現代語訳大乗仏典、中村元著、東京書籍
在家仏教の代表的経典だということなので、
もしかしたら、私にも近づけるようなことが書いてあるのではないかと思い、
夜、寝る前に少しずつ読み進めた。
1日のおわりに仏教の本を読むと、本当に心が穏やかになる。
維摩さんと菩薩さんたちとの問答は、どれもこれも「とんち」がきいている。
機会があったら、私もこんな会話を横で聞いていたいものだ、と思うけど、
もしかしたら、ふだんしている何気ない会話も同じようなのかもしれない。
よく聞き、よく考えれば、そこらじゅうに菩薩さんや維摩さんがいると
感じることができるのだろうか。
いいや、それは無理だなあ。
そもそも、経典の内容を、本当に理解できているかというと、
ひいき目に見ても、たぶん3割くらいしかわかっていない。
言葉は平易だけど、行間に含んでいることがとても多いし、
脳のスペックがついていかない論理的なことが多い。
あと思うのは、
もし実際に維摩さんのような人が私の周囲にいたら、
きっと、「屁理屈が好きな人だなあ」と思って、あまり近づかない。
仏陀だって、かなりの変人だ。
たぶん・・・、遠巻きに眺めるだけだろう。
そう思うと、私が今日、居心地悪いなあ・・・、と思った仕事での会話も、
もし文字にして発表したら、ものすごい真理の言葉として、
ある見抜ける人が、ありがたがるのかもしれないなあ。
でも、思い出すだけでゲンナリするから、私には無理なんだなあ。やっぱり。
ただ言えるのは、
そのゲンナリする会話を聞きながら、
そこに含まれている意図を、100パーセント理解しているわけではない、と自覚していた。
そして、その会話の裏にある「せめぎ合い」が、正直めんどうだ、
と嫌悪感をもってしまった、ということだ。
裏にあることを知った気になったとしても、その時はスッキリするかもしれないけど、
それが当たっているかは、やはり確かめようがない。
そして、裏にあること、というのは、暗い部分であることが多いので、
知ろうとしないほうが、かえっていい場合もある。
お互いに、せっかく包んでいるんだから。
でも、会話をしていたら、釈然としないまま進めるのは、
気分がわるいじゃないか。
ああ、そうか。そういう会話には参加しなければいいんだ。
在家仏教の代表的経典だということなので、
もしかしたら、私にも近づけるようなことが書いてあるのではないかと思い、
夜、寝る前に少しずつ読み進めた。
1日のおわりに仏教の本を読むと、本当に心が穏やかになる。
維摩さんと菩薩さんたちとの問答は、どれもこれも「とんち」がきいている。
機会があったら、私もこんな会話を横で聞いていたいものだ、と思うけど、
もしかしたら、ふだんしている何気ない会話も同じようなのかもしれない。
よく聞き、よく考えれば、そこらじゅうに菩薩さんや維摩さんがいると
感じることができるのだろうか。
いいや、それは無理だなあ。
そもそも、経典の内容を、本当に理解できているかというと、
ひいき目に見ても、たぶん3割くらいしかわかっていない。
言葉は平易だけど、行間に含んでいることがとても多いし、
脳のスペックがついていかない論理的なことが多い。
あと思うのは、
もし実際に維摩さんのような人が私の周囲にいたら、
きっと、「屁理屈が好きな人だなあ」と思って、あまり近づかない。
仏陀だって、かなりの変人だ。
たぶん・・・、遠巻きに眺めるだけだろう。
そう思うと、私が今日、居心地悪いなあ・・・、と思った仕事での会話も、
もし文字にして発表したら、ものすごい真理の言葉として、
ある見抜ける人が、ありがたがるのかもしれないなあ。
でも、思い出すだけでゲンナリするから、私には無理なんだなあ。やっぱり。
ただ言えるのは、
そのゲンナリする会話を聞きながら、
そこに含まれている意図を、100パーセント理解しているわけではない、と自覚していた。
そして、その会話の裏にある「せめぎ合い」が、正直めんどうだ、
と嫌悪感をもってしまった、ということだ。
裏にあることを知った気になったとしても、その時はスッキリするかもしれないけど、
それが当たっているかは、やはり確かめようがない。
そして、裏にあること、というのは、暗い部分であることが多いので、
知ろうとしないほうが、かえっていい場合もある。
お互いに、せっかく包んでいるんだから。
でも、会話をしていたら、釈然としないまま進めるのは、
気分がわるいじゃないか。
ああ、そうか。そういう会話には参加しなければいいんだ。