短編だけど読むのにすごく時間がかかる小説ってのがたまにある。だいたいそんな時は、その話が心に深く残ったりする。
もともと怪奇小説が大好きな私なので、タイトルに惹かれ、そんなにたくさん同時にに読まれるわけないのに、そこにあった3冊全て借りてきてしまった。東雅夫さんが選んだり書いたりされた本は大抵読んでる。そしてそれらは間違いなく面白いのだ。
で、今回借りてきた3冊の本のタイトルがこれ。
怪奇小説となってるが、怪奇と感じない話がいくつかある。3にではないが、吉本ばななさんの小説も載ってて、その小説も何となく心に残った。怪奇小説とは感じなかった。
今読んでる③。数日前に読み始めた「蛼橋」が、なんだろうな、、読み終えたあと、亡くなった友達や両親やわんにゃんうさ鳥、他、今となってはただ懐かしい、いろんな人(🐶🐱🐦🐰)達みな、心に甦ってきた。驚くことに、この話が書かれたのは、あの、決して忘れられない東日本大震災の前の年だと言うのだ。、、遅かれ早かれ人(他全て)は、生まれたからにはいつか必ずこの世に別れを告げ、別の世界に旅だつわけだけれど、生きてる時は、当たり前のように生きて、それが当然の事と思い、疑わず、特に意識せず毎日を過ごしてる。それでも確かに、あの震災の時、岩手出身の自分は、大きな荒れ狂う波や、全てを根こそぎ海に持ってゆかれ何も無くなった町の光景などを見て、価値観そのものががらっと変わったはずだった。一番大切なものは何か。明日どうなるかなんて本当にわからない。こんな生き方でいいのか。(←この問いだけは「いいわけないだろ」と即座に心が答えたのは覚えてる)。
それでも、、あれほどまでの事があっても、やはり、時の流れとともに、徐々に忘れていった。戒めの気持ちも、変えねば、、と思った漫然とした日々の過ごし方も、、結局何も変わらないままだった。有名な作家が言ってた。「尻に火が着けば、まあ、そこで初めて気がつくんでしょうけど、ひどい人になると、火がついてることさえ気づいてなかったりする。」私はその、ひどい人、の部類だ。間違いなく。、、、
話を「蛼橋」に戻そう。読み始めから最後まで、、鈍感な私は、この話がどんな展開になり、どんな結末になるのか、さっぱり予測できず、いちいち、え、なんで?なに?と考えながら読み進めて行った。与平という子の結末を知った時に初めて、もしや、、とやっと話の最後が予測できたのだが、結局話の最後は自分が思っていたのとはちょっと違ってて、それで、どうなったかと言うと、ちょっと苦しさを感じるほどの切なさ、哀しさで気持ちが埋まり、でも、それだけじゃなくてしまいには温かさまで感じられた。小説を読んだあとの受け止め方は、それこそ千差万別、、。ある人は泣くくらい感動した話でも、ある人には特に響かず、というのもままある事だろう。そしてそれが小説というものだろう。
響いた。とりあえず、ワタシには響いたのだ。