北原鈴淳 琴古流尺八教室 in八王子

尺八の音色は心を癒してくれます。

演奏すれば「無」の境地になれ、演奏が終われば満足感、充実感が得られます。

北海道旅行記Ⅷ・阿寒湖編

2016-04-15 08:58:00 | 旅行
1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目の阿寒湖

阿寒湖に到着した続き。

さて、今晩の宿を探そうとウロチョロしているうち、今朝ウトロで別れたSさん家族と再び偶然に出会った。これからバスで美幌峠に向かうとの事。余りにも偶然なので、お互いの住所を知らせて年賀状の交換を申し出た。そこでSさん家族とは別れた。

さあ宿だ。今まで民宿だったので有終の美を飾るべくホテルにしようと腹に決めていた。
予約してなかったが、ぶっつけでニュー阿寒ホテルなる立派なホテルに行ってみた。残念ながら満室で特別室なら空いているとの事。仕方なく次のホテルへ行ったが、ここも満室。

さて困ったなあ、旅館にでもするかなあと歩いていると、空き室ありという表示があるホテルの前へ出た。「くまやホテル」と言うホテルで見た目は旅館で名ばかりのホテルと思ったが宿泊をあせっていたのでそこにした。

木造で二流旅館と言う感じ。一泊7000円だと言ったが、せっかくの場所だから「阿寒湖の見える部屋を」と言う事で8000円だった。
三階建ての三階、一番端で確かに阿寒湖を望めた。
荷物を降ろし、くつろいでいると私服の女中が来てお茶を入れてくれた。

遊覧船に乗りたかったので聞いてみると、30分毎に出ていて次は5時だと言う。
急いで船着き場へ行く事にした。

もう夕やみせまっていた。半袖で乗り込んだが動き出すと風は涼しく、寒さで震えてしまった。
右側に雄阿寒岳、後ろに雌阿寒岳がそびえ立ち、阿寒湖の遊覧船はまっすぐマリモのある島へと向かった。

マリモ・・・それは不思議な自然の産物だ。直径20㎝位もあるマリモは正直言ってびっくりした。すべて4~5㎝位だと思っていたからである。藻類が湖の波に揺られながら湖底で回転運動をし、徐々に丸くなって成長しているのだ。

水族館では大小様々なマリモが上がったり下がったり回転運動をしていた。阿寒湖のマリモだけでなく、他の山中湖等のマリモと比較していたが、やはり阿寒湖のものが最大である。

船は阿寒川の水門などを経て、夕日が沈む様を映しながら進んだ。
乗船中、スピーカーから「毬藻の唄」(マリモのうた)が盛んに大音量で流れるので、覚えてしまった。
〽 水面をわたる風さみし・・・マリモよマリモ 緑のマリモ

自分への土産として阿寒湖の状差しを買ったので、それにその歌詞が書いてある。

ホテルに着くと部屋に入り、暮れて行く阿寒湖の素晴らしさを眺めていた。
6時50分夕日が完全に山の麓に没した。空の雲に反射した夕焼けが私の心を感傷的にさせたが、辺りが段々暗くなりやがて阿寒湖らしさだけが残ると、私は風呂に入るべく部屋を出た。

大浴場は私以外誰もいなかった。壁などは温泉地特有の汚れで匂いは確かに温泉の匂いであり、温度は適温でゆっくりつかった。

部屋の外にもう食事は届いていた。7時の指定だったからである。
電話を入れ女中を呼び、食事の用意をしてもらった。小さな鍋物とフライであまり美味しいとは言えず、印象は良くなかった。ビールを飲んだが、とにかく急いで食べた。

それには理由がある。アイヌ部落で8時からアイヌ踊りが上演される由の宣伝カーが回っていたからである。
急いで浴衣に下駄をつっかけてアイヌ部落へと歩き出した。

あちらこちらからも浴衣姿でアイヌ部落の方へ向かっている。失敗したのは下駄だった。
浴衣に似合うのだけれども、その下駄がやや小さいので、かかとが外に飛び出して足の裏が痛くて仕方ない。しかも暗い夜道を一人カランコロン歩くのは、気持ち良いものでは無かった。

