見上げると、空には大きな雲ばかり。
入道雲みたいな大きさなのに、とても速いスピードで流れていきます。
一緒に見上げていた龍くんは、「みんな(家族)一緒に乗りたいね」と言っていました。
あの雲が『ドラゴンボール』に出てくる筋斗雲なら、龍くん以外は乗れないなと思ったりしました。
なぜなら、主人公の孫悟空が乗る筋斗雲は、心が清らかでないと乗ることができないから。
でも、私はいつから自分は乗れないと思うようになったのでしょう。
浄土真宗のとある和上は、
「自分が罪深い」と思うことが偉いのではない。
「罪深い」と思うことが信心なのではない。
自分で「罪深い」と思うことは、どこまで行っても自分の行いでしかない。
そうおっしゃって、自分の罪深いのは頭の中から捨ててしまって、すべてを阿弥陀如来におまかせしてと続けられました。
『わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にかませまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし。』 (御文章五条四通)
阿弥陀さまのみ教えに出遇うことは、我が身の愚かさに気づかされることでもあります。
その数々が、筋斗雲に乗ることなど到底できないと、私に自覚を促しているようにも思います。
けれど、その気づきは大切ですが、余分な愚かさを自分に思い込ませてはいないだろうかとも感じました。
そして、愚かさに気づいている自分のほうが、周りの人より多くの物事が見えていると胸を張ってはいないかとも感じました。
「愚かなつもり」「罪深いつもり」
でなければ、自分以外の筋斗雲に乗れる可能性を一刀両断したりしないでしょう。
「おまかせしているつもり」
それが一番怖いものです。