ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

柿生駅周辺

2013年05月07日 06時39分22秒 | 近郊地散策

柿生駅の近くにあるテニスコートに、応援に行ってきました。
北口を出て麻生川に出ます。つつじがちょうど見ごろです。片平川との合流地点で鴨が水草を懸命に食べていました。コートは高台にあります。坂のある住宅街です。コートの周りの花です。名前がわかりません。トカゲも久しぶりに見ました。ニホントカゲのオスとメスですか。帰りは南口の商店街にあるアジア料理店でインド料理やらタイ風焼きそばなどを美味しくいただきました。その途中にこんな碑が立っていました。
何かうん蓄でもと調べましたが、柿生では何も出てきませんでした。麻生川の新百合ヶ丘側の桜が綺麗だそうです。

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新緑の新宿御苑

2013年05月04日 01時24分47秒 | 近郊地散策

花園神社から新宿御苑に向かい、今日は新宿門から入りました。左手を進むとシャクヤクやらシランが咲いていました。シランは「知らん」を想像しましたが、紫蘭と漢字で書くとわかりやすいです。何度も御苑には行っていますが、ここには初めてです。玉藻池というらしいです。いつも訪れている日本庭園と比べて少し小さいです。今日は空がきれいで、池に映っていました。
池には鴨が眠るようにして浮いていました。
こちらは何度も訪れているバラ園です。3月には葉のなかったポプラも新緑でした。
中の池から見る風景は好きなアングルです。2月にあったネコちゃんに久しぶり会いましたが、今日は2匹で戯れていました。
下の池も好きな風景です。池のところに玉のような花が咲いていましたが、何というのは知りませんでした。説明がありました。
こちらの池には鵜が飛んできました。隣の小さな水鳥はあわてて潜ってしまいました。
若いころはいつも5月になると鬱でしたが、この新緑に負けてしまったような気がします。(自然の勢いに押されて人間が元気をなくすという気持ちでした)
今は図々しくなって(研ぎ澄まされた感性がなくなり?)あまり気にならなくなり、新緑を楽しむようになりました。

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花園神社

2013年05月03日 15時35分50秒 | 近郊地散策

憲法記念日の今日は、新宿東口で憲法を守れの街頭演説を聞きに行きました。その足で花園神社方面に向かいました。遊歩道新宿遊歩道公園遊歩道公園2 新宿遊歩道公園四季の路は、昭和45年3月に廃止された都電13系統(新宿駅前~水天宮前)の専用軌道敷を、新宿区が東京都より譲渡を受けて整備し、昭和49年6月24日に遊歩道公園として開園したものです。途中にゴールデン街の入り口があります。一度もなかの店には入ったことがありませんが、 ウイキペディアによると、もともとは新宿駅東口にあった闇市(和田組マーケット)が起こりである。1950年ごろ東京都が駅前の闇市を撤去した際の替地として当時都電沿いの土地であった場所に移転してきた(都電の跡が現在、四季の道という遊歩道)。当時は繁華街から離れた場所であり、ほとんどの店が飲食店の名目で赤線まがいの営業をしていた。風俗営業法の許可を取らないもぐり営業のため、俗称で青線と呼ばれた。歌舞伎町付近にはこれ以外にも青線が集まっており、都内でも有数の売春街であった。
売春防止法施行(1958年)の後は飲み屋が密集する「ゴールデン街」と名を変えた。この街の店は、文壇バー、オカマバー、ボッタクリバーの3つに分類できるとも言われた。店内は3坪または4.5坪と狭く、カウンターに数人並ぶと満席になる。
文壇バーには、作家やジャーナリスト、編集者らが集まり、(全共闘世代などが)熱い議論や喧嘩を繰り広げる場所でもあり、佐木隆三や中上健次などが常連として知られた。バーが営業を始める時刻以降に行けば、誰かしら著名ライターに逢える地域でもある。
バブル経済の最盛期には地上げ屋に狙われ、放火事件などもあったが、この街に愛着を持つ者も多く、現在でも1950年代の雰囲気を残す場所として続いている。とうことです。
花園神社花園神社2ウイキペディアによると、新宿の街の中心にあり、新宿総鎮守として江戸時代に内藤新宿が開かれて以来、街の守り神として祀られている。また敷地内では各種劇団による催し物などが定期的に開かれ、新宿の街の文化の一翼も担っている事でも知られている。朱塗りの鮮やかな社殿は、参拝客の他、休憩場所や待ち合わせ場所として使われ、当社に人影が途絶える事がない。とありました。
靖国通りからの入り口左手に唐獅子の説明がありました。唐獅子唐獅子像
こんな、神社の中に社がありました。芸能浅間ここは芸能浅間神社です。全国の浅間神社の中でも、「芸能」に関わりのある例は珍しいそうで、この神社は敷地内には芸能人の奉納者の名前が多く並んでいました。敷地内には、藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』の歌碑が建立されていました。


