物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

清水八幡 源義高のこと

2021-10-11 | 行った所

清水八幡は、清水冠者と呼ばれた木曽義仲の嫡男義高の終焉の地の近くに建てられた神社である。

義仲の生涯は短く激しいものであったが、息子のそれは更に短く、ほとんど人生の鳥羽口に着いたところで絶たれたものである。


寿永2年(1183)、義仲と頼朝が使者を交わす。二人が実際に会い見まえたことはない。先鋭化した二人の対立はこの時一応の棚上げをみる。先ずは共通の敵、平家に当たるのが先、というところだろう。しかしこれには義仲の方がより多くの忍従を飲まされた。頼朝に信州侵攻され、追い詰められた格好の義仲にとってはやむを得ないことだったのだろう。嫡男が頼朝娘の婿として鎌倉に赴くことになったのだ。二人の子供同士の婚姻は和睦の象徴ではあるが、実際に結婚するには若すぎる。特に大姫はまだ幼い。時間はたっぷりある、その間、義高は事実上、鎌倉の人質だ。
義仲の嫡男義高は元服したばかり13歳、凛々しい少年だったのだろう。平家物語第7巻「清水冠者」では「義重」の名になっている。義高は吾妻鏡の名である。
義高の母のことは伝わっていない。中原家の娘、即ち、今井兼平、樋口兼光の妹という説は妥当だろう。今井は義高の鎌倉行きを最後まで猛反対したという。
鎌倉に着いてから以降の義高については平家物語は語らない。その最期は吾妻鏡が伝えるものとなる。
義高の鎌倉での待遇は悪くなかったはずだ。なにより大姫が義高に馴染んだ。恋をするには幼過ぎたはずだが、この少年を生涯の伴侶と思い定めるには、なまじ大人の知恵を理解しない幼さが一途さに拍車を掛けてしまったかもしれない。
鎌倉から、範頼・義経率いる大軍が京へ登る。義仲は大津に敗死する。
義高の年齢は、平治の乱後、平家に捕らえられた頼朝とほぼ同じだ。頼朝には義高の心のうちが解りすぎるほど分かったのだろう。だからとても生かしてはおけなかった。
いったんは鎌倉脱出する義高に、大姫の助力が伝えられてはいるが、7歳の子にどれほどのことができたことか、彼を逃がしたのは頼朝の北政所政子だろう。
大姫は、義高の死の衝撃に飲食を断つ有様に陥いる。
愛娘の悲嘆に、母政子は義高を入間河畔で斬った藤内光澄というものを殺す。鎌倉殿頼朝の命に従い、むしろ手柄を立てたつもりだったろうに、これはこれで酷い話だった。

 入間川、清水八幡のすぐ西のあたり


政子は、義高を懇ろに弔う。墓は鎌倉の北、大船の常楽寺の裏手にある。

 これは首塚である。

義高の鎌倉脱出に際し、義高の寝所で、義高のふりをして、脱出の露見を遅らす時間稼ぎをした少年がいる。
海野幸氏である。義高の脱出の成否を問わず、幸氏は殺されることを覚悟していたはずである。しかし頼朝は幸氏を殺さず,却って引き立てる。義高の死に関して、愛娘に対する頼朝の一種のexcuseだったかもしれない。 
幸氏の父又は兄は水島合戦で討ち死にしている。義仲の信頼厚い侍大将であった。海野幸氏は帰るべき家を無くし、義仲・義高の死により主も無くした。意外な度量を見せた頼朝に仕えたのは自然な流れだろう。
海野幸氏は弓の名手としても知られるようになる。
曾我物語では、曾我五郎時致を抑え損ねた端役としてだが、ちらりと登場している。富士の裾野の巻狩は、特に頼朝に許された者しか参加できなかったことを思えば、やはり厚遇を受けていたのだろう。

大姫は痛手を回復できないまま、親の勧める縁談に諾なわず、頼朝が勧めた後鳥羽への入内も不調で、二十歳で病死する。

 

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