今回は変わったタイトルを付けたものである。
何しろ思い出すと、ただひたすらパソコンに向かいて、書いているだけだ。つれづれなるままに。
時系列に過去のブログを編集すれば、自叙伝になるかも知れない。
さて、M大学三曲研究部に入って尺八を始めて、練習は部室や授業後は週3回、信濃町のお寺を借りていた。その後、同僚の「週3回は経済的負担が大きい」との発言があり、週2回に減った。そこでは割と練習は出来た。
住まいは武蔵境にあった長野県の寮S舎で過ごしたが、練習は寮の理事室で休日に出来た。
理事室と言ったって、離れの六角形の木造で古い建物だったので、外には筒抜けだった。冷房、暖房のエアコンの無い時代だから、夏は暑く窓は開けるし、冬はことさら寒かった。
それでも、音出しが出来たから良かった。
4年間で尺八をものに出来たと思い、NHK邦楽育成会に挑戦して合格した。
4年で卒業して、練馬の江古田の木造アパートS荘に移り住んだ。たったの4畳半である。
1階だったが、トイレは共同で、室内の台所は半畳、風呂は無い。姉に貰った簡単な炊飯器で飯を炊き、惣菜は近くのセイフ―のスーパーで買ったものだった。
そこから渋谷のNHK邦楽育成会に、夏まで毎週火曜日に通った。
なにしろアパートであるから、音が思い切り出せない。仕方ないから楽譜を見て、尺八は吹いたつもりで口にあてがい、指使いの練習をした。
その頃は少し、M大の尺八指導をしたり、たまたまの縁で一人尺八を教える事になった。
アパートでは教えられないから、紹介してくれた南大塚のA君宅を貸していただいた。この人が実質の一番弟子となった。(40年以上の付き合いがあり、先日新宿で飲んでカラオケまでした)
M大では、尺八の演奏家で製管師の先生の紹介で、代田橋のお寺を借りられた。以後連綿と続いているのである。
当然、青木鈴慕先生には尺八を習っていたので、それらが音の出せる練習だったから、そこで音出しのノウハウを確立し、当時は「一週間練習しなくても音は鳴る」と豪語していた。
コツは机上の塵を一気に吹き飛ばす要領で、唇を締め、とんがらないようにして吹く。
この要領は、多分あまたある尺八の教則本には載っていないであろう。お試しあれ。
そして正月も半ばの頃、郡川直樹の紹介で共に「北島三郎ショウ」に出演した。
場所は浅草の「国際劇場」(現浅草ビューホテル)で10日間通った。平日は2ステージ、土日は3ステージと大変だった。
彼が、一度遅刻して一人演奏した事もあったし、彼が一日NHK録音で来られなかった日もあった。
尺八での生活に見切りをつけて、新年度に田園都市線の藤が丘にある、スーパーに入社した。
藤が丘までは遠かった。何しろ西武線の江古田から、池袋。山手線に乗り渋谷。東横線で自由が丘。田園都市線で藤が丘だ。片道1時間30分はかかる。
残業の日は帰って寝るだけだった。心無い先輩に「江古田に愛人でもいるのかい?」と言われた。
身体がきつかったので、25歳頃は「高津」のアパートM荘に移った。
貧乏性だったのか、又も木造アパート2階建の2階、6畳でやはり半畳の台所。トイレは2階の共同(汲み取り式)で風呂は無し。玄関は共同で鍵があり、1階は大家さんが住み、私は2階の部屋でさらに鍵が必要だった。
その頃、様々な人の紹介で弟子も増え、私の定休日の木曜日に併せて弟子の知り合いのマンションや自治会館等で稽古をした。
私も、弟子も若かった。稽古は2時間位で終わって、新宿歌舞伎町を中心として飲み、結構徹夜で飲んでしまった。とにかく話題は尺八の話ばかりであった。
弟子に「どうしたら早く上手くなるのか?」と聞かれた時の答えは「1に練習、2に練習ですね」と言った。
付き合いが濃密となり、新宿の「たこ八」の店で飲んだり、私の信州の実家にも3人が来たこともあった。
こうして、教えるのが私の練習になり、アパートではほとんど音は出さなかった。むしろ出せなかった。
それでも紆余曲折を経て、青木鈴慕師からついに「尺八リサイタルをしなさい」とお達しがあった。27歳の時だった。
1976(昭和51)年6月に私のHPの表紙の通り、リサイタルとなったのである。アパートでは音が出せないので練習は、藤が丘にあったビルの貸し広間を休みの日に借りた。
いよいよ、リサイタル前日だった。もう暑くてビアガーデンもオープンしていた。
明日は休みだと総務部のO君に誘われて「北原さん飲みに行きましょう」と言われた。
会社の入社面接では、尺八を趣味でやっている事は話したし、同僚の結婚式や会社の旅行の大宴会では盛んに尺八は演奏していた。男子社員にはリサイタルの事は言って無かったが、ごく一部の女性社員には内緒で来るように言ってあった。
しかし、「明日は俺の尺八リサイタルだから嫌だ」とは言えなかった。
仕方なく5~6人でプール沿いのビアガーデンで飲んだ、間違いなく私は「明日のリサイタルは大丈夫かなぁ」とずっと思っていた。
生ビールを2杯と枝豆やポテトチップス、ソーセージ、などで切り上げた。
リサイタルは午後集合であったので未だ良かった。
暗譜で演奏するのは「乱」「一定」「詩曲」で自信と言うか、ある程度の開き直りがあったかも知れない。
尺八リサイタルについては別掲にしないと、とても終わらない。