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牛島神社

2013年05月02日 23時28分39秒 | 自宅周辺探索

いつも通っているクリニックは墨田区役所の前のアサヒのビルにあります。区役所の北側は隅田公園となっています。そこに面して牛島神社があります。撫で牛が鎮座しています。まだ一度も入ったことがありませんでした。由緒:神社の名前は、両国・向島の本所一帯が天武天皇の時代(701~764)に国営牧場が設けられ牛嶋といわれていたことに由来しているといわれています。
 創建は、貞観年間(859~877)に慈覚大師が須佐之男命を郷土の守護神として迎えたのが始まりといわれています。その後平安末期に、源頼朝が房州千葉から挙兵して隅田川を渡ろうとしましたが、水位が高く渡ることができなかったときに、千葉胤常が神社に祈願したところ、無事渡ることができたことに感謝して、頼朝は神社に多くの土地を寄進したといわれています。その後も北条氏や江戸時代には江戸城の鬼門守護の社として幕府から寄進を受け、本所地区の総鎮守にもなっていました。
 牛嶋神社は牛御前社とも呼ばれていますが、これは慈覚大師が通りかかったとき、一人の古老が「師わが為に一宇の神社を建立せよ、若し国土の悩乱あらば、首び牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わして、天下の安全の守護たらん」と託宣したことから天文年間(1532~52)に牛御前と改称したといわれています。境内には「撫で牛」があり、体の悪い部分を撫で、牛の同じ部分を撫でると、病気がなおるといわれ、体だけでなく、心の病にも効き目があり、また「撫で牛」に涎かけを奉納し、その涎かけを生まれた子供にかけると健康に育つともいわれています。
五年に一度の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が氏子五十町安泰祈願巡行します。この神幸祭は、今日では珍しく黒雄和牛が神牛となり鳳輦を曳いています。隅田公園の日本庭園と隣り合わせです。
由緒:隅田川沿いにある公園で、墨田区側の左岸は向島1、2、5丁目の面積約8万平方メートルの広さを誇ります。春には屈指の桜の名所となり、夏には隅田川花火大会が行われます。公園内の庭園は水戸徳川邸内の池等、遺構を利用して造られています。関東大震災後で屋敷が全壊するまで代々ここに住んでいたと伝えられますが、その後隅田公園の区域に取り込まれ、日本庭園へ姿を変えました。
アオサギと鴨
まくらばしこの枕橋は、隅田川に注ぐ現・北十間川に架かる橋ですが、江戸時代はこの川は源森川と呼ばれ、この橋も源森橋という橋でした。池波正太郎作の鬼平犯科帳にもこの源森橋が登場しますが、江戸時代はこの川が本所の端でもあったようで、この橋を渡ると、そこはうっそうとした森が広がっていたようです。昭和3年11月に架けられた橋で、創架は寛文2年(1662年)です。源森橋の北に水戸藩の下屋敷(現隅田公園)があり、そこに入る掘割に新小梅橋という小橋が並んであったため、ふたつ並びし枕橋と小唄にも謡われていました。明治8年に俗称の「枕橋」が正式名となり、源森橋の名は東隣りの無名の橋(水戸街道にかかる橋)に譲りました。
親柱はビール樽の形だそうです。区役所とアサヒビールのビル、住宅棟は、アサヒビールの工場があったところです。

慈覚大師:円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
宗派:天台宗山門派
寺院:立石寺、中尊寺、壬生寺、大慈寺、延暦寺その他全国に凡そ700箇寺といわれる。
師:広智、最澄、元政、義真

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