旅が好き・そして日々の時間で気の付く事を。

旅では人々の生きた来た跡を訪ねてみたい。
時間が出来たので、今までにしなかった事に手を出してみようと思う。

富田林へ

2023-11-06 20:28:14 | 
 20代の始めころ大阪当時は枚岡市に居ましたが府下は仕事や通勤以外あまり行ったことがありませんでした。愛媛県へ転勤になり大阪出身の同僚から富田林には見どころがあると聞いていました。
 昨夜は阪神優勝かと道頓堀を通りながら期待していましたが残念でした。

 富田林は大和川の河川流通で繁盛した街です。北前船寄港地に船主屋敷が残っているようにここは流通で儲けた分限者屋敷が残っていると案内に書いていました。その分限者には文学者や和歌を詠む人もいたようです。富田林の寺内町は興正寺の門前町としても栄えていたらしく、格子状の町筋は古い街道の道に似て狭い、ドイツの観光都市のように車の乗り入れを止めて歩行者中心にしたら歩く人もゆっくりと町を散策できるのにと思いました。
 京都では犬矢来は竹だが、ここでは木造です。珍しいのでパチリ
 

 あれ何? あの家は通り抜けになっている。
 
遠くに見えるのは何?


杉山家住宅 屋根の上の瓦葺きは煙抜きだとか。
大きなかまどがあり煙突が無いと思ったら煙抜きがありました。
煙抜き用の竹の簾様のもの

沢山の客間がありそれぞれの座敷飾り(床の間・違い棚と付け書院など)
端正な座敷が良かった

二階から見た丸瓦と平瓦、年季が入って銀色に光っていました。どちらの産だろうか。


 寺内町の屋敷にここだけかな袖壁がありました。


嫌な思い出もある。
 何処にでもいる訳の分からない輩で、会いたくないけど巡り合ってしまいました。
浄土真宗「興正寺」の門前で女が呼び鈴を押して中から返事があると60歳くらいの同伴の男が、いきなり切れて怒鳴りだした。一時は一戦を覚悟をした、眼を合わせたところ視線が合わない。暫くしたら鼬の最後っ屁の様な言葉を残して去っていった。
 その後、女が押したチャイムからどうぞお入りくださいとの返事があったのでお邪魔をしました。可哀そうな女は祈りたかったのでしょう代わりに祈っておきました。
浄土真宗のお寺で、女将さん?から門前での出来事を心配してもらいました。真宗の事を詳しく説明頂きました。山陰や北陸の港町や農家のお墓や仏壇、吉崎御坊などのお話をしました。
ここを富田林御坊というらしいことも聞きました。山門には保存修理のチラシが置いてありました。
何かのご縁かご寄付をさせてもらいました。これも親鸞さんの手引きかと。

 立派な山門

 その後、お寺の女将さん?から丁寧なご返事を頂きました。
旅は思わぬ出会いがあります。

 2025年2月、件のお寺がクラウドファンディングを始めたと知りました。
2月20日に目標を達したとメールがありました。
おめでとうございます。



蝉丸神社と逢坂の関跡

2023-11-06 18:42:19 | 
京都から大津へ抜ける道、国道1号線なれど抜けるという言い方がぴったりの道。60年位前にお仕事でこの道を名車スーパーカブに乗って何度か行き来した、その後日本社会の発展に伴って単車になり車になった。懐かしい場所です。当時は20代蝉丸とか逢坂の関などは知らなかった。
 上栄町辺りは半世紀前のそれらしい街の雰囲気が残っていました。


中年過ぎて平家物語や平家歌壇の歌が好きになり、平宗盛の「都をばけふをかぎりの関水に またあふさかのかげやうつさむ」の歌を残した所で行ってみたいと思っていました。

この道を鎌倉への死出の旅、重衡や太平記の「落花の雪に踏み迷う」の日野俊基の関東下向の哀切漂う道行文にもあった。そして今度は電車で大谷駅から上栄町までやって来ました。

蝉丸は能の「蝉丸」はまだ見ていないが悲しい物語は本で知りました。そして、芸事の神様。この年で何か新しい事始めてみようかと思い尋ねてきました。


蝉丸神社は大谷駅からすぐのウナギの匂うところ。逢坂の関跡を過ぎて関蝉丸神社上社と大津市街の端になるのか下社の3カ所にあります。
関跡には百人一首のこの関に関する歌碑があった
 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られで来るよしもがな
  「実葛」これだと思ってみたこともないが。
 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
  この歌の故事「鶏の空音」はどこかで聞いたことがある。

蝉丸さんは諸芸道の神さま、猿田彦さんは街道の神さまで旅好きの守り神様、これからも宜しくとお願いしてきました。お宮には誰もいなくて寂しさあふれていました。




昨日は姪の結婚式で大阪泊まり。大阪城の堀や石垣知ってはいたが修学旅行の時にゆっくり見ていなかった。確かに広い・でかい。