築地本願寺の正面の門を入って、右手に手水場があります。
少し読みにくいのですが、「衆水一味浄」という字が彫られているのが分かります。
この「衆水一味浄」の出典は『教行信証』にあり、『正信偈』にも見ることができます。
ただ、意味は同じはあるのですが、文字の羅列等に少々異なる点が…。
馴染みの深い『正信偈』を引いてみると。
凡聖逆謗斉回入 (凡聖・逆謗ひとしく回入すれば)
如衆水入海一味 (衆水海に入りて一味なるが如し)
「凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる」 (現代語版『教行信証』145頁)
魚が泳ぐ綺麗な川もあれば、工業用水で汚れた川もある。
様々な川の水が流れてくるにもかかわらず、海は潮の味ただ一味だけ。
人もまた、様々な人種や思想、価値観を持っていて、煩悩まみれの人もいれば煩悩のない聖者もいるし、仏に逆らう人もいれば仏法を謗る人もいる。
それでも、阿弥陀さまの本願のもとでは、私たちは何の分け隔ても差別もない「一味」であるということ。
手水場の「衆水一味浄」も、この意に則った言葉とされるのですが、「浄」のつく出典がないので断定が難しいところ。 (つまりは、これは造語ということです)
先日リベンジに行った際に、境内にいた知り合いのお坊さん方と、この「浄」は何なのかと少しばかり話したのですが、どれも推察に域をでませんでした。
私が思うに、「ここで手を浄めた水もまた海に入って一味となる水であり、浄めたあなた自身もまた同じように阿弥陀さまのもとでの一味であるのですよ」、……ということかなと。
でも、お浄土の「浄」かもしれないし、ただ単に手水場だから洗浄という意味でのことかもしれないし。
正解は分かりませんが、何でもかんでも明確な回答を求めずとも、経文から思考を広げる素敵な機縁をいただいたと思うだけでもいいのではと、思ったりしました。
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