ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

五渡亭・歌川国貞

2016年08月04日 10時30分58秒 | 歴史の小道

リハビリのために自転車で旧中川の逆井の渡しの先まで行き、堅川河川敷公園の中を通って猿江公園まで戻りました。

途中の五の橋の下に歌川国貞の浮世絵が展示されていました。自転車を降りて写真を撮ってきました。

五の橋のところに案内があります。

歌川国貞は生まれてから亡くなるまで亀戸周辺で過ごしていたようです。

★ランドマーク歌川国貞:歌川国貞

没年:元治1.12.15(1865.1.12)
生年:天明6(1786)
江戸末期の浮世絵師。江戸生まれ。姓は角田,名は庄蔵,のちに肖造と改める。画号に五渡亭,香蝶楼,豊国襲名後は一陽斎など。父庄兵衛は,江戸本所五ツ目の渡船場を経営。初代歌川豊国に入門し,初筆は文化5(1808)年の合巻『鏡山誉仇討』で,錦絵の上限作は文化6年3月とされる。早熟の才を発揮して,合巻挿絵,錦絵では役者絵,美人画に活躍する。文化(1804~18)末から文政期(1818~30)にかけての作品では,役者絵で「大当狂言之内」,美人画で「星の霜当世風俗」「今風化粧鏡」などが才能と意欲に溢れた好シリーズ。合巻挿絵では,文化12年初編刊行の柳亭種彦作の『正本製』が好評で,文政12年初編刊行の種彦作『偐紫田舎源氏』は大ヒットする。後者の主要人物と場面を錦絵化した「源氏絵」は,国貞錦絵の売り物となった。弘化1(1844)年には絶大な人気を背景に2代豊国を称したが,すでに豊重が2代豊国を襲名していたため,今日では3代目に数える。このころから「誂織当世島」など,版画技術の高度化と相まって画風は華美で精緻となるが,晩年にかけては全体的に濫作による質的な低下は否定できない。ただ,最晩年に錦昇堂から刊行された役者大首絵のシリーズは,画業の集大成としての気迫に満ちたもの。国貞は浮世絵の大衆化に乗じて膨大な作画量を誇り,広重,国芳ら他の歌川派の絵師と共に,江戸末期の浮世絵界を牽引した。鈴木重三「国貞・国芳・英泉」(『浮世絵大系』10巻)

亀戸にはお墓や碑などがあるので、これまでに撮った写真を集めてみました。

墓地は亀戸光明寺です。

二世と豊国と書かれていますが、実際は三世が正しいようです。

光明寺本堂、この横の所に墓がありました。

墓の前面奥に歌川、手前は五渡亭と書かれています。

亀戸天神の境内には国貞の碑がありました。

国貞の浮世絵

亀戸天神初詣

亀戸天神藤

不忍池 蓮花

国立図書館 錦絵で楽しむ江戸名所より

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あれから1年

2016年08月03日 14時18分01秒 | 日記

あれから1年長い闘病生活になってしまいました。いまだに外を歩くには杖なしでは歩けません。手術で好きなテニスができるようになると期待していましたが、復帰できそうにありません。

とりあえず自転車に乗れるので、少し離れたところにも出かけられるので、あちこちと出かけたりしています。病院では室温が26℃に保たれていて、夏の暑さを感じませんでしたが、さすがに外は暑いです。でも暑いのが好きなので、汗をかくことに喜びも感じています。

しばらくはリハビリの生活が続きますが、もう少し回復してテニスのボール出し程度はできるようになりたいと思っています。

 
入院生活40日、一時帰宅の日
脊柱管狭窄症が悪化して、とうとう手術ということになってしまいました。残念ながら手術後もすぐには回復せずに長い入院生活となっています。6月22日に手術をして、7月7日にはリハビリ病院......
 

