父と箱根に行って来ました。
箱根レポ 最終回です。
『日程』
10月17日 ≪新幹線≫博多→名古屋→小田原
≪小田原電鉄≫小田原→箱根湯本
≪箱根登山鉄道≫箱根湯本→強羅
10月18日 ≪バス≫強羅→仙石原→強羅
≪ケーブルカー≫強羅→早雲山
≪ロープウェイ≫早雲山→桃源台
≪海賊船≫桃源台→元箱根港
10月19日 ≪箱根登山鉄道≫強羅→箱根湯本
≪小田原電鉄≫箱根湯本→小田原
≪新幹線≫小田原→名古屋→博多
レポは、
その1
≪レッツゴー芦ノ湖編≫
その2
≪箱根の関所編≫
その3
≪箱根彫刻の森編≫
その4
≪小田原城編≫・・今日です。
・・へと、続きました。
旅の最終日(10月19日)は、快晴です!
箱根登山鉄道に乗り 宿のある強羅ともお別れです。
この箱根登山鉄道は、急な斜面を運行せねばならないので、
スイッチバックを繰り返して、上り下りします。
≪箱根登山鉄道≫
・・スイッチバックとは、険しい斜面を登坂・降坂するため、ある方向から概ね反対方向へと鋭角的に進行方向を転換するジグザグに敷かれた道路又は鉄道線路である。そうしたスイッチバック設備(道路、鉄道線路)を走行する運転行為をスイッチバックと呼ぶことがある。
小田原電鉄・・・・・・・・・箱根登山鉄道・・・・・・・・・箱根登山ケーブルカー・・・・・・・・・箱根ロープウェイ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・スイッチバックの箇所
途中、下の方から登って来る電車とすれ違います。
「いいなあ~あの電車に乗ってるお客さんたち! 強羅へ向かってるんだあ~。
これから立派な富士山を見るんだろうなあ~。」
箱根湯本で小田原電鉄に乗り換え、小田原へ。
≪小田原電鉄≫
小田原駅に着きました。
これは、↓小田原のマンホール。
富士山、箱根山、小田原城が背景に旧東海道の「酒匂川の渡し」をデザインしたもの。
「小田原城へは、どう行ったらいいですか?」
「近くです、歩いて行けますよ。」
見ると、ほんとうに、すぐそこに天守閣がほら。
けど、小高いところにそびえています。
「タクシー乗る?」「うん、タクシー乗ろう」
なにぶん、旅の最終日ですので。
さあ~小田原城です。
・・小田原城は、室町時代末期に扇谷上杉家家臣の大森氏の城であったが、伊豆国を支配していた北条早雲により奪われ、後北条氏五代約百年間に渡る支配の本拠地となった。
北条氏によって城は拡張され、城下町を含む周囲約9kmの惣構によって城域が囲まれる超巨大な堅固な城となった。その堅固さは、上杉謙信・武田信玄による小田原城攻めを共に退けている事から証明される。しかし時代は天下統一に傾き、豊臣秀吉による関東攻めが行われ、この時も北条氏は小田原城に篭城するが、約三ヶ月後に降伏、開城した。
戦後は徳川家康の関東入封によって家臣・大久保忠世が城主となった。子の忠隣が失脚したことにより一度は廃城とはったが、再び改修され城主として大久保氏が復帰した。江戸時代中には富士山の噴火や地震に見舞われ、建物に大きな被害が及び天守も倒壊したが、復興により再建された。
北口から、入りました。
順路に沿って、歩きます。
堀の覆土からは小田原市内初の埴輪(壺形埴輪)が出土したそうですよ。
発掘調査が行われていました。↓
・・今回の調査では、昨年度調査で確認された中世小田原城の本曲輪北堀、三味線堀の延長部が発見されました。本曲輪北堀はこれまでの調査成果から、27m を超える幅を持つ巨大な堀だったことが判明しました。当地域に古墳の存在があったことを窺わせます。
≪天守閣≫
1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の3部構成からなります。
大天守は見た目3重ですが、1重目は2階に別れており、4階建の天守となります。
これは大きな天守を嫌がる幕府に対する配慮です。
天守のみの高さは27.2m天守台石垣高さは11.5m、総高38.7m、
本丸広場の海抜は29.7m、合わせて海抜約70mです。
ネット画像
天守の意匠には宮大工の寺社建築の技術が取り入れられていると言われます。
1重の屋根には出窓の上に切妻破風と千鳥破風が施されています。
出窓は3箇所に施されていますが、石落しはいずれも再現されていません。
2重目の屋根には比翼千鳥破風と軒唐破風が、
入母屋造の屋根には入母屋破風と軒唐破風、鯱が施されています。
天守閣に登りました。
ちょっと 父の足取りがおぼつきません。
えっちら、おっちら。がんばれ。がんばれ。
東の方
北の方
西の方
南の方
四方を見渡せて、いい気持ちでした。
現在の小田原城天守は昭和35(1960)年に市制20周年の記念事業として造られました。
宝永3(1706)年に造られた天守をモデルに東京工業大学藤岡道夫工学博士が設計、
本来無かった高覧付廻縁が追加された為「復興天守」と呼ばれます。
≪常盤木門≫
本丸の正面に位置し小田原城内で最大の門、明治3年まで現存しました。
