti vabune! という若いバンド。ちょっときくとうまくないのに実はうまいというのはいいけどすぐに忘れそう。それほど日本の売れてない若手バンドのテクニックは上等と思う)
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『ユナイテッド93』―映画的な、あまりに映画的な

2006-09-22 09:55:25 | 映画
今回は映画。いつもは少し時間を置き冷静に考えられるようになってからと思っているのですが、作品の性質を考えて昨日みたばかりのこの作品を

こんなに怖い映画をみたのは、初めてだったかも知れない。
「表現」とは“業”だと思う。自分の企みにかたちを与えることでこころよく思わない人がいるとしても描かずにはいられない、どうしようもなく切実なかたち。その切実さこそが、表現に力を与えるのだ。
誤解を恐れずにいえば、私は「忘れた方がいいことは、世の中にひとつもない」と信じることにしている。「忘れないために」この作品をつくった監督は入念な取材をしたというが、それがどんなに誠実だったかは「as oneself」で出演した関係者が何人もいることで明らかだ。
そして観客に事件の記憶がまだ新しいからこその、圧倒的な映画的効果。おそらく百年後の人間が本作をみても、今私たちが感じている怖さは味わえまい。現在の観客一人ひとりに残っている事件の個人的な記憶。例えばCNNの映像が管制タワーの巨大なモニターに映し出された瞬間、自分があの映像を初めて目にした時の不可解さを、作中人物の数だけ増幅されて再体験することになる。
映像作家はこの悲劇を描くのに、現時点における映像的、物語的な常識を忠実に踏襲する方法を採用した。今やドキュメンタルな映像の定番となった揺れの大きい手持ちカメラ、抑え目の音楽、一見ラフであるがゆえニュース的に見える編集、効果的なタイミングで何度も映し出される操縦桿のモスクやなすすべなく抱き合う老夫婦。こうした手法の多くはここ20年ほどの映画界で深化されたものであり、衝撃的な『地獄の黙示録』を評した蓮実重彦氏にならっていえば「凡庸」な手法なのだ。
だが、凡庸は衝撃を呼ぶ。そしておそらく、こういった衝撃は凡庸な手法でしか表現できない。
物語を排して対象をストイックに描いた点でロベール・ブレッソン、事件との距離の取り方なら『エレファント』、ラストの衝撃なら『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などが私が思い出した先行作だが、これは人によって違うだろうしその多様さこそ本作が伝統的な映画であることの証しとなるだろう。
もっとも印象に残るのは、やはり乗客たちの "I love you."。事件当時新聞でも読んで記憶に残っていたし、本作封切時にも新聞ではこの点に言及していたので私はこのシーンのを待ち構えていたといっていい。だが文字で読んだよりはるかに説得力をもって迫るのが、映画で繰り返される "I love you." だった。こんな状況で選ぶ行動が、祈るより身近な人への "I love you." だということ。何人もの人々が自らが生きた証しにこの言葉を選択したことが、アメリカがコミュニケーションに重きを置いた国であることを証明していて興味深い。映像作家が本作を撮らずにはいられなかったように、彼らは誰かに "I love you." といわずにはいられなかったのだ。
「愛」という言葉が日本に伝わって400年が経ったが、まだまだ私たちは彼らと同じように「愛している」なんていえない。それはそれで悪いことではないけれど。
さらにいえば、とくにメガネの男を通して描かれるテロという行為の不条理。宗教から遠い私なら感じるであろうどうせ死ぬんだという思いがないであろう彼らの行動から感じられたのは、5年前にこの事件の情報に触れれれば触れるほど沸き起こってきたのと同じ種類の虚無感だった。

9月21日 伊勢崎MOVIXで

(BGMは、何となくききたくなったマーラーの2番『復活』。メータ+ウィーン・フィル)
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ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』~思いがけないほど“普通”

