東野圭吾さんです。
すごい情報量。
その道を卓越した専門家のよう。
この物語のテーマは、「臓器移植」です。
タイトルの人魚は、そう
人間ではなく、人魚となってしまった女の子のお話。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/fe/bdfeecda016b49e169ba696a5fe7ee43.jpg)
【
表帯】
答えてください。
娘を殺したのは私でしょうか。
作家デビュー30周年記念作品
愛する人を持つ、すべての人へ。
【
内容(「BOOK」データベースより)】
娘の小学校受験が終わったら離婚する。
そう約束した仮面夫婦の二人。
彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前。
娘がプールで溺れたー。
病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。
そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。
過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか。
愛する人を持つすべての人へ。感涙の東野ミステリ。
こんな物語を自分が書いていいのか?
今も悩み続けています。 東野圭吾
【
目次】
プロローグ
第一章 今夜だけは忘れていたい
第二章 呼吸をさせて
第三章 あなたが守る世界の行方
第四章 本を読みに来る人
第五章 この胸に刃を立てれば
第六章 その時を決めるのは誰
エピローグ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/20/086560e7c64ca31eb0aca66c1006350a.jpg)
「脳死」は人の死なのか。
とても難しいテーマだと思います。
それは、一つの「形」であって、「答え」ではないことも、作品はしっかりと語っています。
東野さんの葛藤が 垣間見えます。
この作品は、ミステリーと銘打ってありますが、
いままでの東野さんの作品とは、趣きが違います。
東野作品の醍醐味、伏線も見当たらず、
犯人がいない
誰一人、罪をおかす人間は、登場しません。
プロローグがあり、エピローグがあります。
読み進めるうちに、あの横山秀夫さんの「半落ち」を思いました。
死んだ息子の臓器を提供した父親が、提供先の少年を探し出します。
息子の臓器がその体内で息づく少年。
少年は、「僕にはおとうさんが二人いると思っています。」と、一言。
結局
ここ
なんですよね。
この一言です。
脳死と植物状態の違いはなんなのでしょう。
■脳死(全脳死)
・脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な停止
・回復する可能性はない(一般には心臓は動いているが、人工呼吸器を装着しても通常数日以内に心臓は停止してしまう)
・自力で呼吸できない
■植物状態
・脳幹の機能は残存(あるいは一部残存している)
・まれに回復する可能性がある
・多くは自力で呼吸している
物語の中の女の子は
脳死と判定されますが、両親の愛で、植物状態まで回復させます。
愛によって、そのような姿になってしまった女の子
その姿が「人魚」です。
はたして それが、愛といえるのか
と、
この作品は問いかけてきます。
「人の死」をどの時点で判断するか
それはもう人ではなく神さまの領域だと思います。
当の本人も、家族も、医者も、
神さま近づくことはできても、神さまにはなれません。
・・・![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/13/11b418db541c65652d84c33fe8058db1.jpg)
すごい情報量。
その道を卓越した専門家のよう。
この物語のテーマは、「臓器移植」です。
タイトルの人魚は、そう
人間ではなく、人魚となってしまった女の子のお話。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/fe/bdfeecda016b49e169ba696a5fe7ee43.jpg)
2015年11月20日 第一刷発行
【
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/bf/8e0e5b4bdf3f56bb2e1e570c1bfc9814.gif)
答えてください。
娘を殺したのは私でしょうか。
作家デビュー30周年記念作品
愛する人を持つ、すべての人へ。
【
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/bf/8e0e5b4bdf3f56bb2e1e570c1bfc9814.gif)
娘の小学校受験が終わったら離婚する。
そう約束した仮面夫婦の二人。
彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前。
娘がプールで溺れたー。
病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。
そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。
過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか。
愛する人を持つすべての人へ。感涙の東野ミステリ。
こんな物語を自分が書いていいのか?
今も悩み続けています。 東野圭吾
【
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/bf/8e0e5b4bdf3f56bb2e1e570c1bfc9814.gif)
プロローグ
第一章 今夜だけは忘れていたい
第二章 呼吸をさせて
第三章 あなたが守る世界の行方
第四章 本を読みに来る人
第五章 この胸に刃を立てれば
第六章 その時を決めるのは誰
エピローグ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/20/086560e7c64ca31eb0aca66c1006350a.jpg)
「脳死」は人の死なのか。
とても難しいテーマだと思います。
それは、一つの「形」であって、「答え」ではないことも、作品はしっかりと語っています。
東野さんの葛藤が 垣間見えます。
この作品は、ミステリーと銘打ってありますが、
いままでの東野さんの作品とは、趣きが違います。
東野作品の醍醐味、伏線も見当たらず、
犯人がいない
誰一人、罪をおかす人間は、登場しません。
プロローグがあり、エピローグがあります。
読み進めるうちに、あの横山秀夫さんの「半落ち」を思いました。
死んだ息子の臓器を提供した父親が、提供先の少年を探し出します。
息子の臓器がその体内で息づく少年。
少年は、「僕にはおとうさんが二人いると思っています。」と、一言。
結局
ここ
なんですよね。
この一言です。
脳死と植物状態の違いはなんなのでしょう。
■脳死(全脳死)
・脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な停止
・回復する可能性はない(一般には心臓は動いているが、人工呼吸器を装着しても通常数日以内に心臓は停止してしまう)
・自力で呼吸できない
■植物状態
・脳幹の機能は残存(あるいは一部残存している)
・まれに回復する可能性がある
・多くは自力で呼吸している
物語の中の女の子は
脳死と判定されますが、両親の愛で、植物状態まで回復させます。
愛によって、そのような姿になってしまった女の子
その姿が「人魚」です。
はたして それが、愛といえるのか
と、
この作品は問いかけてきます。
「人の死」をどの時点で判断するか
それはもう人ではなく神さまの領域だと思います。
当の本人も、家族も、医者も、
神さま近づくことはできても、神さまにはなれません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/27/42583ca56813acc3b6b35801817e5778.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/b3/0ca7a2095754e2e2182c0a187322301f.gif)
脳死って内臓は生きているんですよね。
だから臓器移植ができる。
受け入れられるかと聞かれたら、きっと受け入れられない。
したっけ。
臓器移植踏み切れないだろうと思います。
わかるような気もします。
先日
ニュースで移植を待つ少年が、脳死と判定され
今度は、逆に
臓器提供者にまわった
と、
いう話を、聴きました。
複雑・・ですね。
冷たくなって
死
を、認めたいですよね。
心情として。