ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

安住の場所

2010-11-26 19:58:58 | Weblog
一時期「自分探し」という言葉がよく使われた。
自分は何がしたいのか、何ができるのか、自分は何に向いているのか。
そして、どうしたら自分は幸せになれるのか。

ひとつ不安が消え,ひとつ義務から解放されると、また違う不安が襲ってくる。
「自分探し」なんてことを考える余裕があるのは、
生活が豊かになったおかげもあるかもしれないけれど、
でもけっして、根本的に人として幸せなわけでも、平和ボケなわけでもないと思う。
そこには、永遠の連鎖がある。
そういうもんなんだ、と思う。

私が高校時代、よくこんなことを考えていたら、
よく母に「ヒマねえ。私が学生だった頃は、そんな時間はもったいなくて、
勉強したもんだったわ」と、猛烈なイヤミを連発された。

確かに、母は秀才だった。
でも、それでもなお抱えている不安は大きく、
すでにそれが「学歴」では乗り越えられないものであることを
母その人のなかに見てしまった以上、私が違う道を求めたくなったのは当然かもしれない。
「私の子どもだから、勉強ができて当たり前」という確信を打ち崩すのは、
申し訳なくもあり、また、いまに見ていろよ、という気概も感じさせてくれたものだった。

それに、学校の先生が片親だというだけで色眼鏡で見てきたので、
公職についている大人全般を敵視する怒りが心のなかに巣食った時期があった。
これをもって「ひねくれた」「まともじゃない」と言われるのなら、もうしょうがない。
そういう一面はあると、自分でも認めざるをえない。

こんなふうに思い返してみると、
「考える」という行為以外は、「わたし」ではない。
母の言葉も、学校の先生の言葉も、
それは受け取ったものであって、自ら求めたものですらない。
でも、それに、いまの私も大きく左右されている。
自分の意志によって生まれたものではなく、他によって引き起こされたものばかりだ。

考えるテーマも他によって与えられたものだけど、
考えたいと思う自分、考えざるをえない自分はいる。
ただ、それだけのこと。

この考えるということ、他によって引き起こされる感情というものを、
ここ2年くらいのあいだで、すごく考えたし、よく見つめたと思う。
そして、いま、私はとても自分に手応えを感じている。

非正規雇用で、将来もあやふやで、いったい何を、と、言われるかもしれないけれど、
いまほど「私はここにいる」と思った時間はなかった。
そして、これほど自分を肯定的に見つめることができるなんて、考えもしなかった。

私にとって、派遣社員として会社で「作業」をしている時間は、
バレー部の練習でいうところの準備運動、パス、アタック、サーブ、レシーブの
個別練習のようなものだ。

そのあとのフォーメーションの練習やたまにある実戦は、
帰宅後、そして休日に割り当てられている。
あまりにも絶妙なバランスなので、自分でも驚くほどだ。

来年の3月末でいまの派遣先との契約が切れるけれど、
その先に対して、まったくとは言わないけれど、ほとんど不安を感じていない。
受け止めて、考えて、移り変わる自分がいる。
ただ、それだけのことだから。