2006-09-03 23:55:10 | 映画
本日は映画です。

ジム・ジャームッシュのキャリアの中で、数年後、本作はどのような位置を占めることになるのだろう。
『ダウン・バイ・ロー』から後のジャームッシュは、いつも物語を描くことを回避しているように思っていた。繰り返し撮ってきたオムニバス、ドキュメンタリー。いずれもスタイリッシュで独特のユーモアにあふれていて彼を熱狂的に受け入れた多くのファンを飽きさせるものではなかったが、『ダウン・バイ・ロー』のようなハラハラさせる映画ではなくなっていて、ジャームッシュ作品にはそういうものは期待しないといった態勢をみる者につくらせていた。
本作にしても、一人ひとりの女性を訪ねるエピソードが重ねられているからオムニバスの一種といえなくはないにしても、主人公の自分探しという大きなテーマがある点が近作と異なっている。しかもいつものようにぶっきらぼうな感じを見せるでなく、ウェルメイドととられることを恐れないかのような凝った脚本。よく話題になるシャロン・ストーンの娘のヌードはじめ意味深長に思わせる数々のカットも、これまでの彼の作品ならもっと意味から切り離されたかたちでそこにあったはずだ。
つまり本作は、ジム・ジャームッシュの映画としては、決して悪い意味ではなく“普通”なのである。
これが一時の気まぐれでないなら、これから彼の新たな作品群がみられそうだ。

5月25日 伊勢崎MOVIXにて

(BGMはJ-WAVE。"vioce" でさっききいたテキストを探したのですがまだなく、前のをみていたら出てきたヒッチコックの言葉<http://www.j-wave.co.jp/original/voice/sun/8月13日分>。ジャームッシュとは対照的にストーリーの可能性を考え続けた人です)
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映画的にもっとも甘美な共犯としての“裏切り”~フランソワ・オゾン『ふたりの5つの分かれ路』

2006-08-25 15:54:58 | 映画
夏が帰ったようなの一日の午後、6日連続更新です。
今日は映画の番、ということで、昨年劇場でみた中で未レビューだったこの作品。最新作『ぼくを葬る(おくる)』は、本年度No.1有力なのでその前に。

フランソワ・オゾンに惹きつけられるのは、その精神の怪物のごとき強引人工性とそれで現出される映画的リアル、だからこそ身につまされる奇妙な肉体的な感覚ゆえのこと。私の中で、前者は『クリミナル・ラヴァーズ』の車が去るシーンの物語から隔絶した2人の登場人物の見詰め合い、後者は『海をみる』の歯ブラシのシーンがその典型だ。
映画の世界で「変態」から始まって「感動」を描くに至るという流れは伝統的で、最近知る中ではアルモドバルがそのもっとも正統な継承者だが、オゾンの場合は洗練と素地の奇妙な使い分けがみる者の興味を離さない。私には本作は、彼にあって『8人の女たち』と同じくらいかっちりした“作品”に思えた。

時系列の逆転など本作にとって、ベースでありながらほんのちょっとしたいたずらに過ぎない。その一見変わった形式はオゾンにとって2ストライクノーボールから外に大きく外す遊び球のようなもので、その語り口にこそ本領が発揮される。

私にとって本作一番の驚きは、観客との間の見事な一種のシンコペーション。“カラフル・オゾン”全開の本作でチャプターの終りは、『8人の女たち』のようにパロディでありながらも完璧で夢見るようなミュージカルシーンで宣言されるから、何回かのルフランに観客の側は心地よい身構えを始める。
けれども……。

映画的にもっとも甘美な共犯としての“裏切り”こそ、本作のハイライト。
物語は当然のようにうじうじしたものだから、目耳をふさぐ人は多いだろう。だが私にとってオゾン映画は物語などどうでもいいことで、もうほとんどは忘れてしまっている。憶えているのは、ラストシーンの見事さくらい。

テイストは大違いでも、同じフランス100年前のリアリズム作家の小説群を「人生喜劇」と訳したことは議論の的だ。100年後に生まれたこの映像作家の一連の作品は、喜劇とも悲劇ともいい難い不思議な時間をみる者に味わわせてくれる。
そしてほぼ1年に1本のペースで発表し続けるオゾンにあって、この作品が『ぼくを葬る(おくる)』の前にあったということについて、考えることは少なくない。みる側としては、06年度No.1候補のこの作品についても早く書かねば。

05年9月29日 確か日比谷シャンテ

(BGVはほとんどがMLB、NYY:SEA。がんばってくれランディ・ジョンソン。で、その続きは昨日の記事の影響でレディオヘッド "kid a"。あらためてきくとはやり発見多)
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映画にとっての「泣ける」

