北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

北海道旅行記Ⅲ・旭川~石北峠編

2016-04-10 15:15:00 | 旅行
1981(昭和45)年6月23日火曜日、北海道旅行3日目の旭川。

夜中に目を覚ましたものの、再び寝て気が付いた時には8時を回っていた。
今日の予定は層雲峡経由網走で224㌔の道程である。天気は朝から小雨模様。
私は晴れ男だが、彼の母親は雨女という。それが当たっているから面白い。

朝食には鮭と大きな筋子等の北海道の旨いものをごちそうになってから、彼の母を伴って10時10分出発して旭川駅まで送る。札幌まで急行で行くと言う。

車にガソリンを入れ、旭川からややはずれた高台にあるユーカラ館に行く。
ユーカラ織の展示館で衣類から、アクセサリー、家具までユーカラを使用している。素晴らしい芸術を見たと思って館を出ると、そこは土産売り場だった。

団体客が土産物をあさり、混雑で大変な騒ぎである。私も騒ぎにつられ何か買わなくてはとあせり、絵葉書とコースターを買った。彼曰く「最高のデートコースがあるとは知らなかった」と。

次はアイヌ記念館。場所はやはり旭川市内でアイヌ人達の狩猟の道具等が展示されていた。

雨は降ったり止んだりしていた。

次は「比布」の駅である。ちょっと前TVCMで「ピップエレキバン」でこの駅が出て有名になったらしい。
(出演した当時ピップ会長の禿げたお爺さんの顔が思い出される)
A君はわざわざ連れて行ってくれたのだ。

早速、駅員にことわり、中に入り線路を渡って例の駅名のところで「比布」を指し記念撮影をした。

時刻は12時40分。腹も減ってきた。考えて見れば北海道へ来て3日目だが、未だラーメンを食べていない事に気が付いた。
昼は次の目的地とした。雨はいよいよ激しくフロントガラスにたたきつけていた。

雨は時折強くそして弱くを繰り返しているうち、行く手は段々と晴れ上がって来た。
母を降ろしたので晴れるぞと二人で大笑い。
やがて「ポンモシリ」へ着く。

もう1時を回っている。早速昼食だ。やっとラーメンを注文する。
醤油味で、味は薄かった。ラーメンの上の具はほとんどない。
これは旭川ラーメン」で札幌は具が多いと言う。油分が多かった。
腹が減っていたので旨く、チャーハンは山分けとした。

そこには大雪山観光資料館があり、さらに奥の公園には日本に二頭しかいないと言う熊「コデアックグマ」5歳がいた。
その大きさはライオン位あり、もし山の中で襲われたらあっと言う間に食い殺されてしまうだろう。オリの中で幸いである。躰は茶色である。

午後2時にポンモシリを出発して、層雲峡に向かう。もう雨は小雨どころか霧状態である。
左前方に断崖絶壁の岩が近くの山の上に現れ、やがて全ての絶壁が見えてきた。
コケさえ生えぬその岩に圧倒されてしまう。
やがて層雲峡のロープウェイ入口に差し掛かった。私の父母も父の還暦旅行でこの地に来たと言う。この辺りは大函、小函だ。

断崖絶壁がしばらく続き、やがて右手に「流星の滝」が見えた。
空に突き刺した様な岩と岩の間から滝が出来ていて、スマートな滝だ。
突然、足元近くリスが矢の如く走り抜けて行った。滝は続けて3つ程あった。その内の一つ「ライマンの滝」でA君が録音すると言い出した。滝の音をである。

録音を仕掛けて、散歩に行った。30分程して戻って録音を聞いてみると、シャーシャーしているだけで、気が休まる自然の音楽とは言い難かった。

3時20分に層雲峡をあとにする。天気は晴れたり曇ったり。
川の流れに沿って走る。川は石狩川の上流。大雪ダムを右に見て車は石北峠へと進む。
徐々にだが上がって来ているらしい。石北峠は標高1050mで北見まで70㌔のところにある。