現在の門は昭和46年(1971)再建されたものです。
原型は元禄16(1703)年の大地震で崩壊した後、宝永3(1706)年に再建されたもの。
江戸期小田原城の中でもっとも堅固な門で、本丸正面に位置します。
多門櫓と渡り櫓から構成される枡形構造の門で、
江戸時代初期の古地図にも描かれています。
こちらは櫓門を正面から見たところです。
≪銅門 あかがねもん≫
二の丸と馬屋曲輪の出入り口にあります。
石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる堅固な門です。
二の丸の表門で扉の飾り金具に銅を使用したことから呼び名がつきました。
↑銅門土塀模型です。
昭和58(1983)年から行われた発掘調査の成果や、
古写真、絵図などを参考にして平成9年に再現されました。
銅門に架かる住吉橋は途中までが土橋、銅門手前が木橋となります。
発掘調査により橋台の石積みと松丸太の橋脚が立った状態で見つかっており、
柱穴は埋蔵文化財として砂で埋めその上に現在の柱の基礎を置いたとのこと。
こうして住吉橋は平成6年に再現されました。
内仕切門は石塁上の土塀より下方に門を作る埋門の形式を取ります。
土塀には敵を射る為に狭間(さま)と呼ばれる穴があります。
橋を渡ろうとすると正面の左右の狭間から射られてしまいます。
≪馬出門≫
平成21年に再現されたばかりの新しい城址公園の正面玄関です。
馬屋曲輪の北部に位置し二の丸の正面に位置する重要な門として、
江戸時代の寛文12(1972)年に枡形形式に改修されました。
手前には馬出門土橋(通称めがね橋)がかけられており、馬出口という呼び名もあったそうです。
馬出門は内冠木門と合わせて2つの門と、
その周囲を石垣と土塀で四角く囲った枡形形式の総称です。
ネット画像
馬出門はそれぞれの控柱に屋根のつく『高麗門』という形式の門です。
絵図や同時期に作られた江戸城の門から判断し『高麗門』と断定されました。
木材は門扉にはケヤキ、屋根の下地はサワラ、
土塀の控柱にはクリ、その他にはヒノキが使用されています。
門の鏡柱と控柱には耐震性向上の為、斜めに筋違いを施されています。
江戸城にも安政地震(1855)以降に施されている為、これに習ったとのことです。
土塀の狭間には三角形の鉄砲狭間と四角形の矢狭間が、
1間(約1.8m)の間隔で配置されています。
土塀を支える柱に関しては痛んでしまった場合も考慮し、
容易に交換ができるようにソケット式になっているそうです。
瓦は発掘調査で内冠木門の瓦溜からの出土品を参考に忠実に再現されました。
軒丸瓦には『三つ巴文』、軒平瓦には『唐草文』、
鬼瓦には大久保家家紋の『上り藤に大』が使われています。
馬屋曲輪から内冠木門を望みます。
門の鏡柱と控柱には耐震性向上の為、斜めに筋違いを施されています。
江戸城にも安政地震(1855)以降に施されている為、これに習ったとのことです。
↓この「イヌマキの木」は小田原市の天然記念物に指定されているという由緒ある木です。
樹高15メートル、幹回り4.5メートルもあります。
左回りにねじり上がっていて、近くで見ると圧巻です。
パワースポットとして知られています。
説明は、
小田原城街歩きガイドより。
父は、今年82歳。
よく食べて、よく飲んで、元気です。
東京まで飛行機で行き、それから戻るより、
新幹線でのんびり行ったほうがいい。との
父の要望を受け入れた交通手段。
博多から宿のある神奈川県足柄下郡箱根町強羅まで
新幹線→小田原電鉄→箱根登山鉄道と、乗り継いでの約6時間。
のんびり。にしてはちょい、長い時間かかりましたが、
父は、満足だったようです。
とても充実した旅でした。
なにより、3日間も留守を引き受けてくれた主人に感謝です。
いつまでも、長生きしてよ、おとうさん
ますます足腰、鍛えて、
さあ~次は、どこに行くん?
↓小田原提灯も買って帰りましたよ。旅の思い出の一つに加えます。
~エッサ エッサ エッサホイ サッサ
~お猿のかごやだ ホイサッサ
~日暮れの山道 細い道
~小田原提灯ぶらさげて ソレ
~ヤットコ ドッコイ ホイサッサ
~ホーイ ホイホイ ホイサッサ~♪
箱根報告
その1
≪レッツゴー芦ノ湖編≫10月24日記
その2
≪箱根の関所編≫10月25日記
その3
≪箱根彫刻の森編≫10月30日記
そして今日、その4≪小田原城編≫
最後まで ご精読~ほんとうにありがとうございました。
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赤が神奈川県
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ピンクが小田原市
小田原城内図
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・現在地(北門)から入りました。
箱根
10月17・18・19日訪問
・・・ 今日はこの辺で