ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

逆井の富士塚(浅間神社)と平井白髭神社

2016年08月17日 23時32分58秒 | 社寺仏閣

孫娘が亀戸中央公園のコートでテニスの練習をしているということで、見に行きました。真夏の暑い中で頑張っていました。こちらはしばらく見てから旧中川に出て、ふれあい橋を渡って平井側に行ってみました。すぐに逆井の富士塚に出合いました。ふれあい橋の上から真夏の東京スカイツリーを撮りました。

逆井の富士塚です。

★ランドマーク逆井の富士塚(浅間神社):建造年代は不明ですが、「当山再築小松川村」と記した明治17年(1884)の碑がありるため、区内で最も古い築造です。高さ約5メートル。
登山道は、塚の正面に直接に設けられ、石段になっています。頂上の部分を玉垣で方形にとり囲み、石祠を祀っています。登山道の両側には、数多くの石碑が建てられ、地元の丸岩講のもののほか小松川山本講や平井の丸冨講の碑もあります。
富士塚そのものが浅間神社として旧逆井村の鎮守白髭神社の持社となっています。7月1日に幟を立てて祭礼(のぼり祭り)を行います。石積み型の大型のもので、かつては中川を背に塚と樹木と鳥居のとり合せの美しいものでした。倒壊防止のため、昭和30年代にコンクリートで覆いました。(江戸川区教育委員会)

少し先の白髭神社に富士塚の説明書きがありました。

こちらが小御嶽神社です。

逆井富士塚、浅間神社の鳥居です。

自転車で散策しています。

平井白髭神社の鳥居

白髭神社です。

★ランドマーク平井白髭神社創立の由緒は不明であるが、逆井創草の鎮守で猿田彦命をまつる。社伝によれば建治年間の創建という。その後足利時代の後期から太田道灌の家老土谷相模守がこの地を所領し以来当地に居住して代々氏子総代をつとめてきたといわれる。
社殿は昭和二十年三月の戦災で焼失し、昭和四十五年十二月二十二日新社殿が完成したので遷座した。

神社の掲示版に由緒が書かれていました。

白髭神社の拝殿です。

鳥居の左手に稲荷神社がありました。

社殿右手に石碑が並んでいました。

あまり暑いので、早々に引き揚げてきました。

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船橋市本町の不動院・浄勝寺

2016年08月13日 14時04分51秒 | 社寺仏閣

船橋市本町にある「うたごえゴリ」に行きました。ゴリはJRの駅から500m位なので、リハビリには少し距離が足りないので、本町の千葉街道を下り途中から住宅街に入って行きました。

★ランドマーク船橋本町ここ本町あたりは、江戸時代の「船橋宿」に位置する。「船橋宿」は、五日市村・九日市村・海神村3村の総称であった。3村は江戸内湾の最奥部に面し、西から東へ海神村-九日村-五日村と続いた。この3村の南寄りを横切るように佐倉道が通っていた。佐倉道は、江戸と下総及び上総・安房方面を結ぶ主要な道であった。また、江戸時代中頃から成田山(新勝寺)参詣が盛んになるにつれ、佐倉道は成田道と呼ばれるようになった。

 船橋は佐倉道(成田街道)最大の宿場であり、交通量・旅籠の利用者とも多かった。船橋宿で最も有名なのは飯盛女(宿場遊女)の「八兵衛」であった。江戸時代の宿場は、一般の農村から比べると賑やかな場所で、歓楽街的な要素も多分にあった。船橋はその一面を近代に入っても持ち続けた。(船橋市のHPより)

ちょっと入ったところに大仏さんがありました。

最初に、この碑が目に入りました。なんのお寺さんかよくわかりませんでしたが、自宅で調べて見たら不動院ということです。

★ランドマーク不動院:真言宗の寺。入口にある大仏は、もとは津波による溺死者供養のために建立されたものだが、文政年間(江戸時代後期)以降は、近隣との漁場争いから獄死した二人の漁師総代の供養が行われる場所となっている。この供養は「大仏追善供養」と呼ばれ、市の無形文化財に指定されている。毎年2月28日になると、大仏に白米の飯を盛り上げるほどにつけて供養する。これは牢内で食が乏しかったのを償うためと伝えられており、地元ではこの大仏を「飯つぶ地蔵」と呼んでいる。大仏の西側に漁師総代二人の墓碑が建てられている。(船橋市HPより)

この大仏さん(石造釈迦如来坐像)は元禄16年(1703)の津波によって溺死した漁師ならびに住民の供養のために建立されたものです。だいぶ痛んできたようで修理がしてあります。
★ランドマーク大仏追善供養:船橋の海は、江戸時代初めことから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する「御菜浦」とされた好漁場でした。
元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、代金納になりました。その後この漁場を巡って、近隣(堀江・猫実・谷津・鷺沼など)の漁師たちと多くの争いが起こりました。
文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いていた時、船橋漁師の占有漁場の船が侵入してきました。その中に、一橋家の幟を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、幟を奪ってしまいました。大きな事件であったことから、船橋の猟師総代3名が入牢させられました。1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。そのため、延享3(1746)の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて行うようになったのです。
大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に行われるようになりました。本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された石造釈迦如来坐像です。供養の日には、炊き上げた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。大仏の西側には漁師総代2名の供養碑が建てられています。 船橋市教育委員会
大仏さんの後ろにあります。
本堂です。
山門を入った左手に六地蔵尊があります。
こちらは地蔵尊堂です。
木フヨウが咲いていました。
 
