いま中央電視台(CCTV)で、深夜に連ドラ「三国演義」の再放送をやっている。
1980年代に撮られた作品だけど、いまだに大人気だ。
夜になると、周囲の家からオープニングの音楽が聞こえてくる。
昨日は、「泣いて馬謖を斬る」あたりから、どんどん過労で衰弱していく諸葛孔明の
メイクのすごさに感動するくだりが4回連続で放映されていた。
80年代にこれだけ頑張って撮った作品とも言えるし、
カット割が、ほぼ誰かの正面アップの連続で構成されることに、
ああ、京劇の国だなあ、と思ったり、
中国人の視覚認識について、なるほどなあ、と思う楽しみがあったりする。
中国人は必ず相手の視界の範囲に入ろうとする人たちだ。
むかしは「三国演義」をフィクションとして楽しんでいた時期もあったけれど、
大人の薄汚れた心で改めてこの物語を見てみると、
やっぱり釈然としないことが出てくる。
羅漢中によって、諸葛孔明が魔法使いのようになっているのは、
まあ、フィクションだからいい。
一番納得いかないのは、諸葛孔明が北伐を行ったこと自体だ。
蜀の建国の理念が、漢王朝の復興だったから、簒奪者である魏に対して
戦いを挑まなければならないという理由もわかる。
でも、そもそも諸葛孔明が三顧の礼で迎えられた直後、
兵力で劣る点を補うために、民兵を使ったとき、
民は、主君のために戦うのではなく、自分の土地と家族を守るために戦うから、
戦力になると考えていた。
では、蜀の民を、行ったこともないような北伐に動員するのは、
漢王朝にとっては中原に戻るための戦いだけれど、
戦う兵士にとっては、見知らぬ土地を占領するための戦いになる。
当然、もともと戦場となる土地に住む人たちにとっては、侵略者との戦いになるだろう。
国家同士の大義名分がなんであっても。
これは諸葛孔明という人間のなかで、矛盾しないのか。
という点について、小学生の頃、はじめて三国演義を読んだときから、
非常に疑問に思っていた。
五虎大将はすべて死に、世代は確実にうつりかわり、劉禅は凡庸だ。
建国の理念すら失われつつあることについて、
出師の表によって苦言を呈したのは、孔明自身だ。
それはそれとして、蜀の民は、戦争を望んでいたのだろうか。
諸葛家自体が、戦争難民で逃れて来た客家だったわけだし。
当時ちゃんと言葉で説明できたかわからないけど、母に「なんで?」と聞いた。
確か母は「成都の宮廷、孔明さんには居心地が悪かったんだろうねえ。
時に、信じるもののために戦うことも必要なんだよ」と言った。
私はそれに対し「そのために兵を動かして、死なせるの?」と聞いた。
母は「孔明さんは、蜀が滅びるってわかってたんだよ。でも滅び方が問題。
中国は歴史書で遺されるから、どのように書かれるかが大切なんだよ。
後の世代の人たちが誇りに思ってくれるような死に方をしないと、
その後の人たちの生き方や国造りに影響を与えるからね」と。
さすが、唐書を白文で読んでいた人なだけのことはある。
母は、こういうときに適切な答えをくれる人だったと思う。
いまから2000年も前に、諸葛孔明について北伐に出た人たちは、
いったいどんなことを考えていたのだろう。
三国演義をはじめて読んだとき「へえ~」と思ったのは、
中国人は自分たちの領主を自分たちで選んで来たということ。
徳がなければ、兵力を持っていたとしても、流浪する以外にない。
だからこそ、劉備はおそらく実像以上にイメージ戦略がよくて、
蜀に拠点を構えることができるようになった。
日本とは、国の造り方が根本的に違う。
北伐のころの諸葛孔明と、官渡の戦いに大勝したころの曹操とは、
一度話してみたいものだ。
久しぶりに、三国演義を読み直してみようかな。
はじめて読んでから約30年、最後に誰かのバージョンを読んでからも約20年だ。
