森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

人の用い方----善悪の分ち具合⑲・・・水雲問答

2024-08-03 11:27:19 | 森の施設

 

   人の用い方---善悪の分ち具合⑲・・・水雲問答

 

雲    善悪をあまりはっきり分けると、こういう世紀末的時代には、悪党の怨みをかい、

    物事を破壊してしまうことがあります。しかしまた明白に分けないと信賞必罰が行な

    われない。一体どの程度に区別したらよいでしようか。

 

水    善い事は善い、悪い事は悪いと断定すれば、黒白がはっきりする。これは誰もが納

    得する正道であります。ところが一面において、黒白をはっきりしたために失敗して

    怨みをかうことがあります。一時を糊塗して切り抜けることはできますが、最後には

    賞罰がはっきりせず、そのために君子派と小人派にわかれて争うようになるものです。

 

     人と識⑳

雲    人間は才智・学識というようなものがすぐれておっても、正しい価値判断、すなわち

    見識がなくては天下のことは片付かないと思います。しからばその見識を進める方法は

    一体どうすればよいかと申しますと、学問よりほかに方法はありません。といっても単

    なる知識の学問では駄目であって、体験叡智の学問でなければなりません。その場その

    場の理解や解釈ではなくて、活きた先をも見通す識がないと大事はできますまい。見識

    があって初めて賢哉明断、すなわち裁縫師が布をたつようにあきらかに断定することが

    できるものです。

水    見識は才学より上であることはお言葉のとおりです。人間の才というものは機械的な

    ものであり、学もまた機械的なものであります。もっとも同じ見識があるといっても、

    生まれつき勝れておって、見識のある人もあれば、正しい意味の学問によって見識の出

    来た人もあって、決して一様ではありません。ことに生まれつき天分が優れて見識があ

    り、その上学問をした人-----これは滅多にありませぬが-----この人には百千年にわたる

    大事なことも相談してよろしい。天分が足らずようやく学問によって見識を得たという

    人は、どうかすると、判断に偏るところがあるものです。

 

 

 

 

 

 

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