2006-08-20 16:35:56 | 映画
ちょっと前、以前に「日本語の歌詞」(http://blog.goo.ne.jp/quarante_ans/e/9137d88bec032434d17bfd5a4619429d)の件があった高校の同級生I君から、「泣ける映画5本あげてみてくれ」とメール。忙しかったので「後で」と返信するもさらに要求があったので合間に次の文を書いて送りました。
一部加筆。

………………
“泣ける”というと、どうしても日本映画が多くなる。
特にヨーロッパ映画はどんなに好きでも“驚き”が大きく、完璧さに打ちのめされるばかりの映画時間になることが多いのだ。

というわけで、日本映画からまず3本。

1)『二十四の瞳』(1954)
子ども、戦争、貧乏のシンフォニー。
泣けて泣けてしかたがないのは、金毘羅さまのうどんやでのまっちゃんの話。小石先生を子どもたちが迎えに行くシーンもどうしようもなくいい。
西部邁が「はっきりいおう、私は貧乏が好きなのだ」といっているが、どうしようもない貧しさはどうしてこんなに美しいのか。
黒澤の『赤ひげ』も、あの少年のエピソードがもっとも好きだ。黒澤なら『生きる』も。
しかしこういった表現には「時代」が絶対条件らしく、黒木瞳版は未観だが、田中裕子をもってしてまったく描けなかったというのがそれを物語る。

2)『誰も知らない』
子ども、貧乏、そしてこれも“戦争”かも知れない。
においたつようなリアリティと、背筋の立った姿勢が美しい。
当時劇場で3回みた。

3『愛と死を見つめて』
このような単なる“病気もの”がこれほどまで心に迫るのはなぜか。
リアルストーリーだから、というのは多分合っていない。おそらく、“時代”がその答えではないか。
「私に健康な日を三日下さい。最初の一日は……」

続いて思いついたのは2本のモノクロ米映画。

4)『酒とバラの日々』
このジャック・レモンが一番。
墜ちていく妻に「あなたも……といわれたシーンの迫力には泣いた。
ともに墜ちていく、だめになっていくことの、抗しがたい幸福の味。

5)『素晴らしき哉、人生』
希望、連帯、幸福に向けての闘争。
『二十四の瞳』と同じく、こうした価値観は普遍であって否定されてはいけない。

と、あまりひねりのない5本はしかたないところ。
迷ったのは「何を」といわれそうな『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、ニューシネマ世代では『カッコ―の巣の上で』、原作の力が強いが『ガープの世界』、ストレートだがこれも忘れられない『ライトスタッフ』、リアルということでは『こわれゆく女』、賛否激しいが爆発的な『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、フランスから1本、“正義”について考えて泣けた『野生の少年』、英国から映画のつくりに泣けた『マイ・ネーム・イズ・ジョー』も
………………
といっても、例えば生涯ベスト1~2、『気狂いピエロ』や『ゴッドファーザーシリーズ』のように、完璧なカット、完璧な音声が続く映画は、物語がどうこういうよりカットだけで泣けるもの。憂鬱なストリングスに乗って、スーツケースを頭に載せたアンナ・カリーナとベルモンドが川を渡るシーン、ニーノ・ロータの調べの上をパチーノからデニーロにオーバーラップするシーン。
映画にとっての「泣ける」。私はやはり物語からは遠いところにこそみたい。

(BGMはその『気狂いピエロ』のサントラ。作者アントワーヌ・デュアメルはよく知りませんが、この中の数曲は最初にみた時から20年以上経った今まで、何度頭の中に鳴り響いたことか)
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丁寧に人間関係が描かれた後でいい表情と音楽があれば~『歓びを歌にのせて』

2006-06-13 23:31:42 | 映画
昨夜の日本:オーストラリアには驚きましたが、川口はじめ日本DF陣はよくやっていたと思います。放送では、こんな時期に何をしているのかと周囲のファンの間で待望論も出ていた早野氏がJ-WAVE解説で驚き、NHKでは穏かな井原氏が興奮しているのを初めてみてほほえましくなり、ハーフタイムと終了後の岡田氏の的確なコメントに唸りました。私は日韓大会時、「日本代表がヨーロッパや南米のチームと真剣に試合してもらえるのはW杯しかないんですから」という、一般人の目を覚まさせる現場ならではの声が耳にこびりついて離れません。
しかし私としては、日本戦よりロシツキのミドル2発、コレル、ゴール後負傷退場も3戦目からOKなど、充実チェコの印象の方が強い4日目でした。それにしてもあのボールはそんなにすごいのか。