旧友だなあ。
1980年代に撮られた作品だけど、いまだに大人気だ。
夜になると、周囲の家からオープニングの音楽が聞こえてくる。
昨日は、「泣いて馬謖を斬る」あたりから、どんどん過労で衰弱していく諸葛孔明の
メイクのすごさに感動するくだりが4回連続で放映されていた。
80年代にこれだけ頑張って撮った作品とも言えるし、
カット割が、ほぼ誰かの正面アップの連続で構成されることに、
ああ、京劇の国だなあ、と思ったり、
中国人の視覚認識について、なるほどなあ、と思う楽しみがあったりする。
中国人は必ず相手の視界の範囲に入ろうとする人たちだ。
むかしは「三国演義」をフィクションとして楽しんでいた時期もあったけれど、
大人の薄汚れた心で改めてこの物語を見てみると、
やっぱり釈然としないことが出てくる。
羅漢中によって、諸葛孔明が魔法使いのようになっているのは、
まあ、フィクションだからいい。
一番納得いかないのは、諸葛孔明が北伐を行ったこと自体だ。
蜀の建国の理念が、漢王朝の復興だったから、簒奪者である魏に対して
戦いを挑まなければならないという理由もわかる。
でも、そもそも諸葛孔明が三顧の礼で迎えられた直後、
兵力で劣る点を補うために、民兵を使ったとき、
民は、主君のために戦うのではなく、自分の土地と家族を守るために戦うから、
戦力になると考えていた。
では、蜀の民を、行ったこともないような北伐に動員するのは、
漢王朝にとっては中原に戻るための戦いだけれど、
戦う兵士にとっては、見知らぬ土地を占領するための戦いになる。
当然、もともと戦場となる土地に住む人たちにとっては、侵略者との戦いになるだろう。
国家同士の大義名分がなんであっても。
これは諸葛孔明という人間のなかで、矛盾しないのか。
という点について、小学生の頃、はじめて三国演義を読んだときから、
非常に疑問に思っていた。
五虎大将はすべて死に、世代は確実にうつりかわり、劉禅は凡庸だ。
建国の理念すら失われつつあることについて、
出師の表によって苦言を呈したのは、孔明自身だ。
それはそれとして、蜀の民は、戦争を望んでいたのだろうか。
諸葛家自体が、戦争難民で逃れて来た客家だったわけだし。
当時ちゃんと言葉で説明できたかわからないけど、母に「なんで?」と聞いた。
確か母は「成都の宮廷、孔明さんには居心地が悪かったんだろうねえ。
時に、信じるもののために戦うことも必要なんだよ」と言った。
私はそれに対し「そのために兵を動かして、死なせるの?」と聞いた。
母は「孔明さんは、蜀が滅びるってわかってたんだよ。でも滅び方が問題。
中国は歴史書で遺されるから、どのように書かれるかが大切なんだよ。
後の世代の人たちが誇りに思ってくれるような死に方をしないと、
その後の人たちの生き方や国造りに影響を与えるからね」と。
さすが、唐書を白文で読んでいた人なだけのことはある。
母は、こういうときに適切な答えをくれる人だったと思う。
いまから2000年も前に、諸葛孔明について北伐に出た人たちは、
いったいどんなことを考えていたのだろう。
三国演義をはじめて読んだとき「へえ~」と思ったのは、
中国人は自分たちの領主を自分たちで選んで来たということ。
徳がなければ、兵力を持っていたとしても、流浪する以外にない。
だからこそ、劉備はおそらく実像以上にイメージ戦略がよくて、
蜀に拠点を構えることができるようになった。
日本とは、国の造り方が根本的に違う。
北伐のころの諸葛孔明と、官渡の戦いに大勝したころの曹操とは、
一度話してみたいものだ。
久しぶりに、三国演義を読み直してみようかな。
はじめて読んでから約30年、最後に誰かのバージョンを読んでからも約20年だ。
旧友だなあ。