3日目続くーーー。

北海道旅行記Ⅱ・旭川編

2016-04-07 15:45:00 | 旅行
1981(昭和45)年6月22日月曜日、北海道旅行2日目の札幌。

朝6時頃目が覚めたが、まだ眠い。二日酔いの感じでまだ起きられず、再び目を閉じる。
札幌の一夜は思った程寒くはなかった。気が付くと8時半。
階下に降りてA君が作った目玉焼きで朝食をいただく。その後皿を洗うとその水の冷たさには参った。あの私の故郷・・・信州飯田・・・の冬の水の冷たさ。手の切れる様な冷たさだった。

今日のコースは札幌~旭川で見るべき所があったら見たい、という気楽で十分時間のあるコースである。余裕を持って10時10分彼の親類宅を出発。

札幌市内をやっとのことで抜け出すと、やがて石狩川にぶつかる。
「石狩川エレジー」を思い出しながら川を渡ると当別に入る。道路はタイヤの跡が付くところだけがへこんでいて、ところどころその上にアスファルトをのせている。
北海道は雪が積もる為に、タイヤをラジアルにする。雪解けになってもラジアルタイヤで走るので削られてしまうと言う。

当別で給油し、月形町を経て滝川市へ向かう。地図を片手に照らし合わせながらの進行は良く解った。ほとんど線路づたいで周りは緑一色。放牧された牛や馬が実にのどかに見える。
地図によると札幌~旭川間は138㌔だから普通で3時間かかる。
これだけでも北海道は広いと思った。

やがて滝川市に入る。時計は12時を回り昼食時。A君のおすすめで有名な手打ち蕎麦の「そば嘉」に寄って天婦羅そばを注文する。本当の手打ち蕎麦で、シコシコしており、歯ごたえがある。
納豆蕎麦が有名らしい。マンガ家のおおば比呂司が絶賛した新聞の切り抜きが柱に貼ってあった。もちろんイラスト入りである。

車は深川市を経由して旭川市に入って行く。道路のすぐそばを石狩川が流れており、その川も我々を導いてくれた。

しばらく走って小高い丘に登ったなと思った瞬間、突然目の前に旭川市が飛び込んで来た。
山と川を見ていた私にはとても新鮮であったので、思わず大きな声で「すごい」と叫んでしまった。「そんなに驚いた?」と聞かれた程だった。

想像以上に大きな街で人口40万人と言う。
神居にある彼の家に午後1時30分着。早速コーヒー一杯飲みながら次の行動を計画した。
大雪山連峰の中の旭岳にロープウェイがあるからそこまで行こう。
出来れば勇駒別温泉にでもつかって疲れをとろう、とリュックを置きカメラを持参してそこを飛び出した。

畑の向こうに、草原の向こうに見える大雪山の山々が段々と姿を現し、残雪が夕日に照らし出され、青い空とみごとに調和を保っている。ところどころで記念写真を撮っていたら、結構時間がかかってしまった。

やがて着いたところは旭岳ロープウェイ旭岳駅。時刻は4時10分でロープウェイに乗るべく時間を聞くと、今度の4時20分が最終だと言われた。あやういところだった。せっかく来たのだ。

20人乗り位のロープウェイに我々が貸切で乗る。一人2400円と、ちょっと高い気がしたが仕方あるまい。
女性のガイド付きで遠くの山々、旭岳について説明してくれる。

途中乗継駅があり、再び乗り込む。ロープウェイでどんどん昇り、ついに標高1600m地点までくる。下を見ると、ところどころに残雪があり森林地帯はエゾマツ、トドマツが姿を現している。
見晴らしは最高。終点まで来ると15分しか余裕がないという。

ところがちょうど36枚撮りのフィルムが終わってしまったので、又新たにフィルムを買ったりしていたら5分経過。時間がないのに何をしているのか。
急いで長靴を借り(200円)すぐ近くにある見晴台まで走っていった。

すぐそこから雪があり、足をとられてうまく走れない。厚さ30㎝はあるだろう雪はサクサクとまるでシャーベットの様で足がのめり込んでしまう。しかも登りで日頃走り慣れていない私には、とてもつらく息が切れる。やっとの思いで着くと3分経過。