少し先に歩くと淨勝寺の山門がありました。
本堂の裏のようです。
墓と本堂の間にネコさんがいました。カメラの方は向いてくれませんでした。
 
★ランドマーク淨勝寺1496年(室町時代後期)に開山し、浄土宗の念仏道場として創建され、江戸時代になって、徳川家康公の巡狩御休息所として、寺領30石の御朱印を拝受、船橋で唯一の御朱印寺として発展してきました。
戦後諸般の事情により浄土宗を離脱、単立寺院となっています。又、昭和5年8月25日附にて、浄土宗信州善光寺大本願出張所として承認され善光寺式阿弥陀如来(一光三尊)を安置、善光寺別院として明照講を組織しています。
境内には「女郎神さん」と言う石塔があり、旧新地が近くにあったので、下(しも)の病気で苦しんでいた人たちの信仰の場であったと考えられます。この女郎神様は北向きに安置されていて「願掛け地蔵さん」とも呼ばれ、地元の厚い信仰があります。(船橋仏教会のHPより)
こちらが女郎神さんです。
 
 
小さい石像が女郎神さんかと思いましたが、真ん中の石碑hが女郎神さんのようです。
淨勝寺全景です。
2016年12月4日にも寄ってみましたその時の写真を加えます。
 
12月4日には墓地の中にも入ってみました。
筆子塚というのがありました。
★ランドマーク筆子塚(ふでこづか):江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算や実務教育を教わった教え子が、師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで、自分たちで費用を出し合って建てた墓である塚、または供養塔。明治に入ってから建てられた例もある。師匠塚筆子塔筆子碑という場合もある。無縁塔です。
 
8月にはネコさんが石段のところに出てきてくれました。
寝転んだと思ったら別れ際にゴロリと一回転して見せてくれました。
12月は残念ながら木の陰に隠れられてしまいました。
お寺さんを出たところは船橋市民文花ホールです。
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本所一つ目・弁財天(江島杉山神社)

2016年08月10日 12時11分32秒 | 江戸名所図会めぐり

江戸名所図会で紹介している一つ目橋の弁財天・江島杉山神社を散策しました。わたしの彩(いろ)「江戸名所図会」 大人の塗り絵より

手前の橋が一つ目橋です

堅川に架かる橋を隅田川よりから一の橋、二の橋、三の橋、四の橋、五の橋と呼んでいます。今の橋ですが、すぐ右手は隅田川の水門になっています。

忠臣蔵の赤穂浪士が泉岳寺に引き上げるときに最初に渡った橋としても知られています。

江島杉山神社の入り口です。

江戸切絵図です。

参道を通って本殿の前へ。

杉山和一の墓は近くの弥勒寺にあります。弥勒寺で撮った写真です。

弥勒寺杉山和一の墓です

杉山神社鳥居の脇に弁財天、その前に銭洗い場がありました。

弁財天は新しく作られたようです。

岩屋があります。

入り口の壁に書かれていました。

洞窟の中です。

岩屋の参道に力石が置いてありました。

これが墨田区内で最も重い力石だそうです。

南側からの入り口の鳥居です。

総禄屋敷跡の由緒書きがありました。昔は目の不自由人たちが鍼灸師をしていました。杉山和一は鍼を管に入れて、ツボを押えるという、新しい技術をあみだした人だそうです。

奥にはお稲荷さんがありました。

江戸名所図会

手前の川が隅田川(大川)です。

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パラガイオオオニバス・猿江公園

2016年08月09日 23時42分07秒 | 季節の花

猿江公園をリハビリのために歩いています。貯木場の名残を残す池に古代ハスやパラガイオオバスが植えてあり、花を見ることができます。パラガイオオバスの写真をまとめてみました。

江戸時代の古地図です。上が堅川、真ん中御材木蔵に沿って横十間川、左手の川は大横川、下が小名木川に囲まれています。昭和51年以前は横十間川と新大橋の北側は貯木場になっていて川や池に大木が浮かんでいました。

今の横十間川です。

南側下流を見ています。

池からスカイツリーもよく見えます。ポプラとツリーはなかなかの景色です。

夕方の景色

珍しいハスが浮いていました。

一日目は白い花で臭いもあるということですので、いろいろと変化を見ることができます。

こちらは2日目のピンク花とつぼみです。これくらいのつぼみでも良い匂いがします。

これも2日目の花です。光を当ててくれて人が、ハスの花が開くときに音がするというので、それが聞きたいと言っていましたが、果たしてオオオニバスも音がするのでしょうか。