このところW杯の話ばかりだったので今日は2月にみたのにレビューを忘れていた映画です。

【introduction】
本国スウェーデンで大ヒットして、05年アカデミー外国語映画賞にもノミネート作。
故郷の田舎に帰ってきた天才指揮者が、地元の聖歌隊を何とかするというストーリーです。

【review】
思えばスウェーデン映画には、好きな作品が多い。
世界映画史の至宝ベルイマンの他では真似できない奇妙な作品群をはじめ、アメリカでも成功している『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』『ギルバート・グレイプ』のハルストレム、そして『ショー・ミー・ラヴ』『リリア・4-ever』の若手注目株ルーカス・ムーディソンがいる。ベルイマンのまったく普通に思える人々が抱く狂気とそれが展開する奇跡は別格としても、美しい田舎の風景にどうしようもない影を落とすハルストレム作、そして地方にいるからこそ見る夢が連れてきてしまう悲劇とそれを突き抜ける喜びが浮き沈むムーディソン作。いずれもめずらしくない人々の暮らしを丹念に描いて、映画でしか味わえない珠玉の世界を創造してすばらしい。
本作にしても、都市の生活に疲れ果てた有名人が純朴だが現代的な問題を抱える人々との交流を通して自分を取り戻していくというプロットはめずらしいものではない。
本作が人々の心を打つのは、やはりその音楽があってこそだろう。
『スウィング・ガール』は未観だが、“つたない音楽”を武器にした名作は古今少なくない。バンド映画の最高作と信じるA・パーカー『コミットメンツ』や、つたないとはいえないが味のある素人演奏が見事な効果を産んでいたマーク・ハーマン『ブラス!』などが思い出される。多分『スウィング・ガール』の元ネタと思うが、テレビでも数年前にみた小曽根真が高校生のジャズバンドを指導する日本テレビのドキュメントもそんな感じだった。一方、上質なエンターテインメントが売り物のアメリカ映画では、つたなさが魅力にはなりにくいのだろう。
本作にしても、DVや子どもの頃の人間関係といったエピソードはどちらかというと映画からきこえてくる音楽のために語られているといっていい。ちょうどひとりひとりの歌声を重ねていくように。
ダンス映画やスポーツ映画が肉体がついてしまう嘘を覆い隠すためにCGに走るのに比べ、つたなさも味になる音楽は映画向きに思える。ダンス映画も、例えば『ベルリンフィルと子どもたち』のようなドキュメントではリアリティがあるから、理由はほかにあるのかも知れないけれども。
そして本作のラストシーン。丁寧に人間関係が描かれた後でいい表情と音楽があれば、それだけでいい映画になるということが、登場人物の歌声と同様高らかに、そして力強く歌われる。

2月2日 伊勢崎MOVIXでOB・Y君と

(BGVは韓国:トーゴ。韓国力強い。そういえば、スウェーデンはサッカーも強いが、あのメンバーで点が取れなかったのが心配)
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“わかりようのなさ”と“わからないようのなさ”の間で~アン・リー『ブロークバック・マウンテン』