とにかく写真をと必死で4~5枚旭岳を目の前にして撮る。
標高2290mの旭岳は夕日に照らしだされ茶色の肌を現している。

ゆっくり眺めている時間は無く、すぐ放送で最終便が出るとのこと。
再び走って降りて行く。距離にして50m。スキーのように滑りながら、今にも転びそうになりながら、二人はかけ降りて行った。
雪が長靴の中に入り、靴下は濡れている。

ロープウェイの真横には出来たばかりの川がきれいな透き通った水を徐々に集めてだんだん大きくなっていった。まだ高山植物は咲いてないが、雪解けと共に咲くのであろう。

終点には5時に着く。すぐ近くに温泉があるので入って行こうと「えぞ松荘」の風呂に向かう。
風呂代一人400円、タオル250円。ここは本当の温泉だ。弱食塩泉で適温。健康に良いと水も飲む。広い浴場を二人貸切でゆっくりつかる。

およそ1時間でA君宅に着いた。
今度は夜の旭川に繰り出すことになった。タクシーでちゃんこ鍋の「北の富士」へ行った。
二階の座敷に案内される。下足箱は昔銭湯にあったものと同じでそれぞれ力士の名前が入っており、私は栃ノ海、彼は琴桜であった。

「九重鍋」を二人前、注文した。先ずはビールジョッキである。
小皿には白いゴマがあり、これをすってスープを入れたがこの味は忘れられない。未だかつて食べたことがない位おいしい鍋だった。

スープは塩味で中には毛ガニ、大きなエビ、ホタテ貝、つくね、タラ、鶏肉、春菊、はるさめが入っていた。
最後には平べったいうどんがあったが途中牛肉を特別注文したので、もう腹はいっぱいであった。ビールは大ジョッキ2杯で締めて二人で9760円はおいしさ、腹いっぱいを考えれば安いものである。

8時半過ぎに出て、旭川の街を歩く。からっとして気持ちの良い天気だから汗も出ず、気分が良かった。

9時頃、「ナイトアンドディー」に入った。ここは音楽の生が出来るスナックだ。
彼のなじみの店だったが、マスターはちょうど東京に行っていなかった。
素人の集まりで時々ドラム、ギター、ベースを演奏するらしい。私は尺八を持参しており、ここで吹かせたかったらしい、がその機会はなく、ただ何となく時間が流れて店を出た。

もう午前0時を回っていたが、もう一軒「あすか」というスナックに向かった。
カラオケが出来る店で、もうママは酔いが回りどうしようもなかった。何人かの客がいたのだが、いつしか私達だけになっていた。

他に従業員が二人いたので、カラオケをセットしてくれた。
K君は「浪曲子守唄」を歌い、私は「私祈ってます」。又「別れても好きな人」等のデュエット曲を店の女の子と歌い、気分良くしてそこを出たのはもう2時近かった。

K君宅では2階の彼の部屋を当ててくれた。
彼は中国語の勉強をしており、朝早いNHK中国語講座を聞いているとの事。筋が良いらしく盛んに謝謝、ニーハオとやっていた。そのうれしそうな顔が忘れられない。

さて、翌日どうするかの検討をした。彼の気持ちとしては網走まで一緒に行きたいらしい。
層雲峡経由、網走とコースが決定。午前2時ベッドに就く。
酔いのせいか気持ち良くバタンキュ―だったらしい。







北海道旅行記Ⅰ・札幌編

2016-04-05 14:14:00 | 旅行
今年3月26日に北海道新幹線が開業したが、札幌までは遠い話である。
さて、若い時の話だが、1981(昭和56)年、6月21日会社の都合をつけて北海道の旅に出た。
これが、最近私が見つけた「北海道旅行記」の書き出しである。

逆算すると32歳の時だった。もう所々しか思い出せなかった旅行が、断捨離で整理中偶然に見つかりまざまざと思い出した。私にしてはかなりの量で詳しく書いてあり、そうだったかなと思うところもあり、面白い。やはりメモでも旅行記でもとっておくもんだな。

