今日、始めて脳ドックを受け、MRIというのをやった。
母が46歳でくも膜下出血で植物状態になったから、
そろそろ準備したほうがいいだろうと思って、受けたもの。
MRIの機械に入って行く時、
そういえば、母も、そして突然の事故で亡くなった父も、
半死半生のなか、MRIを受けたのだな、と思った。
この大きな音がどんなふうに聞こえたのだろうと思ったら、
少し、気が狂いそうになったので、
息を整え、お経を唱えることにした。
むかし、父と母、それぞれと「孤独」について話したことがある。
母の孤独は、好きな人と皮膚で区切られていることに対する孤独だった。
一体感を味わうことがないことへの、裏切り、裏切られることへの恐怖が
孤独そのものだった。
父は、もう少し違った。
いつも言葉にはできない観念的な意味をもって、黙ってすわっていた。
それはある意味で孤独であろうとする行為に帰結するようなもので、
父はそれを、孤独を義務づけられた私の世代の孤独とは、根本的に違う、
というように言っていた。
私にとっての孤独は、死に直結するものだ。
だから、私の世代の孤独として、ひとくくりにするのは、少し違うかもしれない。
私の孤独は、自分が代替可能であって、自分でなくてもよくて、
かえって自分ではない他の誰かのほうが、よっぽどうまくやるだろうと思うような、
だから、私がいなくなっても構わないだろう、といったようなものだ。
誰かの役に立ちたいけど、
その役は、きっと他の誰かのほうがもっと十分に果たすだろう。
そうした引き裂かれたなかで、自分に問い、
歩き出せない自分を見て、だからまた自分は代替可能だと思う。
そして勇気をもって歩き出すと、やはりそれは他の誰かのほうがうまくやると思う。
その永遠の連環のなかにいるのが孤独。
自分が好きなものなんて、とうに見失ってる。
でも、考えることは残ってるし、歩こうともがく。
ただ歩いても、やはりそれは何の役にも立たないただの自己満足だし、
自己満足を得られるほどの結果も得られない。
ならば、いっそのこと無機質になれたならよっぽど楽なのに。
かといって、実際に死ぬ勇気もない。
だから、孤独は、私にとって、観念上の死に近い。
だから、タチが悪い。
脳ドックを受けた20分あまりは、気が狂うためにはあまりにも長く、
もう二度と経験したくない時間だった。
母が46歳でくも膜下出血で植物状態になったから、
そろそろ準備したほうがいいだろうと思って、受けたもの。
MRIの機械に入って行く時、
そういえば、母も、そして突然の事故で亡くなった父も、
半死半生のなか、MRIを受けたのだな、と思った。
この大きな音がどんなふうに聞こえたのだろうと思ったら、
少し、気が狂いそうになったので、
息を整え、お経を唱えることにした。
むかし、父と母、それぞれと「孤独」について話したことがある。
母の孤独は、好きな人と皮膚で区切られていることに対する孤独だった。
一体感を味わうことがないことへの、裏切り、裏切られることへの恐怖が
孤独そのものだった。
父は、もう少し違った。
いつも言葉にはできない観念的な意味をもって、黙ってすわっていた。
それはある意味で孤独であろうとする行為に帰結するようなもので、
父はそれを、孤独を義務づけられた私の世代の孤独とは、根本的に違う、
というように言っていた。
私にとっての孤独は、死に直結するものだ。
だから、私の世代の孤独として、ひとくくりにするのは、少し違うかもしれない。
私の孤独は、自分が代替可能であって、自分でなくてもよくて、
かえって自分ではない他の誰かのほうが、よっぽどうまくやるだろうと思うような、
だから、私がいなくなっても構わないだろう、といったようなものだ。
誰かの役に立ちたいけど、
その役は、きっと他の誰かのほうがもっと十分に果たすだろう。
そうした引き裂かれたなかで、自分に問い、
歩き出せない自分を見て、だからまた自分は代替可能だと思う。
そして勇気をもって歩き出すと、やはりそれは他の誰かのほうがうまくやると思う。
その永遠の連環のなかにいるのが孤独。
自分が好きなものなんて、とうに見失ってる。
でも、考えることは残ってるし、歩こうともがく。
ただ歩いても、やはりそれは何の役にも立たないただの自己満足だし、
自己満足を得られるほどの結果も得られない。
ならば、いっそのこと無機質になれたならよっぽど楽なのに。
かといって、実際に死ぬ勇気もない。
だから、孤独は、私にとって、観念上の死に近い。
だから、タチが悪い。
脳ドックを受けた20分あまりは、気が狂うためにはあまりにも長く、
もう二度と経験したくない時間だった。