米語学アプリのデュオリンゴを創業したルイス・フォン・アンは中米グアテマラの
出身だ(米ピッツバーグの同社本社)
生まれ育った祖国の記憶は暗い。
内戦で荒れ果て、小学校を卒業できた同年代は半分もいない。高校生になると叔母が身代金目的で軍とみられる集団に誘拐された。
まともに生きられる場所で得意の数学を極めたい。1996年、追われるように米国へ渡った。
語学アプリの米デュオリンゴ創業者、ルイス・フォン・アン(46)は中米の小国グアテマラの出身だ。
米グーグルを辞めて11年に会社を興した。いまでは毎月1億人が使い、世界で最も利用者の多い語学アプリになった。
時価総額は120億ドル(約1兆8000億円)強と、日本の日産自動車や大和証券グループ本社をしのぐ。
「移民には自ら何かをはじめる進取の気質がある。つまりリスクテイカーなんだよ」。米国に来て30年近くたった。名門大で学び、米国籍を取り、起業家としても名をなした。アンは米国の活力を自身の成功体験に重ねる。
「米国がコロナワクチンを開発できたのも、宇宙開発に取り組めるのも、世界の80億人から優れた頭脳を集められるからだ」
移民企業の価値3000兆円
他国からの移民をルーツに持つ米主要企業の時価総額が2024年8月時点で、20兆5000億ドル(3000兆円)にのぼることがわかった。
日本経済新聞社が米専門機関の協力を得て独自に試算した。
「フォーチュン500」に名を連ねる米有力500社を対象に、創業者に移民1世または2世がいるかどうかで分類した。
移民企業の企業価値は純米国企業の計17兆ドルを上回り、日本の国内総生産(GDP)のおよそ5倍におよぶ。
電機のゼネラル・エレクトリック(GE)、自動車フォード・モーター、金融のゴールドマン・サックス……。
米国を代表する企業の多くは移民起業家という異才や異能が源流だ。時代の主役がつぎつぎと代わり、全体の経済成長をけん引する。そのダイナミズムはいまなお脈々と続いている。
シリア系移民の息子、スティーブ・ジョブズはアップルを立ち上げた。旧ソ連から逃れたセルゲイ・ブリンはグーグルの共同創業者だ。
テスラのイーロン・マスクは南アフリカから米国へ来た。他国を圧倒する米産業界の強さは移民抜きに語れない。
米国勢調査局によると、移民が米人口に占める割合は最新統計の23年で14.3%、米国人の7人に1人と過去100年間で最も高くなった。
新興企業を生み出すだけではない。工事や配送、農業、清掃、介護といった現場では移民が足りない労働力を埋める。
しかし移民が汗をかき、つくりあげた大国ながら、いまの米国は内にこもりつつある。
移民が移民に拒否反応
9月10日に開いた米大統領選の候補者討論会。「(中西部オハイオ州)スプリングフィールドでは、移民が地元住人の犬や猫などのペットを食べている」。
共和党のトランプは誤情報まで持ち出し、不法移民による治安悪化の懸念をあおった。
オハイオ州スプリングフィールドで暮らす移民の子どもたち=AP
伏線はあった。討論会前からネット空間では「オハイオ州で移民がペットに危害を加えている」といった根拠ない陰謀論が広がっていたのだ。
トランプ支持を鮮明にするマスクもその1人だ。「どうやら住民のペットの猫が食べられているようだ」。
8日にはX(旧ツイッター)で保守系思想家の投稿を引用して書き込んだ。マスクの投稿を受け、情報は一気に拡散した。
民主党政権の移民政策を非難したかったようだが、明確な証拠は示していない。自らも移民として米国に受け入れられたマスクは、流入する不法移民批判を公言してはばからない。
民として米国に来たマスクだが、不法移民の流入に拒否反応を示す=ロイター
先に入った移民が経済的にも社会的にも成功し、既得権益層と化す。
あとから来る者を拒み、排除しようとする風潮はいつの時代もなくならない。移民排斥の波は19世紀のアイルランド系や中国系に始まり、20世紀にはイタリア系、日系が標的となった。
冷たい視線をはね返し、競争を勝ち抜いた移民がイノベーション(技術革新)を生み出す。
いまもむかしも米国はそうやって強さを増してきた。それでも選挙のたびに新参者への厳しい扱いに有権者が熱狂する。これが米国の現実でもある。
政争の具になる移民
11月の大統領選では、民主・共和両党が厳しい国境管理政策を競い合っている。
移民受け入れに好意的だった民主党も方針を撤回し、大量の不法越境者を送り返す大統領令で世論の沈静化に懸命だ。
アップル創業者のスティーブ・ジョブズら多くの移民起業家が米経済を支えてきた=ロイター
「我々はこの国に多くの価値をもたらしてきたはずだ。
犯罪者がいるのは事実としてもごくわずか。移民は悪人というレトリックはやめるべきだ」
デュオリンゴも800人強いる従業員に移民が多い。
