関東に荒川なる川があることは聞き知っていた。しかし隅田川の支流かな、くらいの認識しかなく、こんな大河とは思ってなかった。
ウィキペディアより
認識を改めたのは深谷市の畠山重忠の生誕地で墓のある所へ行った時のことだ。墓は公園の中にあり、重忠の像などもあったのだが、その近くを流れていたのが荒川だった。荒川の源流は秩父の山中にある。
秩父氏は平将門の縁者が祖だという。秩父の地は奈良時代から銅を産し、馬も産した。そこを支配した秩父氏は北へ西へ進出したが家督を巡る争いも起こってくる。秩父重隆は甥の重能と対立する。重能は源義朝と結んだので、重隆は義朝弟義賢を養君にし、武蔵の大蔵に館を構えさせる。ところが久寿2年(1155)義朝長男義平が大蔵を急襲し、義賢のみか重隆まで殺されてしまう。2歳の義仲が木曽へ逃れるのはこの時で、齊藤実盛や畠山重能も助けたというがどうだろうか。
秩父氏は畠山・江戸・小山田・川越などに分流していく。
保元の乱・平治の乱を経て義朝が死に、源氏が没落すると、関東の武者の多くは平家の被官となる。義仲に攻められた平家の都落ちに際し、大番役で上洛中だった畠山重能らは平家に同行すると申し出るが、知盛は止める。「汝らが魂は、皆東国にこそあるらんに、抜け殻ばかり西国に召し出す様なし。急ぎ下れ。」なかなかのセリフである。
この間、畠山重能息子でまだ10代の重忠が、頼朝の挙兵に対応して兵を率いて頼朝方の三浦氏がこもる衣笠城を攻める。しかし石橋山に大敗したものの房総半島を回って復活してきた頼朝の鎌倉入り前に、関東の武士団は次々と頼朝の元に下るのだ。畠山もまた頼朝の旗下に入る。
秩父には武蔵7党に数えられる丹党がいる。
平家物語第9巻「宇治川先陣」は表題の通り佐々木高綱・梶原景季の先陣争い、イケヅキ・スルスミに目が行くが、畠山重忠は以仁王の乱の「橋合戦」で<馬筏>で宇治川を押し渡った足利忠綱の例に倣っての渡岸を試みる。その脇を猛馬を駆る二騎が掛け過ぎていくのだ。重忠の馬筏は「丹の党をむねとして500余騎、ひしひしとくつばみをならぶる」とある。
畠山重忠公園の所在地は深谷市畠山であった。館跡は嵐山だった。畠山は秩父の山からでたものの、秩父の武士団を率いていたようだ。
秩父の山は武甲山、非常に変わった形の山だと聞いていたが、変わりかたが自然ではなかったのだ。石灰を掘り取る内にこうなったと。
武甲山資料館付近から
かつての武甲山は神奈備。
秩父市に隣接する横井町の歴代民俗資料館は武甲山への信仰を伝える。武甲山資料館よりこっちの方が面白かった。
秩父神社
御手洗場の装飾もすごい
秩父まつり会館は秩父夜祭のビデオ等のヴィジアル展示は秀逸。神は妙見星。千葉氏の信仰したのも妙見様、関東平氏としての繋がりだろうが、どこからなのだろう。平将門や貞盛は妙見様を拝んだのだろうか。
秩父は銅の産地でもある。和銅はここにはじまる。