 

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亀戸・普門院

2016年08月01日 19時11分24秒 | 江戸名所図会めぐり

江戸名所図会めくりで、亀戸天神の近くの普門院を散策してきました。

普門院

ランドマーク普門院:普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。
亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。

伊藤左千夫の墓があります。

★ランドマーク伊藤左千夫の墓:左千夫は元治元年千葉県に生れ今の墨田区錦糸町駅附近で牛乳搾取業を営むかたわら歌道茶道をたしなみ正岡子規の門人となりアララギ派の歌人として知られ小説歌論にも著作を残したが晩年は大島町6丁目に住し大正2年(1913)7月30日50歳にて死去し普門院普門院に葬られた

 昭和33年(1958)10月1日 江東区

純愛小説「野菊の墓」で知られている伊藤左千夫は千葉県成東の出身で,明治14年(1881)政治家を志して上京。明治法律学校(現在,明治明治大学)に入学したが,眼病のため秋に退学,帰郷する。 しかし、明治18年(1885)実業家として身をたてるため上京する。 東京や横浜の牛乳搾取場にやとわれ働く。 明治22年(1889)本所茅場町(現在JR錦糸町駅前)に独立して牛乳搾取業を開業した。

前回(4月)は山門の所だけでしたが、今回は墓の中まで入って伊藤左千夫の墓を探し当てました。

江戸名所図会より

古地図(江戸切絵図)では亀戸天神に隣接しています。

わたし彩(いろ)「江戸名所図会」大人の塗り絵より

こちらは江戸名所図会の亀戸村の道祖神祭の風景です。

キャプション毎歳正月十四日にこれを興行す。この地の童子(わらわべ)多くあつまりて菱垣(ひがき)造りにしたる小さき船に五彩(いついろ) の幣帛(みてぐら)を建て、松竹なども粧飾(そうしょく)し、その中央に「宝舟」といへる文字を染めたる幟(のぼり)を建てたるを荷担 (にな)ひ、同音に唄ひ連れて、この辺りを持ち歩行けり。その夜童子集会して遊び戯るるを恒例とす。

埼玉の実家の村ではこのようなことを65年前にはやっていました。私たちのところでは1月14日に地域の子どもたちが家々を回ってしめ飾りや角松を集めてます。集める際に小遣いをもらい、集めたものは道祖神のところで燃やします(どんどん焼き)。その夜は子供たちがひとつの家にあつまり小遣いを使って楽しい合宿をします。懐かしい思い出です。

普門院の境内や墓はうっそうとしていてとても都会の真ん中にいるようには思えません。

入り口の脇には

式守与太夫の献上した燈籠がありました。

山門

右手に

中に入ると観音像がそびえています。

【持経観音 じきょうかんのん】は岩に坐り手に経巻を持ち、左手は膝の上に置く姿となっています。この観音の奉持する経典には、如来の説法の内容がすべて込められており、声聞を教化する姿を現します『観音経』に「まさに声聞のみをもって得度すべきものには、すなわち声聞の身を現じて、ために法を説く」とあります。

奥に行くと亀戸七福神の毘沙門天があります。

毘沙門天堂と墓の間にこんな碑がありました。

昭和二十年三月十日歿   戰災殉難者供養之碑

この碑は昭和貮拾年参月拾日の亀戸地区戦災殉難者供養のため建立せられたものであります。本年三十三回忌を迎えるに当り記念事業として永く後世に傅えるため碑及び周辺の整備改修を行い再び惨禍を繰り返さないことを念願し諸霊位の冥福を祈るものであります

昭和五拾貮年参月拾日  亀戸町会連合会

ピンボケですが

時も忘却も我が泪を乾すまじ :  この碑は昭和二十年三月十日我国で最初の大量の犠牲者を出した大空襲による多くの殉難者を悼むために亀戸駅前の焦土に建てた供養碑であります   昭和二十九年晩秋都市區割整理に依て奉賛会は普門院の浄域を擇んで移転し平和の礎となつた貴い人々の冥福を永遠に祈るために奉安しました

昭和三十年三月十日 誌

下町地区ではいろいろなところで、戦災殉難者の碑があります。いかに戦争の被害を多く受けたかが分かります。

永遠平和:二度と戦争を起こさないという気持ちも込めて碑は建てられています。

突き当りが本堂です。風雨にさらされているという感じです。

本堂の階段の左手前に

「牛飼いが歌よむ時に世の中の. あらたしき歌おほひに起る 左」伊藤左千夫の歌の碑です。

 

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