1日目の白い花と2日目のピンクの花です。これはカメラを持っていって撮りました。とにかく夜午後7時30分を過ぎないと咲かないので待つのが大変です。

次の写真はスマホで暗い中、夜景モードでで撮りました

光を当てて摂っている人がいたので、使わせてもらいました。

光を当てていただいたものですが、それよりもカメラの感度を上げた方が良いようですが、その場合は固定しないとすぐにぶれてしまいました。

 

つぼみが3-4つありましたが、この日は公園中にいい匂いを振りまいていました。

池には他に古代バスも咲いています。

夜に咲くのを見るために、スマホだけでなくカメラも持って夕方ウォーキングをして見守りました。

昼はまったくのつぼみです。

6時ころから咲きはじめます。

午後7時30分ころから開きますが、この日は咲くのが少し遅かったようです。

こちらは別の日の7時半過ぎのものです。

スカイツリーの夜景です。光が見えるのはテニスコートの照明です。

公園の名物クロネコさんがベンチで寝そべっていました。

公園を一回りしたら、今度は桜の木の根元に移動していました。

こちらは夕方になっても30℃以上でネコさんもすっかり伸びて涼んでいます。

写真撮るよといって顔をあげてもらいました。

リハビリのウォーキングは大変ですが、楽しみを見つけながら歩いています。

 

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五百羅漢寺跡(江戸名所図会)から猿江御材木蔵跡

2016年08月05日 10時00分11秒 | 江戸名所図会めぐり

五百羅漢寺跡の碑がある施設で映画シッコを見てから、

 

★ランドマーク五百羅漢寺跡
松雲元慶により本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)に創建 
黄檗宗の僧・鉄眼道光に師事した、松雲元慶は、京都に生まれ、豊前国の羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓―やばけいー町)の五百羅漢石像を見て、自らも五百羅漢の像を造ることを発願した。貞享4年(1687年)、40歳で江戸に下向した松雲は托鉢で資金を集め、独力で五百羅漢像など536体の群像を造った。この功績により幕府の援助で元禄8年(1695)本所に羅漢寺が創建された。

羅漢寺跡の説明書きがありました。

★ごひゃくらか

羅漢さんとはらかんさんはお釈迦さまのお弟子さまだった人たちです。歴史上に実在していた人です。修行を積んでとうとう聖者の位に登りつめたひとです。だから、らかんさは、ひとり山の奥にこもって禅をくんでいる仙人ように気難しい、とっつきにくいイメージがもともとあったのです。しかし江戸時代にはいって五百羅漢さんが登場するようになって、イメージががらりとかわりました。

  ひとりひとり顔のちがったらかんさんがならんでいるなかに、お参りの人びとは亡き人の面影によく似たらかんさんを見つけだして、久し振りに再会したような感激をおぼえたのです。写真のなかった当時、羅漢堂は懐かしい人の面影を偲ぶことができる有難い場所になったのです。瞼の父に会いにきて、小さな手をあわせて一生懸命に祈っていた幼な児もいたはずです。

  そんなところが人気を呼んで全国各所に五百羅漢像が造立されました。羅漢堂にいならぶ五百羅漢さんは、人びとにとって懐かしい自分の肉親の姿であり、恋人の姿だったのです。

 (五百羅漢寺出版「らかんさんのことば」より)目黒に移転した五百羅漢寺にある羅漢像です。

広重 名所江戸百景  五百羅漢さゞゐ堂 より

広重 東都名所 五百羅漢さざえ堂

三匝堂(さんそうどう)は寛保元年(1741)に建立された三層の堂で回廊が螺旋状に続く形状から「さざえ堂」と呼ばれた。

五百らかん寺さざゐどう葛飾北斎 富嶽三十六景 さざえ堂

背中を向けた人たちの視線が富士に注がれている。さざゐ堂の螺旋階段を登りきると広々とした隅田川の眺望が開け、富士が歓迎してくれる。欄干にもたれかかってほてった体を休めると、川面を渡る風が涼しい。

わたしの彩(いろ)「江戸名所図会」 大人の塗り絵より

江戸時代の羅漢寺。左側の上下に走る道路が五ッ目道路(明治通り)。手前の雲がかかった辺りが新大橋道路。奥の川が竪川。真ん中に「渡しば」と書かれているところが五渡亭のあった五つ目の渡しです。

本堂の左右に回廊、西側にさざい堂、東側に庫裡が有った。

こちらは跡地の一部にある羅漢寺です。ここは、元の羅漢寺が強制移転させられた後に、土地を切り売りされて、八王子から移ってきたお寺が、地元の意向を受けて「羅漢寺」と名を変えたものだそうです。でも、地元では羅漢さんと親しみを込めて呼んでいます。

新大橋通りを猿江公園に向かいました。

本村橋から見た東京スカイツリーです。

下は横十間川です。下流を見ています。古地図(江戸切絵図)ではまだ本村橋は架かっていません。

猿江公園の貯木場跡の池です。

池には珍しいオニバスが浮いていました。

古代バスも咲いていました。

この猿江公園を2周ウォーキングすることをリハビリの目標にしています。2㎞ちょっとになります。

 

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