全てを公開する訳にも行かないから、多少は端折って書いてみよう。これは珍道中ではなく、世話になったA君への感謝のブログである。以下旅行記から。

天気は薄曇り。リュックを背中に喜びを胸に、つきみ野駅7時30分発の電車で羽田に向かう。
一人旅とは言っても北海道旭川に二つ下の尺八友人A君がおり、札幌から旭川まで案内してもらうつもりで気は楽だった。彼とは大学は違うし、歳も違うが、ある演奏会で一諸に演奏して親しくなった。

およそ1か月前、会社で休むべき休暇がたまっているとの事でその消化に努めるべく連休を必要とした。たまたまA君に誘われていて・・・実は結婚式には絶対行くと言ってあったのだがその兆候が見えないので・・・思い切って北海道旅行5泊6日の計画を企てた。
(その後昭和59年に彼は結婚式を挙げ、私も参列し、披露宴で春の海を演奏した)

羽田での飛行機は10時45分に離陸した。私は飛行機に乗るのは2回目だった。20分くらいで乱気流に遭いガタガタと揺れ出した。
窓外の左翼がゆっくり揺れる様がぶきみである。霧で翼がしっとり濡れている。

機長の説明があり、上空1万m、時速800㌔とのことだ。
太平洋側を飛行するのだが、日本の地図の通りにハッキリ見えた。

(その後の1985年8月、御巣鷹山の日航機墜落事故で坂本九ちゃんは亡くなったが、実は私の高校の一つ上、ブラバンで同じ楽器、しかも大学も同じ、長野県の寮でも同じ部屋だった先輩Mさんも亡くなった)

旋回して、千歳空港に無事着陸。ついにあこがれの北海道に。晴れているが、むし暑さは無く、からっとして気持ちが良い。
到着ロビーでは、すでに友人のA君は来ていた。

千歳には12時10分に着いたから、ちょうど昼飯という事で鮨屋に入る。特上の鮨は魚が新鮮でカニも乗っていた。ビールも一杯ひっかけ、早くもごちそうになった。

彼の車は青塗りのタウンエースだ。札幌に向かうべく有料道路を走る。
窓外の緑が新鮮で実にさわやかである。札幌に行く途中、羊が丘に寄る。
ここは遠く札幌市内を見下ろせる所で、市民の憩いの場所になっている。ちょうど行った日は日曜日で家族連れの姿も見えた。ジンギスカンの匂いをかぎながら、一路札幌市内に向かった。

市内は近代的な街づくりで都会である。東京の繁華街と何ら変わりない事を確認した。
車を有料駐車場に入れ、市内見学へと出かけた。

カメラ片手にまず、テレビ塔のある大通り公園へ出る。大通り公園では花畑で若い連中から老人までごろごろしている。とうもろこしの匂いがし、早速食べる。200円。冷凍物だが柔らかく、美味しかった。
テレビ塔の上まで昇ろうということでエレベーターに乗る。ここから四方八方が見られ足元を見るとフラフラする位高く昇っていることがわかる。

やがて降りて、降りたところで雪印のソフトクリーム160円を買う。これが最高の美味しさ。かつて田舎で食べた気がする昔のあの柔らかい牛乳たっぷりのソフトクリームであった。

テレビ塔の時刻は3時8分。そこから時計台、旧道庁、札幌駅を回る。
その後は、彼の親戚宅に伺う。宮の森の近くにあり、札幌オリンピックの会場となった大倉山シェンツェをバックにしていた。
すぐ大倉山に行き、ジャンプ台を見る。なだらかなスロープで下から見るとなんでもない様だが、上から見ると怖いだろう。上からは札幌市内に飛び込む感じとのこと。

親類宅で5時半から8時まで尺八の練習を彼とした。杵屋正邦作曲「尺八二重奏曲」、山本邦山作曲「壱越」など。
実は札幌にうまい尺八の吹き手がいるとのことで、その日会う事になっていた。相手は「疲れているから」と言われたが、紆余曲折を経て会えることになり、すすき野まで一杯やりに行く事に成功。N氏は車で迎えに来てくれたが、何と外人女性も同伴だった。

行先はすすき野の緑ヶ丘で、全国でも名だたる繁華街とのうたい文句どおり。
そこではジンギスカン、ビール飲み放題、食べ放題一人2500円と安く、生まれて初めてと言う位のジンギスカンは柔らかく、おいしくてどんどん胃の中に収まっていた。

