◆武田神社を知り尽くそう!◆
みなさんこんにちは。山梨学院大学の伏見です。
2019年始まりましたね。皆さんは初詣に行かれましたか?甲府で有名な神社といえば、武田神社ですね!年始はたくさんの参拝客であふれていたようです。
2019年、皆さんにとっても平成最後の年ということで節目の年かと思いますが、甲府市としても「こうふ開府500年」という大きな節目の年なのです!
これから説明していく武田神社、元々は躑躅が崎館という館なのですが、500年前は違う場所にあったのです。信玄の父である、信虎が館を躑躅が崎と呼ばれる地に移したことで、今の甲府があるんです!500年前はなかった土地に今住んでいると思うと少しどきどきしますね!
さて、今回はその武田神社ができるまでの歴史や造られた理由を探っていきたいと思います!
武田神社といえば武田信玄の顔が浮かぶと思いますが、説明した通り、元々、武田神社の場所には躑躅が崎館と呼ばれる信玄の館がありました。
館がなくなってから、しばらくして武田神社が建てられた為、その歴史は100年とまだまだ浅いのです。
じゃあ、誰が建てたのって思いませんか
建設に踏み切ったのは武田信玄の奥さんの子孫の方らしいです子孫の方曰く、信玄の館があった場所、さらに信玄の妻は我々の先祖。ならば、信玄も親戚同様じゃないかといことで建てられたと言われるそうです。神社と聞くとご利益があると思いますが、信玄が祀られているだけで特にご利益があるというわけではないです。が、信玄公と聞くといいご利益があるように思えますね
では、皆さん参拝をするとき、どの入り口から入りますか
今使われている入口(左)も間違いではありませんが、躑躅が崎館の時代まで遡ると本来の入口は大手門(右)と書かれている門かもしれません。
さらに館だった頃の図を見ると3つのパートに分かれています。ボードを見ると曲輪という文字が見えます。曲輪というのは四角形に囲われている部屋のことを指します。武田神社の裏側に行くと西曲輪と呼ばれる場所があります。その入口部分にあった門は何度も作り直されて狭くなっている痕跡が見つかっています
狭くなっている理由はなんだと思いますか
これは敵が侵入してきた際に武田軍が敵をまとめて攻撃することができる為だそうです
昔の人は策士ですよね
他にも発掘調査によって、今は芝生になっている場所に池の跡があったり、井戸から陶器も発見されています館だった時代から、神社が建てられるまでの長い期間に渡って多くの変化があったことが伺えますね。
そんな武田神社の歴史をもっと詳しく知ることができる歴史館が神社の前にできるようです。4月オープンになるそうなので、ぜひチェックしてみてください
さて、少しでも知識人になった気分は味わえましたか
武田神社に訪れる機会がありましたら、いろんな角度から覗いてみてくださいね