アイヌ部落に入って8時を回っていたが始まる気配が見られない。周りは土産物店がいっぱいあり、ほとんど木彫りの熊とブローチ類だった。

8時30分にスピーカーでの呼びかけで小屋に入った。500円。造りはアイヌ的でかやぶきである。一目散に一番前の席を取った。
このアイヌの踊りは無形文化財に指定されており、小屋は釘一本も使ってないとの事。

やがて、アイヌ語での歓迎の歌があり、踊りが始まった。歌は聞いていてもさっぱり解らないが、踊りは描写的で解り易かった。
特に松の木を人間が演じ、風が吹いて揺れる様は、髪の毛を前後にゆすって上体を大きくゆらす白熱の演技であった。

珍しく竹で作った原始的な楽器「ムックル」を聞かせてもらえた。それは20㎝位のもので、竹を切って真ん中をリードにし、それに紐をつけてひっぱる事によってそのリードが振動し、音がするのである。
そのリード状の所を口にあてがう事により、口の中で共鳴し増幅され音楽として表現される。
極めて原始的にビーンビーンと多少の音程をつけ一曲演奏された。

やがて一時間位の上演を終わると、外の広場でも上演すると言う。ただしこちらは無料。

興味を持ったので再び外で鑑賞、今度は火を燃やして踊りが始まった。先程の踊りと変わらないものをやったが、その他「剣舞」もあった。男と男が刃物で戦うものでその男の裏に女性が一人づつついている。戦いに勝った男と結婚するというものだ。

残念だが「北海道旅行記」はここで終わってしまっていた。

記録に無いともう思い出せない。多分、翌朝阿寒湖からバスで釧路に行き、釧路から空路羽田経由で帰って来たのは確かである。

フィルムの写真がどこかにあるはずで、それには日付けも表示されている事だろう。

北海道には翌年、縁があって「きたみ東急」開店時に旭川まで飛行機に乗りA君と会い、又彼の旭川での結婚式1984(昭和59)年11月にも出席して披露宴で尺八を演奏した。

上記の「北海道旅行記」を見れば解る通り、A君には多大なお世話になり、感謝しきれない程の恩を感じており、上京でもたまに会うが、本当にありがとう。感動はいつまでも忘れない。

北海道旅行記Ⅶ・ウトロ~阿寒湖編

2016-04-14 11:02:00 | 旅行
1981(昭和56)年6月25日木曜日、北海道旅行5日目のウトロ

午前4時頃、あまりの明るさに起きてしまった。しかし間違いなく4時だった。・・・そうだ知床半島はアメリカに近いのだ。とすると朝日はもうすでに昇っているのか?カーテンもない窓からは太陽が差し込みそうだ。しかしあまりに早いので再び寝た。

ところが6時30分頃ガタガタ音がしだしたと思ったら、ご夫婦家族のお出かけだった。たまたまトイレに行きたかったので部屋の外へ出ると、再び会い阿寒湖で又お目にかかれる様、お互い祈った。

男連れ二人は車で羅臼に抜けるのだと言う。ちょうどその日の午後、長い冬の沈黙を破って道路が開通するのだ。

私は8時15分発の知床半島見学の遊覧船に乗るべく港に急いだ。途中には木彫りのアクセサリー等の土産物屋がたくさん並んでおり、時々小熊が鎖につながれいて道路にチョロチョロ出て来るとビックリする。
小さくても猛獣なのだ。

団体客と一緒に遊覧船に乗り込んだ。1時間30分の硫黄山折り返しだ。
流石、オホーツク海の風は冷たく、薄い長袖を必要とした。

船は左をオホーツク海、知床半島の絶壁を右にして進んで行った。スピーカーからは名調子の解説が流れる。知床半島はなだらかな山々を想像していたが、全く違った荒々しい岩々であった。
下側が流氷に削られて上の方が海に飛び出している様は、ぶきみだ。

あまりにも見事なので船室から甲板に飛び出したが、すでに若い人で満員だった。果てしなく続く岩々は間違いなく巨大なもので、層雲峡と共に北海道のすごさを見せつけてくれた。