ビールは中ジョッキ3杯。言う事なし。N氏は札幌都山流若手ナンバーワンだそうだ。
初対面でありながら、尺八が取り持つ縁で話が合った。
片や気になる外人女性は、27歳の美人ドイツ人。尺八のお弟子さんで3年習っているとの事で、曲は何でも出来、とにかく練習の虫らしく手に尺八ダコが出来ているのに驚く。

日本語は上手く、盛んに「どうぞどうぞお食べ下さい。ぜんぜん食べてないじゃないですか」と言われた。ドイツ語を学生の頃少しやったので、何となく話してみたくなり、「ダンケシェーン」や「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と単語を並べ「イヒリーベディヒ」なんてやったら、一生懸命に「発音が違う」と言って教えてくれた。

ナハトはナを強調して、あとは小さくすぼめる様にと手振りでも分かり易かった。少しはマシになったかな。
とにかくジンギスカンを食べ、ビールを飲んだのでもう腹はいっぱいだった。
再会を希望して0時に別れた。すっかりN氏にごちそうになった。

(その後何年かして、N氏と再会出来てご自宅に伺ったところ、その女性と結婚されてリカちゃん人形の様な可愛い女の子がいた)

A君ともう一軒「つぼ八」に行き、今度は日本酒にした。
炉端焼きで、焼きじゃが、アスパラ、カニカブト、エビ、メロン、パイナップルといったメニュ―で〆た。お銚子は8本飲んだようだ。

タクシーで親類宅に向かったがすでに深夜1時30分を回り、長い一日が終わり深い眠りに付く。
どうやら二日酔いの気配がありそうである。
彼からもらった消化薬「ザンビアン」を飲むのをすっかり忘れていた。

ブログは長くなりそうなので、初日はここで終了する。

旅行記は5泊6日の内、5日目の夜で終わっていたのは残念だった。どうしても6日目がはっきりと分からないから、今思い出せる範囲内で書こうと思う。




安芸の宮島旅行

2015-12-14 16:30:00 | 旅行
12月7日から3日間、「秋の宮島」だと思っていた「冬の宮島」に行って来た。

世は還暦旅行だとか、フルムーン旅行だとか、良いタイトルをつけるものだが、我々夫婦は共に還暦旅行もせず、さりとてフルムーンなんて似合わない。
せめて名づけたら「カレー旅行」か。いやカレーライスでなく、そう「加齢旅行」である。

K社の「厳島神社ライトアップ遊覧と世界遺産安芸の宮島・萩・津和野・錦帯橋3日間」のツアーに参加した。総勢30名で、うち夫婦は5組であとは女性だった。女性の添乗員さんが親切で楽しい旅だった。3日間は天気に恵まれ、ご利益があったらしい。



我々は新横浜から10:09の「のぞみ」に乗車で、広島まで新幹線。右側に座れたので、天気良く富士山は雪をかぶって大きく見えた。

名古屋駅で「だるま弁当」をいただき、広島13:52着。宮島口まで山陽本線で行き、フェリーから宮島へ行く途中で厳島神社の大鳥居を撮影。



干潮の能舞台から遠くに大鳥居。(この日の干潮は13:09)



まだまだ紅葉はきれいだった。「宮島」は町の名前で、島の名前は「厳島」が正解だと言う。



大願寺にある九本松。伊藤博文が植えたとされる。



夕やみ迫る大鳥居。ここからフェリーで宮島口経由でホテルに向かう。
そして夕食後、再びホテルのクルージングでライトアップを見る事になる。



闇夜に浮かぶ大鳥居。満潮でないと鳥居の下を通り過ぎる事が出来ないので、誠にラッキーであった。この日の満潮は19:01で我々のクルージングは20時からだった。

大鳥居はクスノキで高さが約17m、棟の長さ24m、重さ60トン。その重さで土台の石の上に立っていると言う。

ホテルは宮島口のAホテルで、夕食は当然、定番のカキ鍋にカキフライだった。
私は熱燗一杯いただいた。

朝食は瀬戸内海を見ながらバイキング。旅行の朝食はおかゆと決めている。



翌日は8:00から貸切バスに乗る。山陽自動車道で一旦広島に戻り、中国自動車道で津和野に向かった。バスガイドさんが言う通り、中国自動車道はほとんど自動車が走っていない。

