ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

大横川親水公園

2013年05月19日 20時55分15秒 | 自宅周辺探索

墨田区硬式テニス大会の運営で、大横川親水公園テニスコートに行きました。ここは、緑のクレーコート2面をつぶして北斎館を建てるということでここに作られました。2010年1月に開設された人工芝のコートです。大横川親水公園は、大横川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しい地域であっため、天井川になり、低い土地では川から水が溢れると浸水する危険がありました。また、大雨で濁流が流れ込むと酸欠で魚が死に、腐敗して悪臭を放つような状態でした。これを埋め立てて親水公園として整備されたものです。公園としては1993年4月1日に開園しました。業平橋の北から竪川の合流地点まで約1.8kmが埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として大きく変わりました。。
テニスコートは竪川の合流点の手前にあります。
運営の途中、親水公園の最も北側のを業平橋のところまで行ってみました。そこはツリーの足元になります。コートを囲む住宅の屋上にはバラが咲いていました。コートの脇の花です。
今日会った動物です。
出かけに錦糸町で三毛猫に会いました。近寄ったら道路に出ていきました。コートの手前では鴨が一羽泳いでいました。
親水公園の途中には二羽が盛んに羽繕いをしていました。

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東京都美術館

2013年05月17日 23時12分19秒 | 近郊地散策
知人から職美展の招待券をいただき上野の東京都美術館でに行ってきました。都美術館職美協(全日本職場美術協議会)とはHPより
 戦争が終わって平和と民主主義の時代を迎えた1947年6月、東京都美術館において第1回展を開催。働く人々が自由に絵を描けるようになってサークルを作り、自分たちの手で全国的な展覧会を開く世界でも初めての事でした。
 私たちが新しい文化を築くという熱い想いで様々な困難を乗り越えて半世紀以上がたちました。審査や賞を無くして、作品の種類・大きさ・巧拙などで選別せず、自由に見ていただく展覧会です。
印象に残った絵は絵1
「洋上から眺める原発列島の夜炎」大野 一夫さんのものでした。米軍が震災の時に洋上に駆けつけて見ているものと思われます。
絵2誘っていただいた田中栄子さんの「枯葉剤の森」です。写真家の中村悟郎氏の写真をもとに作成したそうです。
上野公園は修学旅行生などでにぎわっていました。

上野には国立西洋美術館が上野駅の公園口を出たすぐのところにあります。西洋美術館国立西洋美術館はフランス政府から寄贈返還された松方コレクション(印象派の絵画およびロダンの彫刻を中心とするフランス美術コレクション)を基礎に、西洋美術に関する作品を広く公衆の観覧に供する機関として、1959(昭和34)年4月に発足しました。以来、広く西洋美術全般を対象とする唯一の国立美術館として、展覧事業を中心に、西洋美術に関する作品および資料の収集、調査研究、修復保存、教育普及、出版物の刊行等を行っています。
ちょっと寄ってみました。前庭には教科書で有名なロダンの考える人や考える人カレー市民カレーの市民の彫刻がありました。
1970年から74年まで、上野を管轄する保健所に勤めていたので、上野の山にある施設に出向いた時、ロダンの考える人は教科書に載っていたものだという感慨をもって眺めていました。


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上野東照宮

2013年05月17日 22時02分33秒 | 近郊地散策

上野東照宮に寄ってみました。東照宮のHPより、1616年、2月4日、お見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言を受けました。そこで藤堂家の屋敷地であった上野に1627年に東照宮を造営しました。1646年には正式に東照宮の宮号を授けられました。
1651年に三代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿です。金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれています。 当時は東叡山寛永寺の一部でしたが、戦後神仏分離令により寛永寺から独立しました。 その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物です。
東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社です。日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、全国各地に数多くございます。 そのため、他の東照宮と区別するため上野東照宮と呼ばれておりますが、正式名称は東照宮でございます。
銅灯籠
全48基。国指定重要文化財。寛永慶安年間に諸大名が奉納したもの。
唐門両側6基は徳川御三家(紀伊・水戸・尾張)より寄進されたものです。
家康公の13回忌に藤堂高虎が奉納した1基が最も古く、形も南円堂形と特徴的です。境内にはこんなものもありました。
広島・長崎の火です。「広島・長崎の火」は、故・山本達雄氏が被爆した広島の焼け跡から故郷・福岡県星野村(現・八女市)に持ち帰った平和の塔の「原爆の火」と、長崎の原爆瓦から採火した「長崎の火」を合火して、燃やし続けられている。「核兵器をなくし永遠に平和を誓う広島、長崎の火」と書かれていました。

五重塔が見えたので近づこうと思いましたが、塀で囲われていました。旧寛永寺五重塔です。旧寛永寺五重塔は寛永8年(1631)、土井利勝が寄進した塔は、寛永16年(1639)に焼失しました。現在の塔は、焼失後に寄進されたものです。五重塔は、上野動物園内に位置しているということで動物園に入らないと近づけないようです。

