福井市中央公園梅
桜通り
足羽川
足羽山
文殊山登り口 菫
文殊山登り口 ユキタツバキ
文殊山登り口 霞桜
味真野小学校
城福寺
城福寺付近
城福寺付近
福井市中央公園梅
桜通り
足羽川
足羽山
文殊山登り口 菫
文殊山登り口 ユキタツバキ
文殊山登り口 霞桜
味真野小学校
城福寺
城福寺付近
城福寺付近
「いかに鳴海の潮干潟涙に袖は萎れつつかの在原の某の唐衣きつつなれにしと眺めけん 三河国八橋にもなりぬれば蜘蛛手に物をと哀れなり」
全く名古屋に隣接し一体化しているように見える豊明市だが、沓掛・二村と云った町名が見える。新しい住宅団地も広がるが、田舎田舎とした風景も見える。
どういう道があったのか、昔の東海道には、鳴海と八橋の間に沓掛、二村(両村)があったことになる。
沓掛諏訪神社のあたりには鎌倉街道があるらしいのだけどよくわからなかった。
桜の参道
これは緋寒桜か
沓掛諏訪神社
近くに沓掛城址がある。
今川義元が大軍を持って尾張の信長を攻めようとした時、今川方の城だったそうな。
世にいう桶狭間の決戦、結末はご存知の通り、信長の快勝。足利家の親族、海道一の弓取りと云われた今川義元の最期であった。
近くに馬場があり馬が数頭飼われていた。競馬用というよりハードルを越えたりする競技用の馬のようだ。
桶狭間の決戦場は名古屋と豊明の間になるようだが、これは名古屋市内の公園。
平家物語の「海道下」は八橋と宇津とで貴公子重衡と業平とを重ねさせる。
「いかに鳴海の潮干潟涙に袖は萎れつつかの在原の某の唐衣きつつなれにしと眺めけん 三河国八橋にもなりぬれば蜘蛛手に物をと哀れなり」
「伊勢物語」は各段章はそれぞれ短いし、全体の量からしても多くはない。しかし何がどうなっているのかよくわからないのだ。歌物語だからそのようなもの、というのは正しいのだろうし、段ごとに見ていけばいいのだろうが落ち着かなくなるのだ。最初の方に二条の后高子との駆け落ちがあり、挙句、「京にありわび」東下りとなったのはなんとなくわかるが、伊勢から尾張へ海伝いに行ったようだ。もしかして安濃津辺りから船で、どこへ着くのかなどと思っていると、いきなり信濃の国、浅間山が出てくる。次は八橋、有名な「かきつばた」だ。伊勢の斎宮とのごたごたや惟喬親王と水無瀬に遊んだのは吾妻から帰ってからなのか?ともかく時系列が訳が分からないのだ。今昔物語なら求めないつながりを「むかしをとこ」の一代記だと思えば、段と段とのつながりを求めてしまう。
でも、面白い本があった。高樹のぶ子「小説伊勢物語 業平」小説家の健筆の導きにより、漸く業平さんの一代記が分かってきたような気がする。関係する人物もようやくこういう関係かとガテンする。
それで八橋に行こうかと。
始めに知立市立歴史民俗博物館に行ってみる。子供たちが大勢遊んでいる適度な広さの魅力的な公園の脇に図書館と併設の建物だ。
知立=八橋と思っていたが、どうやら違う。東海道の宿場町池鯉鮒と八橋の通る道とはずれている。
池鯉鮒宿は馬市もある大きな宿場だったらしい。
平安末には重原の荘という荘園も確立したらしい
但し、ソフィア文庫版「平治物語」では探せなかった。
八橋は「十六夜日記」にも出てくるそうだ
知立神社↓
八橋 無量寿寺
資料館は休みだった
近くの鎌倉街道を歩く
在原寺
根上の松
広重の絵に出てくる松とされているらしい。
踏切を越えすぐ業平塚
すぐ脇を名鉄線が通る。