足利市と栃木市の施設を訪問しました。東武電車の特急で足利市に向かいました。東武の足利市駅から渡良瀬川を渡って施設に向かいました。途中に閻魔堂がありました。閻魔様は奥にいてあまり見えませんでした。施設の裏は山でイノシシが出るそうです。イノシシが掘ったらしいところがありました。仕事を終えて次の栃木にある施設に向かいましたが、足利から栃木に行く電車は1時間に1本で、しばらく時間があるので、途中のうなぎ屋で昼食を食べてJRの駅に向かいました。足利の施設は今回で3回目ですが、1回目にも寄った足利氏宅跡(鑁阿寺=ばんなじ)に行ってみました。西門から入ってみました。(方向感覚がなく東のつもりでした)西の門と書いてあります。最初に目立ったのはこれ経堂でした。次に目についたのは不動堂でした。これは酉年の守り本尊ということで、酉年としては見ておかなければならないと思いました。いよいよ本堂です。足利市の案内には「鑁阿寺は、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね)が、建久7年(1196年)に、邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て、守り本尊として大日如来を祭ったのが始まりといわれています。 その後、三代目の足利義氏(あしかがよしうじ)が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としました。周囲に土塁と堀をめぐらした寺域はほぼ正方形で、約40,000平方メートルあり、鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えています。 境内には重要文化財の本堂など貴重な建物が多く、このことから大正11年に国の史跡に指定されています。」と書かかれていました。他にも「春は桜、秋はいちょうの黄葉が素晴らしく、市民には『大日様』と呼ばれ親しまれています。鑁阿寺本堂は、足利氏の居館跡に建てられた東日本を代表する中世の密教(みっきょう)本堂です。この本堂は室町幕府初代将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)の父・貞氏(さだうじ)が正安元年(1299)に再建したもので、鎌倉時代に禅宗とともに中国から伝わった当時最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様(ぜんしゅうよう)をいち早く取り入れ、外来の新技術の受容のあり方をよく示していることなどが今回の評価につながりました。
鎌倉時代の禅宗様建築は全国的にも類例が少なく、まさに国宝にふさわしい貴重な文化財です。
なお、この本堂は、正安元年の建築後、応永14年(1407)から永享4年(1432)の修理により、柱と小屋組を強化して本瓦葺に改められました。その後、室町時代末期までに背面向拝(こうはい)をつけ、江戸時代中期に正面向拝が改修されました。」こんな紹介がありました。
1回目は北門、今回は西門から入りましたが、正門(楼門)がありました。鎌倉時代からの施設は本堂に正門、それに鐘楼と東門だそうです。周りの堀には親子の鴨が泳いでいました。鴨を見ていらたくーくーと鳴く声がしてみたらネコさんでした。足利学校は時間がなく入れず裏から写真だけ撮りました。
足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。 足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。
江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろしましたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復原完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしています。ということだそうです。