知床岬行きの遊覧船は3時間以上かかるので、この硫黄山折り返しで私には十分だった。
スピーカーからは戸川幸夫の秘境知床の名文が流れたり、最後には知床旅情の歌が出たりで郷愁を誘った。9時40分港に着く。

今度は最終目的地の阿寒湖に向かうのだ。
10時15分発のバスに乗り、ウトロをあとにした。斜里駅には1時間で着いた。
斜里駅発の急行は12時47分なので、1時間半の待ち時間がある。そこでどうするか考えるべく駅前の「ちるちるみちる」なる喫茶店へ行って「アイスコーヒー」を注文した。

斜里町はこじんまりとしており、田舎的なたたずまいを見せていたがウエイトレスは中々の可愛子ちゃんであった。この近くで見るべきところはないか、聞いてみたが「判りません」とつれなかった。

ここでしばらく休憩すると12時を回ったので、昼食をとるべく外に出た。
駅に戻る途中に大衆的な店があり、そこで「カニラーメン」を注文した。塩味でラーメンの上にはたっぷりサービス良く、タラバガニが乗っていて美味かった。750円支払い駅に向かった。

急行しれとこ3号で弟子屈(てしかが)に向かう。13時55分に弟子屈着。ここから定期観光バスに乗るのだが、そのバス停に行く為に違うバスに乗って行った。

出発は3時なので1時間のロスがある。やはり一人旅はつらい。車ならロスがないのに。
近くにパチンコ店があったので入ったが、あっと言う間にすってしまい、面白くないので止めた。

阿寒湖まで定観光バスで1時間ちょっと。だんだんと山の中に入って行った。
途中運転手さんが、エゾマツ、トドマツの見分け方をなまり言葉で言い、その見分け方が解らない人はオソマツとシャレが出た。
雄阿寒岳が徐々に大きくなり、双湖台でペンケト-、パンケトーの湖を眺めた。

このペンケトー、パンケトーは元々阿寒湖と続いていたが、雄阿寒岳の噴火により分断されたとの事。静かに山と山との間に横たわっている湖を見て、バスは一路阿寒湖へ向かった。
女性のアナウンステープで阿寒湖を紹介してくれる。

16時10分、阿寒湖のバス停に到着。

続く


北海道旅行記Ⅵ・摩周湖~ウトロ編

2016-04-13 10:00:00 | 旅行
1981(昭和56)年6月24日水曜日の北海道旅行4日目、摩周湖

摩周湖には12時20分到着。霧の摩周湖とは言うが幸い良い天気なので、その湖が真っ青。
静かで神秘そのものだ。透明度が世界第二位とのこと。吸い込まれそうな濃い青だ。

湖の周りはすべて山で、人工的な不純物は入っていない。ただ自然の雨だけが溜まったものであろう。

(布施明が1966年にヒットさせた「霧の摩周湖」で有名になった。私は当時上手く歌えなかったが、35年経った今はカラオケで必ず歌う程好きな曲だ)

展望台は第一と第三があり、個人客が次から次へと来ていた。
記念撮影に余念が無く我々も摩周湖が良く写る場所では、どうしても他人が入ってしまい、仕方なく他人も一緒に撮ったりした。摩周湖だけの方がかえって素晴らしい。

摩周湖の清さを目に焼き付け、そこを離れた。これから下り坂で曲がりくねり、徐々に下界に降りて行った。
1時10分、川湯駅着。近くの食堂で昼食。(何を食べたか記録が無いし、記憶も無い)

北海道へ来て4日目。4日間世話になったA君と別れる時が来た。
私はこれから知床へ、彼は車で旭川まで引き返すのだ。

今まで世話になった礼を言い、彼と別れた。別れた途端、言い知れぬ寂しさに襲われた。

無理も無い。今まで北海道へ来てからずっと二人だったが、ここで北海道の原野に放り出されたようなものだったから。

しかし、地図と鉄道の時刻表を片手に持っていれば必ず、道は開けると確信していた。
川湯駅2時16分発、急行で斜里方面行きに乗る。

急行とは言ってもまるで鈍行みたいな走り方だ。たった2両で時速40㌔位。
山の中に入ったと思うと30㌔位のノロノロ運転。後で聞くと1000分のなにがしかの急勾配だそうで、それにしても遅い。

