旧古河庭園のバラ園に行く途中に平塚神社があります。就職した当時は配属先が台東区だったので、東京都区部の北部ということで、北区などとも交流があり、時々訪れていましたが、平塚神社には寄ったことがありませんでした。
あれから45年、退職して江戸名所図会めぐりをしていて、平塚神社も描かれているので、散策してみました。江戸名所図会より
キャプション この辺、すべて平塚城跡なり。
★ランドマーク平塚神社:平塚神社(旧平塚明神社)の略縁起
平塚神社の創立は平安後期 元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲目であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川義光の近習となり立身出生を果たした。その後、義光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の行基はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。
こちらの図会は八幡太郎義家兄弟
キャプション
奥州征伐凱陣のころ、武蔵国に入りたまひ、豊島某が住みし平塚の城に逗留ありて、あるじに鎧一領を賜りけるを、後、塚に築き収めて、 城の鎮守とし、平塚三所明神といつきまつりしも、実に武功のしからしむるゆゑなるべし。
平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義光(賀茂次郎)、義綱(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けた。義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく平たかったことから「平塚」とよばれ、これが当地郷の地名のおこりとされる。。
拝殿の後ろの山が甲冑塚のようです。
JR上中里駅のホームから見ています。
古地図では平塚社があり、御殿山の下に鎧塚となっています。
地図に六阿弥陀第3番無量寺となっており、石塔があったので
ここを入り、坂を下りましたがましたが到着できませんでした。
広い境内(参道)が残っています。
石鳥居には文化10年と彫られています。
文花10年は1827年で(みずのととり 癸酉)だそうです。文花10 癸酉年と書かれているようです。狛犬
手水場
神楽殿
菅原神社
石室神社
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