写真は太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)大変珍しい名前である。日本五大稲荷のひとつで願望成就などの御利益あり。
朱色がきれいで、美しい。高台にあり、津和野の町を見下ろしている。



なまこ壁が続く津和野の殿町。イチョウはもう落葉した後だった。



殿町にある武家屋敷が、今は「津和野町役場」になっている。



水路にはメタボの鯉がいっぱい。上流で護岸工事をしているため、水質が悪くかわいそう。
観賞用の鯉で、太いのは胴回り70㎝もあると言う。鯉が一か所に偏らないように、ところどころ仕切りがあり、エサは食い放題だからメタボになるそうだ。



「沙羅の木」の2階で昼食の郷土料理「うずめ飯」と「蕎麦」セットをいただく。さらに「源氏巻」なる和菓子とコーヒーも美味しくいただいた。各ツアーがわんさかとやって来る。



萩の吉田松陰を祀る松陰神社。



吉田松陰が開いた「松下村塾」(しょうかそんじゅく)。表札には「松下邨塾」と表記されている。
ここから伊藤博文・高杉晋作・木戸孝允らが育った。



奥に吉田松陰門下生の13人の写真が貼ってある。



菊屋家住宅は重要文化財。日本最古の豪商宅で主屋・本蔵・米蔵などがある。



菊屋家の庭園



美術品・民具・古書も展示されており、武士が使ったのか、尺八がまるで私を待っていたかのようだ。
見たところ右側は延べ管で、歌口も切込みが浅く虫が食って音律は悪そうだ。



高杉晋作の誕生地の敷地。1839(天保10)年生まれ。19歳で松下村塾で学ぶ。
明治維新の志士として活躍したが、29歳の若さで病死した。

萩と言ったら萩焼が有名であり、「ぐい呑み」を求めて「昭雲堂」に行く。何故「昭雲堂」か?
それは自営業時の名称に似ていたからである。

手作りだからスマートさは無いが、飲むときに唇に誠にしっくりするのである。それで日本酒を飲んだら美味さが増した。

美人の店員さんだからって、おべんちゃらを言っていたら出発時間がせまり、あわててバスに戻ったが我々が最後だった。



2日目の宿泊地は湯田温泉。キャッチフレーズは「白狐が見つけた美肌の湯」。知らなかったが、かなり有名な温泉らしい。いくつも湯船があり、無色のいい温泉だった。

バスガイドさんのお薦めで夕食後、山口市まで他の夫婦と割り勘でタクシーを飛ばし、ライトアップの国宝「瑠璃光寺五重塔」を無料で見学。日本三大名塔の一つで、全国で最も美しいそうだ。瀬戸瓦でなくすべて桧皮葺き(ひわだぶき)の屋根で、そり具合が良いと言う。運転手さんの解説が名調子だった。上手いので聞いたところ自己流だそうだ。



ここはついでに、山口ザビエル教会のライトアップも見る。牧師さんの気まぐれで、点灯する時も、しない時もあるようだから見られたのはラッキーと言うべきだった。

湯田温泉はKホテル。夕食はフグ刺しにフグ鍋、瓦焼き蕎麦。やはり熱燗一杯いただく。



翌朝ホテルを8:00出発で再びバスで秋吉台。カルスト台地だと学校で習った所に、やっと来たという感じだ。海の中のサンゴ礁が地殻変動により2億年前に隆起して、石灰岩が露出して台地となった為、大木が生えないそうだ。