やがて平野が開けて来て、3時7分斜里駅に着く。川湯から斜里まで急行券込みで1040円だった。
駅前からウトロ行きのバスがすぐ出発するところ。時間はあらかじめ見ていたのでスムーズにいった。ウトロまで1050円。

路線バス風の定期観光バスといった感じで、各停留所に止まりながらも音声による景色の解説をしてくれた。
網走から眺めた知床半島の山々が目の前にそびえ立っており、右から斜里岳、海別岳、遠音別岳、羅臼岳へと連なっている。

やがて知床半島に入って行く。すぐ左はオホーツク海。真冬は寒いだろう。冬この道は閉鎖される。途中オシンコシンの滝等を眺めさせてくれて、バスはさらに知床半島の中へと進む。

4時10分ウトロに着くとすぐ宿探しだ。民宿と腹は決まっている。
運よく近くに案内所があり、斡旋してもらったのはバス停近くの「うみべ荘」だった。

ひとまず宿へ行き荷物を降ろし、散歩に出かけた。そこは「うみべ」と名が付いていたが残念ながら海は見えなかった。

歩いて10分位で海に出られた。オホーツク海である。幸い天気に恵まれ半袖シャツで十分間に合った。
海岸には高さ30mもある岩がボロボロで、今にも崩れそうにちょっとした山を形作っていた。
周りは網で囲ってある。珍しいので写真に収める。
そこには森繁久弥の「知床旅情」の碑があった。

〽知床の岬にハマナスの咲く頃・・・という歌が彫ってある。
その小高い山をぐるっと回ると目の前はオホーツク海で、真冬を想像してみた。一面雪と氷であろう。鳥肌が立つ寸前だった。

30分程海岸で気を休めて宿に戻る。旭川で買った絵葉書に友人らに、とにかく北海道の素晴らしさを文にしたためる。
明朝、ウトロのバス停前のポストに投函すれば9時に集配にくるはずだ。

入浴後夕食。魚はホッケと鮭でいかにも民宿らしい料理であった。
食堂では他に男連れ二人と夫婦子供一人の家族がいた。
夫婦ペアは明日は阿寒湖に行くと言う。私とコースが同じなので話を始めたら、笛をやっているとかで、話がすっかり合ってしまった。

彼はN市で「蕎麦屋」をやっており、縁なもので来てくださいと言う。
又、3泊4日位の北海道旅行で先ずここに来たのだと言い、「知床最高!」と絶賛していた。

午後8時30分、大和市の自宅と信州の実家に、赤電話に10円玉を投入しながら話をした。
(未だテレフォンカードも携帯電話が無い時代である)
とにかく遠いからポトリポトリと10円玉が落ちて行くので落ち着いて話せない。
結局400円と200円かかった。

実家は父が出たが、もう北海道から帰ったものと錯覚していた。
今、北の最果てに来ているのだと強調して電話を切った。

9時、明日のコースを検討して持参した本を読もうと思ったが、疲れているので早く寝る事にした。
9時30分、就寝。



北海道旅行記Ⅴ・網走~美幌峠編

2016-04-12 10:06:00 | 旅行
1981(昭和56)年6月24日水曜日、北海道旅行4日目の網走

我々を待っていたかの様な良い天気。一人3700円と安い。彼には世話になっているので宿泊代は私が払った。

8時25分「かもめ荘」を出る。車で走ってすぐ網走刑務所があり、橋を渡って門の前で記念写真を撮る。

言わずと知れた高倉健主演の「網走番外地」や「黄色いハンカチ」で有名だ。これも目的で高倉健になった気持ちだった。
(黄色いハンカチで、網走刑務所から出て、ビールとラーメン・かつ丼を食べた店はどこかな?)