何しろ思い出すと、ただひたすらパソコンに向かいて、書いているだけだ。つれづれなるままに。
時系列に過去のブログを編集すれば、自叙伝になるかも知れない。
さて、M大学三曲研究部に入って尺八を始めて、練習は部室や授業後は週3回、信濃町のお寺を借りていた。その後、同僚の「週3回は経済的負担が大きい」との発言があり、週2回に減った。そこでは割と練習は出来た。
住まいは武蔵境にあった長野県の寮S舎で過ごしたが、練習は寮の理事室で休日に出来た。
理事室と言ったって、離れの六角形の木造で古い建物だったので、外には筒抜けだった。冷房、暖房のエアコンの無い時代だから、夏は暑く窓は開けるし、冬はことさら寒かった。
それでも、音出しが出来たから良かった。
4年間で尺八をものに出来たと思い、NHK邦楽育成会に挑戦して合格した。
4年で卒業して、練馬の江古田の木造アパートS荘に移り住んだ。たったの4畳半である。
1階だったが、トイレは共同で、室内の台所は半畳、風呂は無い。姉に貰った簡単な炊飯器で飯を炊き、惣菜は近くのセイフ―のスーパーで買ったものだった。
そこから渋谷のNHK邦楽育成会に、夏まで毎週火曜日に通った。
なにしろアパートであるから、音が思い切り出せない。仕方ないから楽譜を見て、尺八は吹いたつもりで口にあてがい、指使いの練習をした。
その頃は少し、M大の尺八指導をしたり、たまたまの縁で一人尺八を教える事になった。
アパートでは教えられないから、紹介してくれた南大塚のA君宅を貸していただいた。この人が実質の一番弟子となった。(40年以上の付き合いがあり、先日新宿で飲んでカラオケまでした)
M大では、尺八の演奏家で製管師の先生の紹介で、代田橋のお寺を借りられた。以後連綿と続いているのである。
当然、青木鈴慕先生には尺八を習っていたので、それらが音の出せる練習だったから、そこで音出しのノウハウを確立し、当時は「一週間練習しなくても音は鳴る」と豪語していた。
コツは机上の塵を一気に吹き飛ばす要領で、唇を締め、とんがらないようにして吹く。
この要領は、多分あまたある尺八の教則本には載っていないであろう。お試しあれ。
そして正月も半ばの頃、郡川直樹の紹介で共に「北島三郎ショウ」に出演した。
場所は浅草の「国際劇場」(現浅草ビューホテル)で10日間通った。平日は2ステージ、土日は3ステージと大変だった。
彼が、一度遅刻して一人演奏した事もあったし、彼が一日NHK録音で来られなかった日もあった。
尺八での生活に見切りをつけて、新年度に田園都市線の藤が丘にある、スーパーに入社した。
藤が丘までは遠かった。何しろ西武線の江古田から、池袋。山手線に乗り渋谷。東横線で自由が丘。田園都市線で藤が丘だ。片道1時間30分はかかる。
残業の日は帰って寝るだけだった。心無い先輩に「江古田に愛人でもいるのかい?」と言われた。
身体がきつかったので、25歳頃は「高津」のアパートM荘に移った。
貧乏性だったのか、又も木造アパート2階建の2階、6畳でやはり半畳の台所。トイレは2階の共同(汲み取り式)で風呂は無し。玄関は共同で鍵があり、1階は大家さんが住み、私は2階の部屋でさらに鍵が必要だった。
その頃、様々な人の紹介で弟子も増え、私の定休日の木曜日に併せて弟子の知り合いのマンションや自治会館等で稽古をした。
私も、弟子も若かった。稽古は2時間位で終わって、新宿歌舞伎町を中心として飲み、結構徹夜で飲んでしまった。とにかく話題は尺八の話ばかりであった。
弟子に「どうしたら早く上手くなるのか?」と聞かれた時の答えは「1に練習、2に練習ですね」と言った。
付き合いが濃密となり、新宿の「たこ八」の店で飲んだり、私の信州の実家にも3人が来たこともあった。
こうして、教えるのが私の練習になり、アパートではほとんど音は出さなかった。むしろ出せなかった。
それでも紆余曲折を経て、青木鈴慕師からついに「尺八リサイタルをしなさい」とお達しがあった。27歳の時だった。
1976(昭和51)年6月に私のHPの表紙の通り、リサイタルとなったのである。アパートでは音が出せないので練習は、藤が丘にあったビルの貸し広間を休みの日に借りた。
いよいよ、リサイタル前日だった。もう暑くてビアガーデンもオープンしていた。
明日は休みだと総務部のO君に誘われて「北原さん飲みに行きましょう」と言われた。
会社の入社面接では、尺八を趣味でやっている事は話したし、同僚の結婚式や会社の旅行の大宴会では盛んに尺八は演奏していた。男子社員にはリサイタルの事は言って無かったが、ごく一部の女性社員には内緒で来るように言ってあった。
しかし、「明日は俺の尺八リサイタルだから嫌だ」とは言えなかった。
仕方なく5~6人でプール沿いのビアガーデンで飲んだ、間違いなく私は「明日のリサイタルは大丈夫かなぁ」とずっと思っていた。
生ビールを2杯と枝豆やポテトチップス、ソーセージ、などで切り上げた。
リサイタルは午後集合であったので未だ良かった。
暗譜で演奏するのは「乱」「一定」「詩曲」で自信と言うか、ある程度の開き直りがあったかも知れない。
尺八リサイタルについては別掲にしないと、とても終わらない。