ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

愛染堂(勝鬘院)  あいぜんどう (しょうまんいん)

2013年05月24日 23時05分02秒 | 訪問地周辺散策

大阪の淀屋橋で会議でした。予定より2時間ほど早い新幹線で大阪に向かい、少し寄り道をしました。四天王寺の近くにある四天王寺施薬院跡・愛染堂(勝鬘院)を訪れました。”愛染さん”の名で親しまれている勝鬘院は、593年(推古天皇元)に聖徳太子が四天王寺を創建した際に置いた施薬院(庶民救済の地として薬を与える社会救済事業として建てられました)の後身です。
 「勝鬘院」の名は、この地で聖徳太子が勝鬘経の教えを説き、金堂に勝鬘夫人を安置していることから名付けられたそうです。また金堂には愛染明王が祀られていることから「愛染堂」とも呼ばれています。

金堂の後ろにそびえ建つ多宝塔は、推古天皇元年(593)聖徳太子によって創建されました。その後、織田信長の大阪石山寺攻めの際に焼失しましたが、慶長2年(1597)豊臣秀吉により再建されました。
大阪市最古の木造建造物として国の重要文化財に指定されています。
愛染かつら
 予備知識なしに見ていたので、2本の木があると思い探しましがありませんでした。帰って調べたら、こんなことが書いてありました。「樹齢数百年といわれる巨大な桂の木に、ノウゼンカヅラが絡みついた木が祀られています。その姿が、男性的な大樹の桂に寄り添う女性的なかずらとして見られ、男女の縁を結んでくれる縁結びの霊木として人気を集めている」。また、「小説家の川口松太郎さんが、この近くに住んでいたこともあり、彼の代表作であり映画化もされた『愛染かつら』のモデルとなった縁結びの霊木」「この霊木の前で語り合った男女は、何があっても幸せな結末が訪れるという伝説が残る」ものだそうですが、お互いに1本の木でなく、からみついているのが女性というのが気に入りません。
境内にはこんなものもありました。
愛染めの霊水です。
絶えず流れ出る愛染めの水を飲めば、愛敬を授かり、さらには開運、夫婦和合、良縁成就・安産、出世、商売繁盛、思いのままという功徳があるとされる大人気の霊水だそうです。
また、この水で染め物をすると色よく染まると昔から言われ「藍青商(染物屋)」の間では信仰が篤く「賑わしや愛染詣での紺屋づれ」と詩に詠われるほどだったそうです。
次に向かった大江神社の脇に坂がありました。
愛染坂で、昔はこの高台のすぐ下まで海岸線が来ていたようです。


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NHK

2013年05月21日 21時33分24秒 | 訪問地周辺散策

代々木公園からデッキを渡ってNHK側に出ました。NHKホールです。一度も入ったことがないのでぜひ一度入りたいと思っています。昔NHKのラジオを聞いていた頃は、内幸町から放送していました。これが、職場の近くの内幸町の跡地です。今の場所からの放送で渋谷区神南と、所在地をいっていたのをよく覚えています。最初の放送は、この間訪れた愛宕神社のある愛宕山からの放送だったようです。
NHKは、放送法に基づく特殊法人として1950年に設立されました。設立目的は、放送法により「公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送を行うとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び協会国際衛星放送を行うこと」とされていいます。なお、社団法人日本放送協会は、1925年に日本で初めて放送業務を開始した社団法人東京放送局、社団法人名古屋放送局及び社団法人大阪放送局(現在のNHK放送センター、NHK名古屋放送局、NHK大阪放送局)の業務を統合して設立されたものだそうです。
ラジオでNHK東京放送局と言っていたのを思い出します。代々木公園から渋谷公会堂側に歩いているとこんなものがありました。2.26事件の慰霊碑のようです。昭和11年2月26日、皇道派将校によりおこされたクーデター226事件の首謀者 青年将校17名の処刑場 旧陸軍刑務所敷地跡の一角に立つ観音像です。昭和40年2月26日建立されています。 碑にはこんなことが書いてあります。前半だけですが、昭和11年2月26日未明、東京衛戌の歩兵第一第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた、野中四郎大尉等青年将校に率いられて決起した。
当時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。決起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。
斎藤内大臣高橋大蔵大臣渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い岡田総理大臣牧野前内大臣は危うく難を免れた。 此の間、重臣警備の任に当たっていた警察官のうち5名が殉職した。
決起部隊に対する処置は四日間に穏便説得工作から紆余曲折して強硬武力鎮圧に変転したが2月29日、軍隊相撃は避けられ事件は無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
ここから坂を下りてセンター街に出ました。
汗をかいたので、ヤマダ電機でトイレを借り、少し涼しんで目的地に向かいました。



