ささやき・つぶやき・備忘録

木漏れ日の下で~安らぎをもとめて~
花風景館 ~自然を求めて~
SNOW&み~♪の備忘録です。

仙台七夕祭りの想い出3

2008-08-06 | teacup
七夕飾りの吹流しは、何を意味するのですか。着物や、がま口、とあみが飾りの源流とはどういうことですか。
 
 では、お答えします。
 教え子が音楽の教師をし、研究をしたことについてたのしく聞かせてもらったことがありますので、その内容が、答えの前段にもなりますので、ご紹介します。  
 
1)七夕という漢字は、中国で書いていたもので、昔日本(仙台?)では、「棚機」と書いてたなばたと読ませていたのだそうです。昔は、機織りを上手にできるということがよい女性の一大条件だったのです。ですから、7月7日には、女の子どもは、小さな織物をして、笹の葉に結んで、「私は、こんなに上手に織物が出来るようになりました。見てください。もっと上手になるようにお守りください」と言って
天の織姫様に祈ったと言うのです。 織物の神様は、川なので、女子は、織機を棚に載せて、川辺に持って行って、そこで感謝しながら織ったことから、「棚機」と書くようになったということです。 いつ七夕とかくようになったかは、わかりませんが、1600年ごろには棚機と書かれたことは確かです。
   
  伊達政宗が1602年に岩出山から、仙台に城を築きました。侍の町、鍛冶屋の町、大工の町,旅籠の街、などと、職業別に街を区切ってすまわせました。城を見守る八幡町、お寺の町なども別にして
統制のとれた城下町をつくりました。
  このような町が出来ても、棚機祭りを、各家々で祝いました。女の子は、1)で述べたように短く織った布を、男の子は、習字の練習をして和紙にかきました。「いろはにほへど」とか「いろは」と練習して「天の神様、私は一生懸命習字をしました。見てください。もっと上手になるようにお守りください」と真剣におがんだそうです。大人は、庭先に、甘いものや、野菜などの料理をそなえました。
 子ども等の作った織物や、習字を飾った,笹の葉は、棚の上や天井にしっかりと飾られたのだそうです。だんだん、庭先に飾ったと言います。

 伊達政宗は、その様子をとても好みました。そして次のようなお触れをだしました、町のの辻に貼り付けました。
 「棚機とお供えは、7月6日にみんなで飾りなさい。7月7日には、それらの全てに感謝をして、近くの川にながしなさい」
 そうして、仙台の人たちは、そのお触れを守って棚機を祝う習慣が作られたと言います。

  ほら、聞こえてきました
 笹の葉さらら
 軒端に揺れる
 お星様きらきら
 金銀砂ご

2)七夕の飾りは次のものから成り立っていたのです。今は、自由です。
 ア、 笹の葉
 イ、 吹流し。(長い色紙で織姫が、一年織るための糸を象徴する 姜牛と会うまで)
 ウ、 紙衣装。(上記の織物から、だんだんに紙の着物になったようです)
 エ、 折り鶴。(長寿の象徴)
 オ、 巾着。 (繁盛の象徴)
 カ、 短冊。 (天の川にかかわる詩を詠み書いた紙)
 キ、 投網。 (大漁の象徴)
 ク、 くずかご。(節約の象徴)
 以上なのですが、これを全部みたされなければならないことは無いに決まっています。
 でも、原点に帰って、やってみたいなと願ってやり、飾りに参加することも、たのしいものではないでしょうか。年々、見る目に豪華で見事なものです。しかし、莫大な金がかかるというもんだいはありますね。
 


コレを読んで織姫ゆかりの神社をなぜ機物神社とゆうのかやっとわかったような・・・きっと関西も同じなんでしょうね

七夕のことについて今まで知らなかったこと考えてもみなかったことがわかりました。 
先生、ありがとう♪

仙台七夕祭りの想い出2

2008-08-06 | teacup
「織姫のお父さん神様は、7月7日の一回だけ会うことを許されたのに、どうして仙台は、一ヶ月遅れにしたのでしょう。」
  
 お答えさせていただきましょう。
 もうお分かりのように、時間の選択権を持つ宮城県の人々は、SNOWさんのおっしゃるとおり、太陽暦を選んだのだろうと思います。しかし、ある本によれば、東北は北から南へ、「お祭旅行」出来るように青森のねぶた弘前のねぷたそして、秋田のかんとうに日程をあわせたのだということを
読んだことがあります。
 それはいつのことかとお聞きにならないでください。今のところ私はわからないのですから。

