訪問先の施設は銀座の5丁目にあります。日比谷から歩いてみました。日生劇場と帝国ホテルです。
これは東京宝塚劇場です。ガードを超えて歩いていくとみゆき通り
昔の歌で、すずらん通り
「ふたりの銀座」とかという歌詞が思い浮かびました。目的地を通り過ぎて、このビルは和光ビル、時計塔は、銀座のシンボル的存在になっています。ウエストミンスターの鐘がなるそうです。
こちらは三愛ドリームセンターで、ビルはリコーの創業者である市村清が戦後間もない1946年、銀座4丁目の旧六十九銀行銀座支店跡地に地上2階建ての「三愛ビル」を建設し、以後この地を販売の中心地として経営を拡大していったところです。
さらに奥へ東銀座
新装なった歌舞伎座まで行って、引き換えしました。
訪問先とライオンビヤホールの間のビル、松坂屋デパートは取り壊されていました。
銀座にできたユニクロです。
帰りは新橋に向かって歩いてみました。こちらは花椿通り、
銀座の中は中国系とみられる観光客でいっぱいでした。
銀座の8丁目、昔銀座9丁目は水の上という歌がありましたが、どこをさしているのか考えながら歩いてみました。
新橋と書かれています。家で調べてみたら新橋の下を汐留川が流れていてそこに船が浮かんでいたようです。
ウイキペディアにこんな昔の新橋の写真が載っていました。
銀座といえば柳も有名でしたが、こちらは銀座の柳の2世だそうです。
銀座の柳の碑:銀座煉瓦街ができた頃、風趣を添える街路樹として松、桜、まきの類も植えましたが、風塵のために育たず、次第に柳だけになってしまいました。大正10年いちょうに植えかえられましたが、柳の風情を惜しむ声は強く、昭和4年には西条八十作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌う”昔恋しい銀座の柳”の「東京行進曲」が一世を風靡し、同6年柳並木が復活、再び西条、中山コンビが「銀座の柳」を作り”パリのマロニエ、銀座の柳」と四家文子が歌いました。しかし、東京大空襲によりほとんどが焼失、その後復活しましたが、昭和43年銀座通りの大改修等により、銀座通りから柳並木がなくなりました。現在は街の人たちの尽力により銀座の柳二世が育てられ、西銀座通りに復活しました。また、全国に贈られ植樹されています。中央区観光協会HPより
新橋駅の近くに土橋というところがあります。昔のメーデー行進の解散地でした。代々木公園から延々と歩いて着いたところです。早くビールが飲みたいとライオンビアホールに飛び込んだことも懐かしく思い出されました。ちなみに新橋は土橋より後に新しくできたので新橋というらしいです。
今は上が高速道路で川らしい面影は見当たりませんでした。