太陽がまぶしいくらいだ。近くに見晴らしの良い天都山があると、タクシーの運転手に聞いたので、先ずはそこに行ってみる事にした。
小高い山で途中はどうと言う事もなかったが上に登ってみると、はるかオホーツク海上に知床半島がかすかに見えるではないか。私はあそこまで行くのだ。

四方が見渡せるこの展望台にずっと居たい気持ちだった。知床をバックに撮った写真は、これ又最高。気に入っているのだ。
展望台の下にオホーツク館と呼ばれる資料館があり、中には本物の流氷が冷ケースに入っていた。
又、イヤホーンで聞くと流氷のきしみの音がぶきみに聞こえ、思わずオホーツク海の真っただ中にいる錯覚がして身震いした。
9時30分に資料館を出る。

さあこれからだ。どうしようか。駐車場にたむろしているタクシーの運転手が「今日は美幌峠コースが最高。明日の天気はわからない」との事で心が揺らぐ。

近くに案内所があったので、聞いてみたが我々の条件に合うコースが無かった。
とにかくA君とは別れる日だし、私は26日釧路から帰る予定である。
総合的に判断して、美幌峠、摩周湖、川湯へ車で行き、そこで別れて私は急行で斜里~ウトロのコースとした。

先ず美幌峠だ。コースが決まれば早い。
10時20分、網走をあとにする。昨日来た道とは違うコースで女満別に向かう。
右側には網走湖、空はさわやか。ライトバンなので乗用車よりはるかに見晴らしが良いのだ。

右に大きくカーブして少し登った所に町があり、ここが女満別。
ここを通り抜け、今度は直角に左に折れる。さあここからはまっすぐの一直線だ。飛ばしても飛ばしても一直線だ。こんな道は長野県には無い。
地図でみるとおよそ10㌔はあるだろう。

やがて美幌町の手前で左に折れた。車はどんどん山道を登っている。
そもそも峠とは山道の登りつめた所なのだから、標高がだんだん高くなって来ている訳だ。
11時10分美幌峠の駐車場に着く。未だ何も見えない。

団体客がバスを連ねて来ている。アイヌの貸衣装で身をつつみ、アイヌ人らしき人と記念写真をあちらこちらで撮っている。老人が多い。

小高い山を登ると眼下に大パノラマが広がった。メルヘンである。
屈斜路湖が雄大に静かに横たわり、北海道の広さを見せつけてくれた。色はスカイブルー。
中央に中島が見え、遠くには斜里岳、標津岳、カヌイヌプリが見える。
A君がここだけは推薦していた理由が判った。とにかく素晴らしい眺めだ。

天気も良し。見渡せば遠く大雪山も見えそう。言葉に言い尽くせない美しさがある。自然の美しさだ。
フィルムを入れ替え、美幌峠を下って一路屈斜路湖へ向かう。

11時40分、私は摩周湖にも行きたかったが、彼は修学旅行で行ったと言う。
そこは無理を言って行ってもらう事にした。何しろ有名な「霧の摩周湖」である。歌の世界に触れたかった。

続く



北海道旅行記Ⅳ・石北峠~網走編

2016-04-11 10:04:00 | 旅行
北海道旅行3日目、石北峠の続き。
1981(昭和46)年6月23日火曜日。

石北峠で「じゃがいも焼き」と「割りチョコ」を買う。じゃがいもは大きなのを3つ割りばしに差して焼いてある。歯ごたえがあり、甘くとてもおいしい。本州ではちょっと食べられない味だ。
割りチョコはホワイトチョコで牛乳たっぷりの甘いチョコレートだ。簡易包装で中にいくつもあり、おいしくて300円は安い。

峠を越えると下り坂。風は涼しい。
蛇行しながら段々と下の方に降りて行く。私は地図を見ながら道案内だ。左に見えて来たのが北見富士で1291m。道路は相変わらず空いていて、スイスイと北見方面へ向かっている。
道はやがて石北本線を横切り、「るべしべ」(現在は北見市)の町に入って行く。

北海道の雄大な景色を堪能しているうちに、やがて街並みになったと思ったら北見市である。
そこでは「きたみ東急百貨店」が1982年に開店予定で、建築中であった。
(実はその開店時に後日出席をしたのだが、残念ながら2007年に閉店した)