 では、今、どうして七夕と言えば仙台と言うまでになったのかについてお知らせします。
これは、何十年か前に朝日新聞か読売新聞かどちらかで読んだことです。詳しくは覚えていませんが、
私がNHKの文化センターの講師をしていたので、この記事を英語にして取り扱ったものなので覚えている分だけ書きます。
 
 1945年。敗戦の年の夏のことです。仙台の町は、P29の爆撃で焼け野が原になっていました。焼け残った商店街では、闇の品をそろえたりして、再建に立ち上がろうとしましたが、人々はすっかり疲れきって、なんら効果がありませんでした。そのとき青葉通りと一番町の角にあった「森天祐堂」のご主人が立ち上がりました。そして、近くのお店の人々に呼びかけたのです。
 「今年から、七夕祭を仙台の名物になるまで作り上げて街をにぎやかにしよう。きっとたくさんのお客さんが集まってくれる」
必ずしも大きな声ではありませんでしたが、彼は、決心して、あちらこちらの人々に協力を求めました。
8月6日が近づいてくるのに、七夕つくりをする人も、材料も集まらず途方にくれていました。すると、仙台の南の方の村である、七郷とか六郷の野菜をリヤカーで運んで来て売って歩いていた老人が言ったんです。
 「よーす。ほだらば、おらえの たがやぶ(竹やぶ)がら、たげ 切ってきてけっか}
この一言で、その近所の人たちも協力して、太くて、長い竹が十分に集めてリヤカーで運んできてくれたということです。
 すると、器械のスタートボタンを押したかのように、紙屋さんは紙を、文房具屋さんは絵の具や、のりを、金物屋さんもロープなどみんな供出してくれたのです。
 こうして終戦の翌年から、ささやかではあっても人寄せと意気を盛り上げる仙台七夕まつりが再開されるようになったのだと言う話です。
 行政が声がかけたのではないと言うことが感動ですよね。仙台の多くの人が協力して出来上がったのもいいですよね。こうした市民の力は、今日本いや世界にまで広がっているのです。
 訪問客をよびよせたり、事前に宮城県中の学校が参加して、戦争に反対する声を叫ぶ吹流しなんかあったりして、すごいです。また、この飾りもあちらこちらに仙台からの使節として働いているらしいです。お金のかかる吹流しの飾り。その使い方ももっともっと工夫がほしいのかも。


コレを読んで、終戦前の物資の乏しい時の七夕によく紙や絵の具やのりが集まったものだとおもいます。
仙台の人たちの情熱を感じます。だからこそ現代まで続いてるんでしょうね。

でも毎回の疑問ですね。終わったあとの吹流しの行方。施設に送られるって聞いたけど。。。
送られた施設ではどうしてるんでしょう?

仙台七夕祭りの想い出

2008-08-06 | teacup
今年も仙台の七夕まつりの季節がやってきました。 今までは仙台のお友達が二人いたんだけど、一人はネットをやめたし、もう一人は子供さんの病気でブログをず~~とお休みしたはります。
仙台までは行けないから毎年写真を楽しみにしてたんだけど。。。それももうかなわぬ夢となりました。

去年、一人の人がブログに仙台七夕は着物と網、それにがま口をつけるのは七夕の源流だと書いておられました。
なんで着物と綱とがま口なのか聞いてみました。
それとなんで仙台は普通の七夕(7月7日)より一ヶ月遅れなんでしょう?
そうなると年に一回しか会えないと思ってた織姫と彦星は7月7日と8月6日の年に2回会ってたことになんでしょうね。
今更ながらの私のくだらない幼稚な疑問に丁寧に答えてくださいました。 今は定年退職されていますがン十年。高校の教師だったそうです。

以下はコピーです。 去年コピーをしてもいいですか?って許可を貰ってメモ帳に入れておいたのを今取り出しています。


【日本には3つの時間が流れている。】
「どの神話でも時間を生み、暦によって時間を司るのは、神である。もし、古い神と新しい神が争って,古い神が争って古い神が破れれば、古い神の時間は新しい神の時間にとって代わられる。これが改暦である。 ところが、日本では、明治六年の改易の祭にはそれまで千三百年近く使われてきたつきの暦があっけないほどすんなりと太陽の暦に切り代わってしまった。」

