週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

そのままでいい

2012-12-08 09:42:17 | 法話のようなもの

         

掲示板に貼ってある法語です。

この法語は、私の友人である雪山俊隆さんが7歳の時に書いた詞が原型にあります。


      「アミダさま」

      ぼくがぼくであることを
      認めてくれてありがとう
      そのままでいい
      といわれて
      このままではいけない
      と思うようになった


「凡夫」という言葉があります。

「ただびと」という注釈がされますが、実際は否定されるマイナスな印象の濃い言葉です。
そして親鸞聖人は自らを「罪悪深重の凡夫」と表されました。

自分で自分をそう評することは、なかなかあることではありません。
この表明は、阿弥陀さまに照らされ映し出された自身の姿を指しているのだと思います。

照らされて表れ出た自分の闇。
その闇をも包み込む阿弥陀さまの慈悲。

あなたはあなたのままでいい。
そのままのあなたを包み込もう。

そう言われると、逆に我が身を省みる。
自らの内なる闇に気づき、凡夫の我が身に気づく。
このままでは本当はいけない自分に気づかされる。

その自覚は、「ただびと」からの立ち上がりを促します。
立ち上がろうとも、私たちは凡夫でなくなるわけではありません。
でも、凡夫でなくならなければ救われない、ということでないことも私たちは知らされています。

このままではいけない自分であるという痛みを伴いながら、その痛みをも包み込む阿弥陀さまの温かな眼差しを感じさせていただく法語です。


大きな秋

2012-12-02 23:13:24 | 法話のようなもの

       


「冬」の寺報の表紙写真を撮ると言いながら、相変わらず「秋」な写真を撮っています。(笑)

でも、屋外で冬を撮るには、まだまだ早いことをようやく悟りました。
冬至にも半月以上の間がありますしね。

先月に行った箱根では紅葉する前の光景しか見られませんでしたが、境内でも色付いていく木々を十分に観賞することができます。
それがどれほど有り難いことであるか分かってはいるのですが、ついつい忘れて他所の紅葉を見たくなるのが常のこと。

見慣れてしまうと、それが当たり前になってしまって、最初の感動が薄れてしまうものです。
美しいものも、美しいと感じることができなくなります。

きっと、いろんなものに慣れて、いろんなものを当たり前にしてきているのでしょう。
他人の好意も善意も、自分の悪意も悪行も、慣れてしまえば当たり前のものになり、感謝や慙愧の心も、どんどんどんどん薄れていく。

だから立ち止まる瞬間が必要なのだと思います。
立ち止まった瞬間、改めて周りを見て感動することがあるように、当たり前としてしまったすべてのものが、当たり前ではないことに気づけるご縁がきっとあるはず。

たぶん、他所の紅葉を見ることが、私にとって境内の紅葉が「当たり前」から「有り難い」に変わるご縁なんじゃないかなと思ったりします。

…とかなんとか、もっともらしいことを言っていますが、一番の理由は「自分で掃除をしなくていい紅葉を見たいだけ」だったりして。(笑)


衆水一味浄

2012-11-20 15:07:04 | 法話のようなもの

築地本願寺の正面の門を入って、右手に手水場があります。

       

少し読みにくいのですが、「衆水一味浄」という字が彫られているのが分かります。

この「衆水一味浄」の出典は『教行信証』にあり、『正信偈』にも見ることができます。
ただ、意味は同じはあるのですが、文字の羅列等に少々異なる点が…。

馴染みの深い『正信偈』を引いてみると。

    凡聖逆謗斉回入    (凡聖・逆謗ひとしく回入すれば)
    衆水入海一味   (衆水海に入りて一味なるが如し)

「凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる」    (現代語版『教行信証』145頁)

魚が泳ぐ綺麗な川もあれば、工業用水で汚れた川もある。
様々な川の水が流れてくるにもかかわらず、海は潮の味ただ一味だけ。
人もまた、様々な人種や思想、価値観を持っていて、煩悩まみれの人もいれば煩悩のない聖者もいるし、仏に逆らう人もいれば仏法を謗る人もいる。
それでも、阿弥陀さまの本願のもとでは、私たちは何の分け隔ても差別もない「一味」であるということ。

手水場の「衆水一味浄」も、この意に則った言葉とされるのですが、「浄」のつく出典がないので断定が難しいところ。 (つまりは、これは造語ということです)

先日リベンジに行った際に、境内にいた知り合いのお坊さん方と、この「浄」は何なのかと少しばかり話したのですが、どれも推察に域をでませんでした。

私が思うに、「ここで手を浄めた水もまた海に入って一味となる水であり、浄めたあなた自身もまた同じように阿弥陀さまのもとでの一味であるのですよ」、……ということかなと。