寺の案内によると、この塔は、第五層のみが銅板葺(どうばんぶき)で、他は瓦葺(かわらぶき)となっており、高さは地上から先端の宝珠 (ほうじゅ)まで36m、第一層には釈迦(しゃか)・薬師(やくし)・阿弥陀(あみだ)・弥勒(みろく)の四方四仏(しほうしぶつ)が祀られています。(現在の塔は寛永十六年(1639)に再建)ということです。




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有栖川宮記念公園

2013年05月15日 23時51分42秒 | 訪問地周辺散策

広尾店で仕事をした帰りがけに有栖川宮記念公園に寄ってみました。
★ランドマーク有栖川宮記念公園港区のHPより、公園の沿革「この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていましたが、明治29年、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王の栽仁(たねひと)王新邸造成の御用地となりました。大正2年、同宮家が絶え、大正天皇は第三皇子光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王に、有栖川宮の旧称高松宮の称号を賜り、その御祭祀をお継ぎになりました。その後、児童福祉を目的とする遊び場に深いご関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年1月15日にこの地を東京市に賜与されました。そして、東京市は同年11月に記念公園として開園しました。その後、北東部を編入し、昭和50年には港区に移管されて、多くの人に親しまれています。」と書いてありました。

入り口のところに池があります。

鴨が泳いできました。奥にも3羽いました。。鴨以外にも、シーズンに寄っていろいろな野鳥が集まるようです。

山の上には都立の中央図書館があるそうですが、その前の広場に、有栖川宮熾仁親王銅像や新聞少年の像などがありました。


この像は、昭和33年5月31日建設。当時、日本新聞販売協会をはじめ関係団体が働く少年たちを保護育成していこうとの活動を推進し、その一環として「新聞少年の像」が各地に建てられれたそうです。私も新聞配達をしていたので、感慨深く見ていました。

段差があるのでこんな風景もありました。上から見ています。

近くに寄ってみるとアヤメが咲いていました。

公園全体がうっそうとした木々に覆われていました。
とにかく都会の真ん中とは思えない公園でちょっとした森林浴をした気分でした。

古地図からみますと左下の祥雲寺から続く道のところに南部美濃守の屋敷があります。広尾町とか書かれているところが現在のメトロ広尾駅になっています。。

中央の毘沙門天から川(渋谷川)越しに下の広尾原を見た風景が江戸絵図会の塗り絵にされていました。

 

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祥雲寺(広尾)

2013年05月15日 23時17分59秒 | 社寺仏閣

広尾に訪問でした。近くに祥雲寺というお寺があるということで行ってみました。

2016年4月から有料にして、ブログの写真容量を増やしました。写真や江戸名所図会、古地図などを加えました。(2016年7月)
本堂

鐘楼です。

★ランドマーク祥雲寺祥雲寺は臨済宗のお寺です。江戸時代を通じて臨済宗大徳寺派の触頭で、かつ「独札」(登城し将軍に単独謁見でき、乗輿も許される)の格式を誇っていたそうです。
 祥雲寺は、福岡藩2代藩主の黒田忠之が、父の黒田長政の冥福を祈るために創建しました。
 黒田長政は大徳寺の龍岳宗劉和尚を崇敬していたため、龍岳を招いて開山として、赤坂溜池の屋敷に建立し、 長政の法名・興雲をとって龍谷山興雲寺といったのがはじまりです。
 寛永6年(1629)、市兵衛町いまの麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺といいましたが、寛永8年(1631)火災に遭い現在地に移りました。
  こうした創建の経緯から、祥雲寺は黒田家の菩提寺となっていて、黒田長政のお墓は渋谷区の史跡に指定されています。
黒田長政の墓

墓の入り口

墓をもっとも高いところから見ました。


鼠塚というのがありました。

石碑は、明治32年(1899)から数年間ペストが流行したとき、予防のために殺された鼠の霊を供養して明治35年(1902)に建てられた珍しい動物慰霊碑だそうです。

まんじゅう型の傘はこちらでしょうか。

こちらは祥雲寺の手前にある(境内にある)香林禅院です。香林院は寛文五年(1665)三河奥藩主松平真次の菩提を弔うため、松平(大給)乗次を開基 絶山宗信和尚を開山として建立されました。初め麻布小山にありましたが、江戸の大火により寛文五年(1668)現在地に移りました。
建築物では、本堂、院門が文政八年(1825)のものであり、江戸時代の貴重な文化遺産となっています。
 ここから、裏千家へ養子として出られた玄々斉宗室家元(近代茶道復興の祖)や永井玄蕃(日本海軍創設、勝海舟などの師)などがいます。
こんなものがありました。
香林院ペット供養霊廟です。

香林院の活動としてペットの供養、霊廟をやっているそうです。

祥雲寺は広い敷地を持っています。

古地図にもその広さがわかります。

メトロ広尾駅が途中にありますが、向かい側の南部美濃屋敷は現在有栖川宮記念公園になっています。

こちらは江戸名所図会に書かれている祥雲寺です。

江戸名所図会 大人の塗り絵より 奥に見える里山が今の有栖川宮記念公園になっているところのようです。

帰りがけに山門のところに出たら東京タワーが見えました。

残念ながら写真ではよく見えません。


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