ある論文の中から引用すれば、この改暦のとき、時の人福沢諭吉は次のように言ってこの提案をバックアップしたと言う暴露エピソードもある。
「太陽暦には、閏年が無いため、、経営上の損失が少なくて済む」(経済連から何かいただいたから、後押ししたとは書いていませんでした)
「旧暦では、五年に二回の割合で一年が十三ヶ月ある閏年がめぐってくる。
この閏年には、会社の社長は従業員の給料を十三回払わなくてはならないが、太陽暦だと閏年が無いので一年は何時でも十二ヶ月である。給料も十二回でいいという話である。福沢でさえそれくらいの認識だった」(従業員には当時、組合も無かったし、体制の間に漂うだけの日本人は、損をすると言うことにも気づくことは無かったのでしょうね。)

こうして「明治六年、旧暦は太陽暦に切り替えられたが、それまで使われていた旧暦と太古の暦に新たに太陽暦が加わっただけのことだった。 こうして、三つの水流が一つに合わさって流れるように三つの時間が流れはじめた。」(ここがポイント)
 (次の論はかなり笑うし、風刺てきである。でも、自虐とまではいえません。しかし、世界的には分かってもらえない日本人像が垣間見られます。読み逃しのありませんように。 すぐ終わりますからね。)

「日本人の生活の中を三つの時間が流れていると言うことを、空間にひきうつすならば、日本のどの町や村にも神社がありお寺があり、教会があるようなものではなかろうか。日本人は正月には神社に初詣をし、教会で結婚式を挙げ、お寺で葬式をしても何の疚しさも感じなければ矛盾しているとも思わない。、この神々や諸仏の分業体制を当然のことと思っている。」(この三つを、しっかりと守り抜き、日本の伝統行事を子孫につなげようと言う人だと尊敬されがちですよね。どんなに学者も政治家もこの三つをこなして国民のもらんたらんとしていうのですから)

( 次は深刻です。現代のキリスト教、ユダヤ教とイスラム教の軍隊の戦いの一面を言いありm当てている様でもあります。ユダヤ人の金持ちがアメリカにたくさんいると言う意味でも、関係は深刻とおもわれます。)
(この本では、こうしたことは、日本人がもともと八百万の神々をまつる人々だったからと言って)
 「仮にユダヤ教やキリスト教やイスラム今日のような一神教の国であれば、神は、自分以外の神を認
めず、もし別の神が現れれば、於呂墓相とするし、逆に敗れればほろぼそうとする。その結果根絶やしにされる」(オサマービンーラディンはイスラム教というから、聖戦がまかりとおるのでしょうか。、日本
の特攻隊はこの教えに従ったのですか)
 (日本の八百万の神々は、寛容だから、悪い奴も根絶やしにはせず、悪い奴を神社に祭ったりする。これを寛容と言わず、いい加減と言う人もいますね。権力者がOKを何でもOKと従う日本人の遺伝子?)
 「この八百万の神々への信仰が複数の宗教を何の疚しさも感じることなく受け入れるのを可能にしているのと同じように、、複数の時間を受け入れるどじょうともなった。会社や学校、電車や飛行機など表向きは太陽暦でうごいているものの、奥向きには、旧暦や太古の暦が、今尚どっしりと根をおろしている
この入り組んだ時間の投げれ野中で暮らしていて、何の不都合も無いどころか、不思議とさえ思わないのが不思議でならないなどと言うと帰って不思議がられる」

(次は最後の引用です。お許しください長くなって。でも、読んでーーーー)
「太陽の時間と二つのつきの時間を日本人はさながら電車を乗り換えるように、自在に乗り換えながらせいかつしているのでなかろうか。複数の時間が共存すると言うことは、その時々にどの時間に沿ってこうどうするのか、その選択権が人間の手に与えられていると言うことでもある。日本は、時間の選択性を取っている社会なのである。だからこそ、正月は太陽暦で祝っても、お盆は月遅れで営む。昼は太陽暦にしたがって会社で働いたあと、夜は太古の暦に紛れ込んで中秋の名月を眺めることができる。」

 以上です。いかがでしたか。「あいまいな日本」と言って、政治家につまはじきされている大江謙三郎を守る会でも作りたいですよね。あいまいを許せるのも日本人だとすれば、仙台の商工会議所が七夕祭を8月7日にしたことも、8月6日に大々的に花火を挙げるのも、時の鶴の一声が選択権を持っていたとしか応えようがありません。
 結論、誰がいつ何回織姫と牽牛の逢う瀬を祭ろうと、太古の星星の決定は、一回と永遠に変わらないという結論になりましょう。