2006-06-06 10:17:40 | 映画
快調に4日連続更新。今日は4月にみた映画です。

【introduction】
アン・リー監督が05アカデミー監督賞を受賞。同性愛の純愛ストーリーということで話題になりました。

【review】
一体この映画は10年経つと、どんな風に語られるのだろう。
作品賞の『クラッシュ』が時間とともにつまらない映画に思えてきたのに対して、本作は思い出すほどに美しくなっていく。いい映画とはつまり、そういう作品なのだと思う。
もともと隅々にまで気が行き渡るアン・リー作品は好きだった。
やはり同性愛もので、カルチャーギャップを仄かな笑いで包み心温まる家族ものに変化させる過程が見事な『チャイニーズ・バンケット』、やはりカルチャーギャップが老いらくの恋の複線として効果的で,活劇にまで広がった構成がおもしろい『推主』、なんか事情の違う『グリーン・ディスティニー』さえ、もののけ姫が実写になったようなチャン・ツィイーの扱い方はチャン・イーモウのアクションよりずっとよかった。
アン・リーの視点には微妙な対象に向かいながら近づき過ぎず批評眼がぶれないでいる、抱きかかえつつ突き放すというすぐれた映画監督の資質そのものといえる。
そうした手法で描かれる1960年代アメリカ片田舎の同性愛。60年代生まれの日本人には時代背景にわからない部分はあっても、テーマそのものが普遍的だからわからないようがない。
多くの観客は性別に関わらず、主人公らの妻たちの立場で本作をみるのではないか。
そこで良識からは外れつつこの世でもっとも美しい世界を生きる主人公たちのブロークバックバック・マウンテンに嫉妬しながら、イニスの釣り道具に思いをぶつけるアルマの苛立ち、暮らしがすさむとともに見かけだけ華やかになっていくジャックの妻ラリーのさみしさを体験する。
そしてそんな風にリアルな彼女たちの良識のシーンが消えると、ズーチャッチャ、チャーン、チャーン、チャラチャーン、とワルツに乗って画面上に広がるブロークバック・マウンテン。「ウィスキーの川が流れていて……」というラリーのセリフはパラダイスに決して行くことのなかった悲しみに満ちていて、同時に見守る観客には画面の上でそれを目にはできるという映画というスタイルの奇妙をまざまざとみせてくれて見事だ。
そしてブロークバック・マウンテンの二人の、観客にはどうしてもわかりようがない気持ちのぶつけ合いの数々。それは観客の単純な共感を遠ざけ、映画的な謎を謎として残したまま、ズーチャッチャ、チャーン……と美しい稜線だけを心に刻むことになる。
“わかりようのなさ”と“わからないようのなさ”。その間で揺れ、心にブロークバック・マウンテンがほしくなる、どこまでも映画らしい2時間ちょっとの夢。

4月13日 伊勢崎MOVIXにて
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“定型”の効果と限界~ポール・ハギス『クラッシュ』

2006-05-13 01:50:16 | 映画
やはりずいぶん開いた映画レビュー。追いつくのは難しそうですが、とにかくどんどん書きましょう。

【introduction】
本年度アカデミー作品賞。前年の『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家ポール・ハギスの監督作で、LAが舞台の「クラッシュ」をキーワードにした群像劇です。

【review】
表現には、時間とともに思いが深まるものと反対に薄まってしまうものがありますが、私にとって本作は後者。当日の日記には「アカデミー作品賞は十分」と書いてありました。けれどもそれは今、アイロニーにさえ読めます。
ひとつひとつのエピソードは申し分ありません。意外な展開があって、どうしようもない何かを抱える登場人物たちがそのドラマの中で変わっていき、それを突き放さずに眺める“映画の視点”が存在する。J・デュヴィヴィエの『巴里の空の下セーヌは流れる』を思い出し、51年のパリと50年以上後のLAの違いということも考えました。
といってもデュヴィヴィエはいささか古過ぎるので、本作でよく引き合いに出される『マグノリア』と『トラフィック』、それから構成はちょっと違いますが複数のストーリーが交錯する『アモーレス・ペロス』と比べてみましょう。
このうち『トラフィック』と『アモーレス・ペロス』は最近みた中でももっとも好きな映画で何度も誰かに語るうちに思いが深まり、一方の『マグノリア』や本作『クラッシュ』は最初の印象は次第に薄れています。
その違いを考えて、“定型”の扱い方ということに思い当たりました。
例えば『トラフィック』での刑事の静かな怒りや絶望、『アモーレス・ペロス』の元革命家の罪悪感や後悔は、もちろん“定型”としての刑事や友人、革命家や父として描かれていますが、それはストーリーが進むとともに意外なかたちに深まり、ついには思いも寄らない方向に動いて、それが他にはない感動につながっています。
これらに対して、本作での父の介護を続ける悪徳警官、母と彼女が大事にする不良の弟との葛藤に悩む優秀な刑事の兄、『マグノリア』の自己啓発マッチョやクイズ少年は、“意外な人物像の定型”に寄りかかり過ぎていて、深まることがなかったように思われてしかたありません。物語には欠かせない“定型”の効果と限界。そんなことを考えさせられました。『ミリオンダラー・ベイビー』をみた時に感じた物足りなさの正体は、これだったのでしょうか。
ドン・チードル他豪華俳優陣は見事。

3月16日 新宿・武蔵野館にて

(BGMは本作のエンディングでかかっていたステレオフォニックスの01年作 "just enough education to perform" でした)
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