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代々木公園

2013年05月21日 20時21分26秒 | 訪問地周辺散策

渋谷が訪問地でした。原宿まで行って代々木公園を散策しました。からっとした5月晴れで緑が鮮やかでした。代々木公園の所在地は、かつて「代々木の原」と呼ばれた大日本帝国陸軍の代々木練兵場でした。これが第二次世界大戦での日本の敗戦後には占領アメリカ軍施設・ワシントンハイツとなり、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで代々木選手村として使用された後に再整備され、1967年(昭和42年)に代々木公園として開園したものです。
東京23区内の都市公園のなかでは、葛西臨海公園(約79ha)、水元公園(約76ha)、舎人公園(約71ha)に次いで4番目に広いものです。
開園当時はまだ若かった木々も、今ではすっかり成長し、隣接する明治神宮の木々と共に緑濃い森を作っています。
 また平成2年5月には、高さ15m~30mに及ぶ大小3基の噴水や水回廊をもつ水景施設が完成、“水と緑”に恵まれた公園として生まれかわっています。
まっすぐバラ園を訪れました。バラ園を管理してる方がいたので、バラの盛りは過ぎましたか、と聞いたところ一番花は終わったという返事でした。バラ2バラは次々と咲いてくるので、そういう言い方をするのかと納得しました。奥には噴水池があるらしいですが、時間がないのでデッキに向かいました。デッキの下の道は東京都道413号赤坂杉並線というらしいです。デッキを挟んで南側には陸上競技場などの施設と東京オリンピックで使用された代々木体育館などがあります


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高井戸

2013年05月20日 21時57分43秒 | 訪問地周辺散策

高井戸を訪問しました。途中で何かランドマークになるようなものを探しましたが、雨と時間のない中で適当なところが見つからず、訪問地の高井戸駅に着きました。駅を降りるとすぐに神田川があり、そこに白鷺が獲物を探していました。いくら探しても、そこは雨水が川に流れ込むところなので見つからないと思いましたが、盛んに水に嘴を入れていました。
上から見たところです。
1時間半ほどの訪問を終えて戻ってみましたが、見つかりませんでした。ひとつ上流の橋まで行くと今度は流れの中で盛んに獲物を探していました。どうも不器用な鳥らしくそこでもなかなか獲物を捕らえることができませんでした。
神田川は、隅田川の一支流で、延長25.48Km、井の頭池から文京区関口の大滝橋までを「神田上水」、その下流飯田橋付近までを「江戸川」それより下流両国橋近くの隅田川合流点までを「神田川」と呼ばれていたが1965年(昭和40年)の河川法の改正で一級河川となり、全体を統一して「神田川」と呼ばれるようになりました。支流には善福寺川や妙正寺川があります。
天正18年(1590)大久保忠行が杉並区を流れる清流を下流の小石川関でせきとめ神田上水路に導きました。明治33年(1900)飲み水として使用禁止になるまで約300年にわたって江戸の飲料水となっていました。
高井戸駅は環八と神田川が交差している上にあります。
高井戸の地名の元のなる井戸でもあるかと探しましたが、実は、高井戸の名称は、高低や井戸とは無関係で、かつて高井家が代々宮司を務める神宮寺があり、目印となるお堂に「不動様」が祀られていたことから通称「たかいどう」と呼ばれ、周辺を指す地名で使われていたものが転じて「たかいど」となったそうです。跡地は団地となってしまいましたが、高井家15代までの墓が残されているそうです。神宮寺は、明治の廃仏毀釈で寺か神社かの選択を迫られ没落してしまい、土地もすべて売り払ってしまいましたが、「たかいど」の地名だけが残ったそうです。



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法恩寺

2013年05月19日 22時04分25秒 | 自宅周辺探索

大横川親水公園を散策していると、法恩寺橋に出合いました。法恩寺に寄ってみました。ここも、長い間前を通るのみで中へ入ったことがありませんでした。
法恩寺のPHより:開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公であります。道灌公が江戸城築城≪長禄二年(一四五八年)≫に当たり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、資高の代、本住院を法恩寺と改称したのであります。山号を平河山と称するのは、当時この附近を平川村と称したことによるものです。又、当山には秀吉、家康共に小憩され、朱印地も与えられました。
 家康が江戸に入り城内拡大に当たり、慶長十年当山は神田柳原に移転し、その後谷中清水町に移され再度元禄八年に幕府により現在の地に移りました。境内は輪奥の美を整え宗門における関東の触れ頭として現在でもその威勢を誇っております。
太田道灌の碑太田道灌の略歴:生年は1432(永享 4)
没年は1486(文明18. 7.26)
◇室町中期の武将・歌人。幼名は鶴千代麿・源六郎、初名は持資(もちすけ)のち資長(すけなが)、法名は道灌、通称は左衛門大夫・備中守。太田資清(すけきよ)の子。相摸国の人。
 扇谷(おうぎがやつ)上杉家の執事で、政真・定正(さだまさ)を補佐する。
 築城・兵馬の法に長じ、1457(康正 3,長禄元)年、江戸城を築く。ほかに川越・岩槻(いわつき)・鉢形の諸城を築く。江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、『慕景集』がある。
 1476(文明 8)山内上杉家の内紛(顕定の家臣長尾景春の乱)を鎮圧する。扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒言(ざんげん)により、相摸国大住郡糟谷で主君定正に殺される。

碑には次の逸話に出てくる有名は山吹の話:鷹狩の最中に俄(にわ)か雨にあった太田道灌(おおたどうかん)(1432~1486)から蓑(みの:当時の雨具)を求められた農家の少女、紅皿(べにざら)は庭に咲いていた山吹(やまぶき)の一枝を差し出しただけでした。その枝には古歌
七重八重(ななえやえ)、花は咲けども山吹の、みのひとつだに無きぞ悲しき
中務卿兼明親王(かねあきらしんのう)( 914~ 987)の意味が込められていました。家臣から「実の」と「蓑」が懸けられているのだ、と教えられた道灌は、無学を恥じて和歌を勉強し、後に紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたという話です。
 法恩寺橋のせせらぎに鴨



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