わたくしごとですが、先週5回目の結婚記念日を迎えることができました……無事に。(笑)
夜はみなとみらいのホテルで夕食と、記念日らしくちょっとだけ豪華に過ごしたのですが、カメラを忘れるという大失態をやらかしました。
何年経過しようと、相変わらず詰めが甘い私です。
ということで、夜景も料理も、私たちの記憶にだけ残すという、慎ましい結婚記念日となりました。
さて、こちらも毎年恒例となっているのですが、「メリシャカ!」のコラムも結婚記念日に関連した記事を書かせていただきました。
私たち夫婦をご存知の方に読まれるのは、とっても恥ずかしい内容となっています。
お気持ちの広~い方で、時間に余裕がありましたら、どうぞお読み下さいませ。
先週から風邪を引きずっています。
感染源は龍くんで、夫婦そろって防ぐことができませんでした。
今回の原因は、龍くんの残り物を食べたからと推察しています。
いつもなら、「龍くんが食べ残す→もったいないと私が食べる→私肥える」というパターンです。
今回は、「(風邪菌を有した)龍くんが食べ残す→(気づかずに)もったいないと私が食べる→私風邪ひく」という変形パターンとなったようです。
ふと気がつけば、何度となく「もったいない」を口にしています。
口にしなくても、そう思った末の行動を無意識のうちにしています。
「使えるのに無駄にするのが惜しい」など、大事にしようという心が備わっているからなのでしょう。
漢字で書くと「勿体無い」。
そもそも、この「勿体」は和製漢語で、もともとは「物体」と書き「もったい」と読む仏教用語だったそうです。 (出典が分からないので、一説としての紹介に止めます)
「事勿(なか)れ主義」ともいうように、「勿(まな)」は「してはならない」「いけない」という意味があります。
「体」とは「姿」であり、何も損なわれていない「本来あるべき姿」という意味が「勿体」にはあります。
それを無にするということで、「もったいない」。
浄土宗のHPには、このようなことが書かれています。
「もったいない」というのは、世の中の事々物々すべては、みな互いにもちつもたれつの関係でこそあれ、それ自身単独で我が本とすべき存在ではない、という仏教の基本的な考えを示すもので、「体なし」すなわち「勿体」という漢字をあてるのである。
逆に言えば、「勿体」は事物のすべてが互いに多くの縁でつながっている状態を示し、「勿体ない」はその一端をつぶし汚す結果を招いたところからでたわけである。
いわば「おかげ」を無視して万物のいのちを無駄にする心が「もったいない」に通じるのである。
「もったいない」の類語には「有り難い」があります。
風邪菌なんて勿体なくないと思うのは当然ですが、そんなふうにいろんなものを分別している自分に気づきます。
それでも、龍くんとつながり合えていることを教えてくれるなら、風邪もまた有り難いと思えるから不思議です。
見たいものを見るのが私の目です。
どうせ見るなら、「もったいなくて」「有り難くて」「おかげさま」な世界を見たいですね。
龍くんは、よく私の顔色を窺うようになりました。
私がちょっと無言になったりすると、決まって「かぁか(←私のこと)、笑ってる?」と聞いてきます。
一度、大きな声で怒ってしまったのが原因だと思います。
きっと心底怖かったのでしょうね。
あれ以来、私の心の中を確認するように何度も問いかけてくる龍くんを見るたびに、己の至らなさを痛感します。
今月の伝道掲示板にある法語です。
「和顔愛語(あげんあいご)」という言葉は、『無量寿経』という経典の中にあります。
そしてその後ろには、「先意承問(せんいじょうもん)」と続きます。
合わせると、
「和やかな優しい笑顔と思いやりに満ちた言葉をかけ、先に相手の心を汲み取って、その願いを満たしていく」
となります。
怒気に満ちた顔で棘のある言葉を投げてしまった私。
龍くんの心は、今なお冷たく震えているのでしょう。
もともとこの経文は、お浄土の情景を説く箇所にあるもの。
これを娑婆世界でもできるのならば、わざわざ経文にして残す必要などなかったはず。
そう開き直れば、できなくて当然と言い訳することもできるのでしょう。
でも、たとえできなくても、相手のそばにいて寄り添っていくことはできるかもしれません。
常には難しくとも、心掛けとして胸のうちに抱き続けることはできるかもしれません。
龍くんの顔色を窺うのではなくて、その心の奥底にある不安を汲み取っていくことで、龍くんに和顔愛語に溢れる日々を過ごしてもらえたらと思います。
そのためにはまず、私自身が和顔愛語を心掛けなくてはいけませんね。
それから、法語の左側にあるのは4月7日の永代経法要のご案内です。
そちらも合わせてご覧下さいませっ!
友人が日記で紹介していた梯実圓上のお言葉。
和上のお言葉は、いつも心に響きます。
今日も抜けるような青空に恵まれた一日でした。
午前中、お年賀のご挨拶にとお越しくださったご門徒さんが、こんなことをおっしゃいました。
「歳をとったから、お参りに来るの。 若いときは来なかったからね。」
同じお坊さんでも、聞く人によっては「それではダメだ」とお説教を始めてしまうような言葉です。
でも私は、とっても素直な言葉だと思いました。
お参りをすることは、確かに大事です。
我が身を振り返えったり、自分主義に走ることを諌められたり、無量のつながりの中での一つの点として支え支えられていることに気づかされたり。
ご先祖さまを縁として、阿弥陀さまのみ教えを聞かせていただくのに大切なのが、お寺にお参りすることだと思います。
ただ、「機縁」という言葉があります。
仏教語で「根機・因縁」の略で、「仏の教えを受けるものの素質能力(根機)と、仏の教えに触れる原因条件(因縁)の両者が熟して、初めて仏の衆生教化があるとされる」という意味です。
一人一人、機縁は異なります。
きっとこのご門徒さんは、「歳をとった」ということが機縁となったのでしょう。
どのような人生を歩まれたのか、その喜怒哀楽の日々はご本人の胸の内に大切にしまわれているのでしょうが、その日々の末にお寺へとお参りに来られるという今があるのですから、歳をとることも素敵なことだと思いました。
み仏の願いに触れる機縁は、いつ終わるともしれない命を生きている以上、早ければ早いほうが確かに良いことだと思います。
でも、遅いことを否定するものでは決してありません。
ただ私たち僧侶は、どなたにも、いつ熟すか分からない機を逃してしまわれないように、常にみ教えをお取り次ぎしていかなくてはならないのだと、改めて肝に銘じさせていただきました。