特別記念物の洞窟は「秋芳洞」だから「秋吉台」とは「よし」の漢字が違うのにはびっくり。

ここで集合写真を撮る。買うつもりが無かったが、私たちが回った津和野や萩の写真集もセットになって1000円と言う事で、ほとんどの人が買ったと思う。

バスガイドさんがベテラン女性で、これが最高に弁舌さわやかで、バスの旅行中1分たりともマイクを離さなかった。本当に話が、ヘタな講談師より上手いくらいで、歴史だろうが、政治だろうが何でも知っていて、よどみが無かった。抑揚があり、面白いから眠くもならずに、良く聞いていた。まるで我々は松下村塾生だった。勉強になったのはうれしい。



これは写真の定番、黄金柱。気が遠くなるような時間をかけて出来たのには感心する。
見学中、沢井忠夫作曲「石筍」を思い出す。

洞内は一年中17度Cらしく、最初はメガネが曇った。夏は涼しくて良いと言う。



出口近くなると、地下水がこんこんと出てきて大雨の時は、溢れ出るので途中で引き返すと言う。



ここは出口。我々は上から入ったので下って来たが、ここから入る人は登って行くのである。
朝一番だった為に、混んでいなくて洞内の説明もじっくり聞けて良かった。

小学校6年次に「青の洞門」と言う劇を「学芸会」でやった事を思い出した。



秋芳洞から再びバスに乗車して、中国自動車道から山陽自動車道に入り岩国に向かった。
岩国では錦帯橋の見学であるが、その前に昼食となり、写真のように山口名物の「岩国寿司」をいただく。

これは見本であるが、これを人数分に分けるのである。
昔、岩国城のお殿様に献上されたそうだ。城は山の上だから、持っていくのに腐らない工夫をしたそうだ。

たっぷりと量があり、その上「うどん」も付いていたから、腹いっぱいだった。



錦川に架かる錦帯橋は日本三名橋の一つで、1673(延宝元年)年に創建された。
五連のアーチで、木造。ヒノキの板が広いものでは一枚100万円を越えて、普通でも30万円はするそうだ。



佐々木小次郎像。吉川英治が書いた「宮本武蔵」には、佐々木小次郎は岩国で生まれた事になっているそうだ。遠くに岩国城が見える。
1608(慶長13)年、吉川広家が築城。江戸時代に取り壊されたが、1962(昭和37)年に再建。
展望台があり、いつかは登って見たいものである。



メタセコイアが余りに美しく記念に一枚。



天然記念物の「シロヘビ」。全長2mでおとなしい。江戸時代に金運を授ける神の使いとして、保護されて増えたと言う。目は光ってしまったが赤い。



錦帯橋は往復だから、入橋券を無くすなと言われる。帰りに見た「もみじ」がきれい。



いよいよ最後の広島に向かって、再び山陽自動車道に入る。
世界遺産の原爆ドームは2年前には後ろにビルは無かったのだが、建築中である。
私には2度目の見学となった。



原爆死没者慰霊碑。埴輪の家形をモチーフにしたもので、28万人以上の原爆死没者の名簿を納めてある。毎年8月6日には追悼式が、ここで行われている。

8月9日は長崎に原爆が落ちた日だ。長崎原爆をモチーフにした「母と暮せば」の映画を早速見て来た。吉永小百合主演、二宮和也が息子役で原爆死したが亡霊で出てくるファンタジー。

平和祈念館も見たが、どうか地球上の人類が、戦争をせず、血を見ないように願ってやまない。

添乗員さんには、ツーショットの写真を積極的に撮っていただいたり、気配りが素晴らしかった。旅行は添乗員さんで決まり、と誰かのブログにあったが、本当である。

広島始発の「のぞみ」17:04に乗り、早速気を許して弁当と、宮島ビールを飲む。

外は暗闇だから景色は見えない。気が付けば「新横浜」20:44で皆さんと別れを告げた。快適な旅だった。

飯田・木曽・昼神温泉の旅

2015-09-26 10:36:00 | 旅行
誰が名付けたのか、シルバーウィークの9/21~9/23に飯田・木曾・昼神温泉に行って来た。
中央高速バスで日野バス停から乗ったのだが大渋滞。飯田には2時間半も遅れて着いた。
大学生の頃には新宿駅から飯田駅まで急行があったのだが、今は直通が無く、中央高速バスに代わってしまった。

