【 信用を失ったゴールドマン・サックス 】
GS-9 GSTC (ゴールドマン・サックス・トレーディング・コーポレーション) 天国と地獄
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キャッチングスは強情でした。
1930年、会社の困難な財務状況を救うアイデアを思いついた彼は、3年前にパートナーになったばかりの若きシドニー・ワインバーグを呼びつけて、そのアイデアを熱心に語りました。
「いいか、今2000万ドルの銀行債務と、その他の債務が1000万ドルほどある」とキャッチングスは始めました。
「この債務を返済する資金を、2年物の転換社債で調達したらどうだろう。 2年物の転換社債を5000万ドル発行すれば、余資が2000万から3000万ドルできる。
その金をフランク・テイラー(カリフォルニア駐在の投資信託ファンド・マネージャー)に任せれば、彼がたんまり稼いでくれるんじゃないか」史上最悪の弱気相場、未曽有の状況にありながら、キャッチングスは債券を発行して、さらに株式市場に投資することを考えていたのです。
ワインバーグとサックスは彼の無謀さに当惑し、今更ながら彼の判断力の欠如に気付きました。
後から考えてみると、ゴールドマン・サックスを「いかなる環境にあろうとも、急拡大させ」続けたいと言った彼の言葉は、まさにこの時を予言するものでありました。
一般の人にとっては、GSTCもゴールドマン・サックスも同じものでした。
ワインバーグとウォルター・サックスが、GSTCを清算してパートナーの資本を再び築くまでには何年もの努力が必要とされるだろうが、それでもやり遂げなければならないと考えていました。 キャッチングスは、明らかに違う考えでいました。
ウォルター・サックスは1930年6月に、不名誉なGSTCの社長に就任しました。
そして、彼はワインバーグと共に、ゆっくりと会社の資産を清算する辛い仕事をこなしていきました。
発足からわずか1年足らずの間に、GSTCは、アメリカ中の銀行、保険会社、不動産会社の株を多数購入していました。
株式市場がわずかに値を戻すと、2人はそのときを捉えて所有する株を売れるだけ売りました。
相場観に基づいて動いたわけでなく、現金を手に入れるために、やむにやまれず打ったに過ぎません。
GSTCの銀行借り入れ残高は2000万ドルから3000万ドルほどあり、返済を迫られていました。 買い手不在の中、ゴールドマン・サックスは売らざるを得ません。
それは根気を要する、時間のかかる作業でした。
1933年までに、GSTCの4万2千人の投資家は、相場のピーク時と比べて3億ドル近い損失を被っていました。
当時、花形役者だったエディ・キャンターは会社を相手取って1億ドルの損害賠償を起こし、ゴールドマン・サックスを舞台や本の中でジョークのタネに使いました。
他にも数億ドルの訴訟が起こされ、法的な問題が解決するまでには10年の月日を要しました。
敗訴に至ったものはありませんでしたが、何件かは和解に持ち込まれました。
ゴールドマン・サックスの8人のパートナーはGSTCに投資した10%分を持ち続けました。 訴訟費用と売買損失の合計はおよそ1300万ドルとなり、会社の資本は1936年には500万ドルに減少していました。
30年前の資本が450万ドルであったことを考えると、これはとてつもない痛手でした。 大恐慌と第二次世界大戦のせいで、事業立て直しには長い年月がかかりました。 資本が1000万ドルを越えたのは、ようやく1950年代半ばのことです。
ワインバーグが地に落ちたGSTCの買い手を見つけてきましたが、売却するためには不満たらたらの株主の同意を取り付けなければならず、それは容易なことではありませんでした。
ゴールドマン・サックスを信じて投資をした投資家たちが、投資額の92%を失った後で協力的である筈がありませんでした。
株主総会で、ウォルター・サックスは敵意を露にする株主を相手に、フロイド・オドラムの会社アトラス・コーポレーションにGSTCを売却する同意を得ようと何時間もかけて説得を試みました。
オドラムは破綻した事業の買収を専門とする人物で、彼以外にはまともに買おうとする者は誰もいませんでした。 そのような投資をするだけの資金を持つ者も、太っ腹を持つ者もいませんでした。
業を煮やしたウォルター・サックスは反抗的な長州に向かって切り出しました。 ゴールドマン・サックスがとてつもない経営判断ミスを犯したのは皆さんご承知の通りです。
しかし、誰よりも大きな損害を被ったのは我々であり、弊社は今、破産の瀬戸際にあります。
ゴールドマン。サックスは売却を強く望みます。株主の皆さんは、不本意でありましょうが、この判断を黙認していただきたい。 意を挟む余地を与えぬ強い調子で彼は言い切りました。
最終的にオドラムへの会社売却は承認され、株主は100ドルの投資に対しわずが8ドルの元本を取り戻すに終わりました。
1929年の大恐慌時、ゴールドマン・サックスの名前はウォール街の粗悪の象徴とされました。
GSTCの崩壊はゴールドマン・サックスの評判を深く傷つけ、業界は再起不能とみました。 信用を失い、ゴールドマン・サックスは5年間もの間、引受の主幹事を務めることが出来ずにいました。
他社の引き受けた証券を販売して食いつなぎ、赤字から脱却したのは、ようやく1939年になってのことでした。 このときの痛手はその後何十年と尾を引き、同社に影響を与え続けました。
1980年代にゴールドマン・サックスが投資顧問業務に再び参入するにあたり、経営陣はゴールドマン・サックスの名前を使うかどうか、長く議論を重ねています。
1929年の教訓は、長く忘れ去られることはありませんでした。
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