北見市をあっと言う間に通り過ぎた。端野町に入って大きく右にカーブし、やがて田んぼの中を通って行く。幹線では無くなったのか、車の量がほとんど無く、夕やみ迫っていた。

網走まで40㌔。1時間弱で着く予定。
途中山道から突然下り坂になると目の前には間違いなく、オホーツク海が左手から右手にかけて横たわっていた。
ついに来たのだ。北の果てまで。そう考えると身震いした。
空にはうろこ雲。かすかに見える知床半島。幻想的な夕やみである。

5時40分、双鏡台展望台にて、近くは能取湖、網走湖、遠くはオホーツクを感慨深く眺めた。
車は右に網走湖を見て、6時3分網走市内に入った。あこがれの網走だ。

早速、宿探しで電話帳にて民宿「かもめ荘」と決定。かもめ荘へ直行する。
夕食ではカレイ、イカ刺身が出た。
入浴後、街見学とシャレてみた。

思った程大きな街ではなく、地方都市を感じさせた。
とにかく魚の旨いもの、取り分け毛ガニを食いたい。安くてうまい処は無いか?
タバコ屋のおばあちゃんに聞いてみた。ところが「良く知らない」と言いだし、向かいの鮨屋に行って聞いてくると言いだした。

こうなると鮨屋に入らざるを得ない。しかし若いお兄ちゃんが出てきて「カニならそこの角から二軒目の底曳ですね」と親切に教えてくれた。

底曳では「内地から来て是非毛ガニを食いたい」由を告げると、とびきり新鮮な・・・今朝獲れたもの・・・毛ガニを一匹都合してくれた。水が滴る珍味そのもの。
冷酒で毛ガニを堪能した。

その後であるハプニングが起きたのは。
A君が主人に尺八を聞かせようと言うのである。彼は急いで宿に戻った。
やがて、私の尺八と楽譜を持って来た。

私はお得意の「春の海」と「仁義」を演奏した。座敷にいた地元の三人のおじさん連中も一緒で喜んでくれた。すると主人が珍しいものを持って来た。
「うちこ」である。どろっとして紫色で、これが何とタラバガ二の受精したばかりの卵とかで、見た目には紫色だから変な感じがしたが、味は最高の珍味であった。

言い忘れたが、お通しにウニが出た。生ウニで水分があり、柔くトロッとして美味。
さらなるものは「めふん」・・・サケの背中のちあい(神経)・・・これは塩辛みたいにぬるっとして黒ずんでいた。

それに鮭の頭・・・「氷頭」(ひず)・・・酢付けにしたものが出た。珍味、これ又珍味づくしで、冷酒も6合位飲んだらしい。すっかりごちそうになって底曳を出たのだが、又又、先程の鮨屋「福尚」(ふくひさ)に寄らなくてはなるまい。刺身が食べたい。

ガラッと開けると今さっき案内をしてくれた若いお兄さんが「いらっしゃい」「やっぱり来たよ。さっきはありがとう」今度はチーフが「どこへいらしたんですか?」「底曳です」と言う訳で、底曳で出なかった物をもらう事にした。

福尚ではルイベ(紅鮭)、イカの沖漬・・・生きたイカを油漬けにしたもの、タラバ蟹の肉の厚い部分、ボタンエビ、北寄貝、エバラ貝、クジラのスネ肉といった具合で、全てが初めてと言う位珍しい食い物であった。
酒はもう入らなかったが、彼は日本酒をやっていた。
いい気分になって、静かな北国の街を歩き宿に戻った。

早速、明日の打ち合わせ。彼はどこまで来てくれるのか未だ決めて無く、とにかく明日の夕方6時頃までに旭川に戻れば良いとの事。
明日は先ず、網走市内を見て、お天気次第と言う事で就寝。

北国と言っても6月下旬。お天気が良いので全然寒くは無くカラッとして快適。
網走の夜も寝つき良し。

(網走を今現在検索したところ、かもめ荘と福尚は存在したが、底曳は閉店したようだ)