レーザーディスクでオペラを観ていて、いよいよ1981年のヴェローナ野外劇場での「アイーダ」(ヴェルディ)の番となった。私が最初に買ったオペラのレーザーディスクである。超懐かしい。そうそう、これこれ、コッソットが下がってキアーラがさぼるヤツである。こういうことである。
アイーダの第2幕は有名な凱旋の場。サッカーの試合で観客がムキになって歌う「♪ラ、ラーー、ララララ、ラ、ラ、ララララーララー」をトランペットが吹く場面である。その幕切れはこれぞ圧巻。舞台を埋め尽くすソリストと合唱が声を限りに咆哮する。その中のツートップは、ヒロインのアイーダ(ソプラノ)とエジプトの王女アムネリス(メゾ・ソプラノ)。この二人がそろって高いシ♭(音楽をやった人はこれ見よがしに「ベー」という(あっかんべー))を出す。
さあ、件のヴェローナの公演では、ここで何が起きたか。アムネリスを歌うのは、フィオレンツァ・コッソット。強烈な声の持ち主である。メゾ・ソプラノだが、オペラの公演では「番をはる」スターである。番だけなく声も張って張って張りまくるのだが、残念ながらほんのすこーし音がぶら下がって(低くなって)しまった。対するアイーダを歌うのはマリア・キアーラ。この人の素晴らしさについては別の機会に書くこととするが、このとき、なよなよと体をよじって芝居をしている風。ここは芝居をする場面ではない。二本足でどっしと踏ん張って高音を張るべきところである(コッソットをそうしている)。だが、キアーラは声を出してない。すなわち、さぼっている。私は理解した。これは、コッソットがいたからである。コッソットのぶら下がった音に正しいピッチで重ねれば音が濁ってしまう。それに、コッソットが一人でがんばってるんだったら音を重ねてもあまり意味はない。だったら休んだってバチは当たらない。長丁場だ。休めるときに休むことは大事である。江川だって、力を温存して9回に150キロの球を放ったものである。
これと対照的だったのが(ここからはレーザーディスクの話から逸れるが)、第1回NHKイタリア歌劇公演の凱旋の場。私が生まれる前の公演の様子をNHKが再放送してくれて観たのだが、このときのアイーダがアントニエッタ・ステッラで、アムネリスがジュリエッタ・シミオナート!!!!! シミオナートはメゾ・ソプラノだが神様の域である。だからベー(シ♭)などお茶の子さいさいである。対するステッラも大プリマ。さぼるなんてあり得ない。当然、二人してあらん限りの声でベーを競うこととなる。東西の横綱ががっぷり四つに組んだ格好である。その結果どうなったか。音がウワンウワンうなりまくった。マイクの性能を超えてしまったのである。シ♭が出てくるたんびにウワンとなる。ものすごいことになった凱旋の場であった。
ものすごい凱旋の場と言えば、マリア・カラスがアイーダを歌った1951年のメキシコ公演の話もしなくてはなるまい。このとき、アムネリスが誰であったかはどうだっていい。カラスが全部持って行った話である。すなわち、凱旋の場の最後の最後は、アイーダ(とアムネリス)がベーを伸ばした後、五度下のミ♭に下りる(冒頭楽譜参照)。で、後奏があって幕である。ところが、カラスは最後のミ♭を1オクターブ上げて伸ばしたのである。そりゃあ、コロラトゥーラがミ♭を出しても驚くに値しない。だが、カラスはドラマチック・ソプラノである。それが高いミ♭をばしーっと出してうーんと伸ばした。まるで浮上する宇宙戦艦ヤマトである。カラスが全部持って行ったというのはこのことである。この頃のカラスはダイエット前で、声が湯水のように出たという(ダイエットした後は、ルックスはよくなったが声を失ってしまった)。ところで、こういうスタンド・プレーは好きにやっていいというものではない。ちゃんと他の歌手の了解をとらなければならない。このとき、カラスが気を遣ったのは、ラダメス役のマリオ・デル・モナコ(大スター)である。で、デル・モナコに「いい?」と聞くと、デル・モナコは「いいよ。その代わり、第3幕の幕切れは僕が延々と延ばすからね」ということで取引成立。この公演はCD化されている。おかげで、今私たちはとてつもないアイーダを聴けるのである。
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