米国への移住でチャンスをつかんだアンは大統領選を前に広がる「移民悪玉論」には感情を抑えきれない。
1776年の建国から2世紀半。排斥の波の後にはいつの時代も振り子を押し返す力が現れ、最後は米国が世界の優秀な人材を引き付けてきた。
現代の米国人の3割以上、およそ1億人は19世紀末から20世紀初頭の大移動時代にわたってきた移民を先祖に持つとされる。
その米国はいま、過去最多となるディアスポラ(離散の民)に直面し、米国が米国でいられるか悩みの渦中にある。
「疲れし者、貧しき人々を、自由の息吹を求める群衆を、我に与えたまえ。
我は黄金の扉にてともしびを掲げん」。米詩人エマ・ラザラスの詩を刻む米ニューヨークの自由の女神像は希望の象徴であるとともに、米社会に内なる問いも投げかけている。
黄金の扉を閉じれば、それがもたらす豊かさもまた失われる。米国の選択は世界の趨勢をも左右する。
1億人アプリの原点 ゲイツも欲した頭脳、米社会に危機感
米デュオリンゴのルイス・フォン・アン㊧は移民排斥の流れに危機感を抱く
(米ピッツバーグの同社本社)
デュオリンゴ最高経営責任者(CEO)のルイス・フォン・アンは不法移民をめぐる米世論の沸騰に危機感を隠さない。
社会全体が自身のような移民出身者に扉を閉ざそうとしているとみえるからだ。
「たとえ不法移民であっても、ほかの人が望まない仕事を担う人がたくさんいる。
米国が不法移民を受け入れる義務はないが、少なくとも尊厳をもって扱う必要がある」
13年前に設立したデュオリンゴは毎月1億人が使う語学アプリに育った。
世界中の利用者とつながり、学習の連続記録やトーナメントを楽しみながら階段を一段ずつ上っていく。ゲームのような工夫が初心者から支持を集めている。
受ける教育の違いが貧富の差を生む。アンはそうみる。
「質の高い教育をすべての人に平等に提供したい」というのがデュオリンゴの原点だ。
米国なら英語を話せるだけで就業機会が一気に広がる。
英語学習から始めたアプリは改良を繰り返し、現在はスペイン語や中国語など40以上の言語を学べる。
北欧スウェーデンではスウェーデン語の学習者が最も多い。ドイツではドイツ語が2位だ。
各国に渡った移民が現地の言語を学ぼうとデュオリンゴに頼る。アプリの使い勝手を磨いてきたのも、新しい言語を話せれば可能性が一気に広がると知っていたからだ。
アンは1978年、内戦下の首都グアテマラシティに生まれた。政府軍とゲリラ勢力が争い、一般市民も軍に弾圧された。
96年の終結までに約20万人が命を落としたとされる。
世界銀行によると、グアテマラの2023年の1人当たり国内総生産(GDP)は5800ドル(約86万円)にとどまる。
米国の14分の1、隣国メキシコと比べても4割だ。内戦当時は社会全体が不安定で、雇用もなかった。それでも恵まれた幼少期を送ったとアンは自覚している。
グアテマラで一人っ子は珍しかった。シングルマザーだった母は医者で、年間2万ドルの学費も惜しまずにアンをアメリカンスクールに入れた。
8歳の我が子がゲーム機をせがめば、パソコン「コモドール」を買い与えた。
高校までに英語を習得し、コンピューターに触れるチャンスも得た。だが高校生のとき、身代金目的で叔母が8日間誘拐された。
この経験がアンに米大進学を決意させた。
切実な願いが米名門の一角、デューク大にすすむ動機だった。
「誘拐されない環境で数学を極めたい」。学費は高い。経済的に決して楽ではなかった。母は貯蓄のほぼすべてを使ってしまった。
奨学金を得て米カーネギーメロン大の大学院でコンピューターサイエンスを学んでいた2000年、転機が訪れる。
サイト上で人間と自動プログラム(ボット)を見分けるにはどうすればいいか――。
米ヤフー幹部が講演で「ヤフーでも解決できない10の問題」にあげたうち、1つの解決法を思いついたのだ。
ゆがんだ文字を読んで、そのつづりを入力してもらう。のちに世界に普及する「CAPTCHA(キャプチャ)」と呼ぶ技術だった。
「ぜひうちに来てくれないか」。発明を評価した米マイクロソフト創業者のビル・ゲイツから直接勧誘の電話があった。その後キャプチャを事業化して09年、米グーグルに売却した。
グアテマラ移民の大学院生はいつしか、シリコンバレーの巨人も注目する異才に変身していた。
アンは2017年に米国籍を取得した。米市民としても、移民と移民が暮らす社会のあつれきを減らそうと力を尽くしてきた。
「米国は過去200年かけて移民が築いた国だ」。これからも米国が移民にチャンスを与え続けると信じるしかない。
(敬称略)
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続きを読む日経記事2024.10.15より引用