飯田市座光寺にリニア駅が出来るのは随分先の話であり、私としては新宿駅から今流行りの特別観光列車を1本でも走らせて欲しいと切に思う。JRの方、よろしくお願いします。



JR飯田駅。1992(平成4)年完成の3代目。リンゴのイメージデザインである。



新しく出来た飯田市庁舎。狭かった箕瀬町の道幅を広げた。



飯田最古の道標。400年以上前から大横町と殿町の交差点にある。



南は三州街道、北は甲州街道、西は大平街道を越えて木曾に通ずる旨。



馬籠にある「是より北 木曽路」の道標。木曽路はすべて山の中だね。



名勝地「寝覚の床」
実は当初、妻籠に行く予定だったが、旅行会社経営の友人T君の提案により、急遽変更した。



途中で見つけたテングタケ。毒だから食べてはいけません。写真は良いです。パチリ。



「寝覚の床」は浦島太郎が玉手箱を開けた場所という伝説で有名。
長野県歌「信濃の国」の4番に「尋ねまほしき 園原や 旅のやどりの 寝覚の床」と歌われる。



巨岩・奇石がいっぱい。右側手前の巨岩の上で撮ったのが次の写真。



まるで軍艦みたいです。手前の巨岩の上に人が小さく見える。



右上の方に浦島堂があるのだが、岩に足を滑らせ、すってんころりで退散。帰りのビューポイントでパチリ。


「道の駅」木曽福島で五平餅と信州サーモン丼が美味。残念ながら木曾御嶽山は雲で見えなかった。



開田高原。開田嫁入唄の碑。
すぐ左隣に長蛇の列があったので何かと思って行って見たら、「開田高原ソフトクリーム工房」だった。我々はバニラとトウモロコシのミックスとリンゴソフトクリームを買った。残念ながら写真は撮りそこなったが、清里の清泉寮を思い出させる、高原の新鮮な味だった。



開田高原の木曽馬は妊娠で腹がふくらんでいるのではなく、盲腸が長く大きく、草の繊維消化が十分だという。昔は農耕馬で、今は大切に保存活動をしている。体高は平均133㎝。足は短くサラブレットとは大違いだ。



非常におとなしい。触ってもほとんど動かない。乗馬体験も出来ます。


そばの花、赤そば畑。


我々が泊まった旅館・薬師館は昼神温泉郷、国道256号の右坂上にある。(阿智村)



二階建ての木造だが、露天風呂もある。朝市まで歩いて10分の所。


夕食は「自然の恵みプラン」。まずビールと前菜。右は鮭の白子。



馬刺しは柔らかく、うまい。てんぷらもおいしく、漬物は自家製。



岩魚の塩焼き、千代幻豚の鍋、女将の手打ちした蕎麦。その後にカボチャパイやデザートで腹いっぱいだった。



昼神温泉名物の朝市。6月にも来たので、顔なじみのおばさんも元気で売っていた。朝6時から。



帰りの昼食のためにパンを買う。珍しいベーコンとジェノベーゼ入りパンを買い「記念に撮影を」と言ったら、しっかりと看板まで出し、手に持ったお兄さん。アピール性のある面白い人だ。



右は信州名物「蜂の子」のビン詰め。(クロスズメバチ)「蜂の子」は私の小さい頃、正月に良く食べた。炊き込みご飯は最高のおいしさだった。蜂の幼虫とサナギが入っている。
大学生の時、遊びに来た友人に土産として高価な缶詰をあげたら、帰って「開けてびっくり」して捨ててしまったそうだ。そりゃあ誠にもったいない話だに。

早速食べたが甘露煮の懐かしい味だった。酒が進みますに。
左は「道の駅」で購入した開田高原の「黒米」である。

追記 「阿智村騒動記」 (映画の大鹿村騒動記をもじる)
妻が昼神温泉で買い物をした折、「鞄に入れた財布がなくなった」と大騒ぎになった。結局、直前に買ったビニール袋の中にあり一件落着。

第二弾は帰りのバスで、昼食として買っておいた3人分の「おやき」が無いと言われ、実家に忘れて来たかと電話するも、バスの座席下にビニール袋ごと落ちていた。

最後までとんだ騒動でした。