今日は護国寺まで、チベット仏教の高僧クンデリン・ヨンジン・ゲン・ロサン師の法話を聞きに行った。
先日の広島のダライ・ラマ法王のお話は聞きに行けなかったけれど、
今日、その日に法王がお話しされたことを、わかりやすくお話ししていただいた。
ダライ・ラマ法王の講演会に比べるとこぢんまりとしてて、
かつ、本当に興味を持っている人が集まる。
だから、特に最後の質疑応答の時間の居心地がよかった。
質疑応答で出た質問の内容をかいつまんで言うと、
覚えていない無限の過去の悪業の結果を軽減する方法はあるのか。
無我ならば、アートマンを否定するならば、前世・今生・来世で因果が乗る我はどこにあるのか。
という質問が出たと思う。
この議論が始まるといつも思い出すことがある。
確かに、自分の行いだけが、今の自分や未来の自分に関係があるのなら、
罪は軽くしたいし、私という魂はあると思う。
でも、ときに私は自分のせいではないことも、引き受けることになる。
いつも身を裂かれるように思い出すのは中国での思い出。
私は中国人と仲良くしたかったけど、
私が日本人だというだけで、私自身がまるで中国人を虐殺した張本人のように批判してきた人もいた。
ここにも因があり果がある。
そして、戦争に至った経緯には、日本には日本の言い分がある。
それこそ原因は無限に遡れるし、そうなると、
その原因というやつは、直接的には今の私のせいではないことだらけになる。
勉強をしなかったから赤点をとったという範囲の話では解決できない。
自分のせいではないことや、
しかも場合によっては、それに反対の立場であったことについても、引き受けるしかないときがある。
この私として生まれてしまったからという理由以外、原因を見つけられないこともたくさんある。
仕事でも、よくそんなことがある。
そんなことがあると、悲しいし、「なんで私が!」と不満を感じる。
そう感じる私はいる。
自分のせいではない大きな縁起によって引き起こされた感情に、押しつぶされそうになる自分は、
確実に、ここに、いる。
じゃあ、どうするのか。
自分の経験に照らすと、そんなことを言っているのだと思う。
因果応報や、自分がいまここにいるということは、そんなことなんだろうと思う。
そして、それを、誰のことも恨まず、妬まず、とことん考えるのが私にとっての仏教だ。
だから、壺を買ったり、占い師に暗示をかけてもらって救われるようなことは、
少なくとも私にはないと思う。
つい先日『チベット 死者の書』を読んだところなんだけど、
私は、実際に死んでから母体に入る輪廻転生と解脱の物語よりも、
いま、この瞬間の自分とどのように向き合うのかのほうが、ずっと気になる。
ただ、『チベット 死者の書』は、母が亡くなったときに、
母がゆく行程をイメージし、そのイメージとたいへん近かったので、
母が解脱したのか、輪廻転生したのか、とても気になるところだ。
まあ、母の場合、あの性格だと、やり残したことがあるから輪廻転生したと思う。
ここまでが、帰り道に盛り上がって書いた文。
帰宅して、今日、師にかけていただいたカター(白い布)と、
いただいたスンドゥ(赤い糸)を眺める。
10年前、四川省と雲南省の境目あたりを1人で放浪していたとき、
ふと立ち寄ったチベット寺院で、小坊主が、私にくれたスンドゥを思い出した。
彼よりもっと年下の、幼稚園生くらいの子どもたちを見ていた10歳くらいの少年が、
「どこから来たの?」と、話しかけてきた。
私が「日本からよ」と言うと、ピンとこない様子。
「外国の日本よ。旅行できているの」と言ったら、ジッと私の顔を見て、
「ちょっと待ってて」と、堂内に消えて行った。
少し経つとピンクのヒモを持って戻ってきた。
「これは、あなたが無事に故郷に戻るまでのお守りです。お祈りを捧げます」と言って、
小さい声でお経をよみながら、私の首にかけてくれた。
「いらなくなったら、お寺で燃やすなどして捨ててね」と言われ、
ずっといらなくならないから、とってあるピンクのスンドゥ。
彼はいま元気にしているだろうか。
元気に仏教の道を歩んでいることを祈りつつ、一緒に写真を撮った。