でも、お浄土の「浄」かもしれないし、ただ単に手水場だから洗浄という意味でのことかもしれないし。

正解は分かりませんが、何でもかんでも明確な回答を求めずとも、経文から思考を広げる素敵な機縁をいただいたと思うだけでもいいのではと、思ったりしました。


また会う日を楽しみに

2012-10-06 03:05:43 | 法話のようなもの

     

境内に咲く彼岸花。
お彼岸はとうに過ぎてしまっているのですが、どうやら今が見頃のようです。
今年は白い彼岸花が多いような気がします。

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)という別名についての諸々のお話は、以前に書いてありました。
http://blog.goo.ne.jp/saijoji/e/225e4a21f97ec8e2d924f8f44ce7c0ba

なので、今回は花言葉について。

 「情熱」  「諦め」  「独立」 「再会」
 「悲しい思い出」
 「想うのはあなた一人」
 「また会う日を楽しみに」

調べてみると、なんだか統一性のない花言葉が幾つも出てきました。
しかし、彼岸花の「花と葉が同時に出ることはない」という特徴から、「葉は花を思い花は葉を思う」と言われていることに由来するのかなと思えるものもあります。

彼岸とは「彼の岸」。
「向こう岸」という意味が示す先にお浄土があります。

お浄土は、「死んだら終わり」という現代に根付きつつある死生観を打破しうるもの。
数限りない命が亡くなってきた末に今があります。
それは、その命が死んで終わらなかったからこそ、今の私にまで続いてきました。

すべては縁でつながってきて、縁でつながっていく未来の前に今があります。

その今を生きる私が立つのは「此岸」。
こちらの岸と向こうの岸の間に流れるのは、つながりを阻む水ではありません。
彼岸からのもたらされた、量り知れない縁が両岸の間を流れています。

その先人が遺してくださったご縁を辿れば、必ず仏法に出遇うご縁をいただきます。
そうして私もまた、いつか向こう岸へと渡らせていただくときがくることでしょう。

もちろん悲しみが伴うことではありますが、その先には阿弥陀さまのお浄土へと先に渡られた方との「再会」が待っています。

「死んだら終わり」ではなく、「また会う日を楽しみに」。

彼岸花を通して、お浄土からのご縁をいただいたように思いました。


最初で最後の。

2012-09-11 00:59:22 | 法話のようなもの

 

先日のお経の会の法話は、その数日前にあった若手僧侶の会議の中で、出席者の一人が発言したことに端を発した話題が元にありました。
 
それは女優の宮崎あおいさんが出演するCMで語られていた言葉です。
 
 
           よく「今度生まれ変わったらなんになる」って言うけれど
           私は、今度生まれ変わる予定はありません。
           最初で最後の 生きている。


この言葉に、出席者はみな同意しました。
つまり、仏教は生まれ変わりを説いていないということであり、生まれ変わる予定はもちろんないということです。

なぜならば……というお話を、お経の会でさせていただきました。(笑)

ただ、この「生まれ変わり」という言葉を聞くと、私は一つの悲しい出来事を思い出します。

それは数年前に起こった、とある事件のことです。
当時、中学2年生だった少年が、自ら命を絶ちました。
遺書にはこう書かれていたそうです。

「絶対生まれ変わってやる。 もっとできる人間になってくる。」

このころ、世の中はスピリチュアルブームに湧いていました。
テレビでは前世が語られ、来世が説かれ、人から人へと生まれ変わっていくことが、当然のように話されていました。

少年もまた、同様の番組を家族で視聴していたそうです。
それがその後の行動と直接的に繋がるかを知る術はもうありません。

少年はなぜ死を選んだのか。

一般に言われる生まれ変わりは、今の人生の願望や後悔を、次の人生に持ち越して考えているように感じます。
そして、生まれ変わりを強く信じる人の多くは、今の人生をリセットしたいという強い願いを感じます。
 
後者の要素を色濃く感じることのできる少年の行動は、強い自己否定の行き着く先にあるのだと思います。
 
誰もが自分を認めてもらいたい。

そのままの自分を受け止め、受け入れてもらいたい。

それは、自己による自己肯定ではなく、他者による自己肯定。
 
最初で最後の人生は、リセットすることも、やり直すこともできないけれど。
どんな道を歩もうとも、どんな最期を迎えようとも、どんなに逃げたくなろうとも、迷いながらも精一杯生きる私を、そのまま受け止め受け入れ認めてくださる阿弥陀さまが共にある。
 
そのことを伝え続けることが、私の務めなのだと、法話を作りながら考えていました。