ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

背丈の印象

2009-12-05 22:33:56 | Weblog
最近、久しぶりに会った人から、「背、伸びた?」と、よく聞かれる。
いや、この5年くらいは、伸びていない。ずっと165センチのまま。

少し太ったから、全体的に大きくなったのか、
それとも、いろいろな意味で貫禄が出て来たのか。

まあ、いずれにせよ、大きく見えるのはあまり嬉しくないので、
こう言われると、地味に傷ついている。

日本女性の場合、背が高いことを喜んでいる人は、
あまり多くないと思う。
どちらかと言うと、小さく見られたい。
背が高いと、だいたい、小さい頃には、
それをネタにからかわれた経験もある。

私は、単純に、背が高いと同級生の女の子と目線の高さが合わないので、
いつも、もう少し低いと便利だなあ、と思っていた。
無意識に目線をそろえたくなって、猫背になってしまう。

私が女性の友だちにもつ背丈の印象は、
自分よりも高いか低いかだけだから、
思ったよりも高かった、という感想をもったこともほとんどない。
自分より高い人がいると嬉しい、というだけ。

背丈の印象って、何に左右されているんだろう。

しょうがない

2009-12-04 17:37:28 | Weblog
最近、使うときに一番気をつけている言葉は「しょうがない」だ。

「気にせず、がんばろう」というな、前向きな意味で使われる「しょうがない」もある。
変に、誰が悪い、何が悪い、とネチネチ考えつづけるくらいなら、
いっそのこときっぱり再出発するために、「しょうがない」という割り切りは有効だ。
特に、仕事をしているときは、かなりこのテンションに助けられる。

でも、「ホントに?」と考えてしまうときがある。

仕事上の相性の問題から、関係先をしぼったり、
時には、スタッフの勤務形態が少し変わったりすることがある。

そんなとき、残った人のあいだでは、よく「しょうがないよね」という話になる。
「あの人は、こちらがチャンスを与えていたにもかかわらず、
結局変わってくれなかったから、しょうがないよね」と。
このセリフには、「相手が悪いんだよ。自分たちは悪くない」という意味が暗に込められている。

こういう会話を聞いていると、
「でも以前は、そこがその人の個性で、いいところだ、って言ってなかったっけ?」と、
思う場合も多い。
特に、ミスらしいミスもなく、
その人なりのペースでマジメにやってきた人の話をしているとき、そう感じる。

少し前に、そんなような会話を聞いた。
そして、聞きながら、
もしかしたら、この会話に参加している人たちの心の中には、
ある人を自分の勝手な都合で切り捨てた、という罪悪感があって、
それを直視するのが怖いから、「しょうがない」という言葉にすり替えて、
自己弁護をはかっているのではないかな、という気がしてきた。

そんな気分で会話を聞いていると、ますますどんどん、
なんだか、一生懸命あら探しをして、自己暗示をかけているみたいに思えてきた。
そして、それまでは再出発のような気分で参加していた会話が、
ものすごく居心地の悪いものになった。

ずっと耳の奥に、あのときの会話の残響がある。

10A

2009-12-02 21:31:32 | Weblog
我が家の電力は10Aだ。
電子レンジはなく、炊飯器はガス。ほとんど冷暖房もつけない。
だから、たまにブレーカーが落ちるけれども、
私としては快適な日々を送っている。

ただ、デパ地下でお惣菜を買ったときに、
店員さんが懇切丁寧に「電子レンジで温める場合は・・・」と説明してくれると、
ちょっと居心地が悪い。

今朝、仕事場で大手電器量販店の年末セールのチラシを見ていた。
欲しいなあと思うものを買うかどうかの境界線は、消費する電力だ。

そんな話をしていたら、
ある人が「あなたの家は、うちの水槽と同じということですね」と
ポツリと言った。

その人の家のリビングには熱帯魚の大きな水槽があり、そこの消費電力が約10A。
冬は、その水槽の熱でリビングは適度に温かく、
しかも加湿効果もあるから、非常にエコだと言っていた。
それに、魚を見ているだけで癒される。
なかなかいい環境だ。

とはいえ、約50匹の熱帯魚と私は同じ生活水準、となるのだろうか。
うお座だから、それでもいいや、と変に納得したのだけど、
そろそろ、せめて15Aにあげようかなあ。

なぜ、のあと

2009-12-01 16:36:41 | Weblog
今朝、駅に向かって歩いていたら、
乳母車に乗った小さな女の子とお母さんが、同じように駅へ向かって歩いていた。

お母さんは黙々と乳母車を押している。
そして女の子は、乳母車に乗ったまま、声の限りに叫んでいた。
「なぜ、なぜ」と。
すごく悲痛な声で、5分以上もずっと休むことなく。

お母さんに甘えるように「なんで。どうして」というわけでもなく、
ただひたすら、胸の奥から絞り出すように一人で叫んでいた。
なんとなく、きっとこの子には、前世の記憶があるのだろうなあ、と思った。

誰だって同じだと思うけれど、
小さい頃は、本当に頭のなかに「なぜ、どうして」が満ちている。
それを楽しめる人もいるのだろうけど、私はそれがとても苦しかった。
望もうが望むまいが、いろいろなことが私に降って来る。
なんでこんなに突き刺さってくるのだろう、と思っていた。

あまりに物事を楽しめない性格だったので、
「楽しんで努力しなさい。人間が向上するにはそれが一番大切」と、
母によく注意されたけれども、そう言われれば言われるほど、
世の中のすべてがイヤになった。

先日、学生時代に書いた詩のノートを見つけた。
パラパラと眺めていたら、月や星の光について書いたものがあった。

何千、何億もの星の光が、私に矢のように降り注ぐ。
そして、月の光は鈍く低く、骨の髄まで暗く浸透してくる。
夜の闇の中にも、決して逃げ場はない。

高校生くらいのとき、こんなようなことを書いていた。
なんとまあ、暗い学生時代だったのだろう。
ただ、昔から、星を眺めてロマンチックな気持ちになれるような性格ではなかったのだ、
と再認識したことにより、
ここ最近で感受性が乏しくなったわけではない、と、逆に少し安心した。

でも、私の周囲にいる何かを為している人は、「なぜ」のあと、
楽しんで努力できるというか、努力を楽しめる人だなあ、とも思う。