津野海太郎の本のところで触れてから、すぐに読みたくなって買ってしまった。本の帯には、「芝居に惚れて。惜しまれて去った俳優があとに遺した一束のメモ」とある。1992年晶文社刊。ブックデザインは平野甲賀で、表紙の平野の文字は、衣装を身に付けた役者のような姿をしている。なかなか威勢のいい書字である。
年譜をみると、1939年台湾生まれ。1971年『翼を燃やす天使たちの舞踏』第一回黒テント公演出演後、フリーとなる、とある。残されていたというメモの言葉を引こう。
・ナチュラリズムからは飛躍が可能である。
・心情はナチュラル、表現はシュール。跳ぶから面白い。 草野大悟
岡井隆の短歌など、さしずめこういうところだろう。いつもこんなことを感じながら読んでいる。
・観念におけるリアリズム、観念におけるナチュラリズム。これが日本の演劇を駄目にした。
・生活時間をきっちりと生活時間として演じられれば、ここを切り、こことここをつなげて、肉体のシュールが可能になる。 草野大悟
この言葉からは、草野がどういう演技・演劇をめざしていたかがイメージできる。現代の文芸の世界においても、ここが勘所なのではないだろうかと私は思う。いまさらリアリズムでもナチュラリズムでもない、という言葉は、「生活時間をきっちりと生活時間として演じ」たうえで言えることなのであり、それから「観念におけるリアリズム」と「観念におけるナチュラリズム」への批判が可能になるのだ。つまり、跳べる!のである。これは、実践家の言葉として、尊い。
・登場から引込みまでを「時間」と考える。
通常の時間でなら一秒のところを十秒にも拡大しなければならないところと、日常なら三十秒もかかるところを三分の一ほどにギューとつめるところと。
板の上で流れる音楽は伸縮性のあるゴム紐のようじゃなきゃいかん。
しかし、どこをどうちぢめたり伸ばしたりすれば、いい関係、いいテンポ、いいリズムになるのかは、手前で探すしかないんだ。 草野大悟
これは誰にもわかりやすい言葉で言っているが、文芸にひきつけて言うと、言葉(声)が支配しているのは意味だけではなくて、時間なのだということを、読む方も書く方もしばしば忘れてしまっていることがある。それは言葉に慣れすぎてしまうからで、演劇の方で言うと、それは役にセリフ(声)があることに慣れすぎてしまうということになるだろう。時間の伸縮を支配しているのは、セリフがあってもなくても、板の上にいる俳優の演技そのものなのだ。
年譜をみると、1939年台湾生まれ。1971年『翼を燃やす天使たちの舞踏』第一回黒テント公演出演後、フリーとなる、とある。残されていたというメモの言葉を引こう。
・ナチュラリズムからは飛躍が可能である。
・心情はナチュラル、表現はシュール。跳ぶから面白い。 草野大悟
岡井隆の短歌など、さしずめこういうところだろう。いつもこんなことを感じながら読んでいる。
・観念におけるリアリズム、観念におけるナチュラリズム。これが日本の演劇を駄目にした。
・生活時間をきっちりと生活時間として演じられれば、ここを切り、こことここをつなげて、肉体のシュールが可能になる。 草野大悟
この言葉からは、草野がどういう演技・演劇をめざしていたかがイメージできる。現代の文芸の世界においても、ここが勘所なのではないだろうかと私は思う。いまさらリアリズムでもナチュラリズムでもない、という言葉は、「生活時間をきっちりと生活時間として演じ」たうえで言えることなのであり、それから「観念におけるリアリズム」と「観念におけるナチュラリズム」への批判が可能になるのだ。つまり、跳べる!のである。これは、実践家の言葉として、尊い。
・登場から引込みまでを「時間」と考える。
通常の時間でなら一秒のところを十秒にも拡大しなければならないところと、日常なら三十秒もかかるところを三分の一ほどにギューとつめるところと。
板の上で流れる音楽は伸縮性のあるゴム紐のようじゃなきゃいかん。
しかし、どこをどうちぢめたり伸ばしたりすれば、いい関係、いいテンポ、いいリズムになるのかは、手前で探すしかないんだ。 草野大悟
これは誰にもわかりやすい言葉で言っているが、文芸にひきつけて言うと、言葉(声)が支配しているのは意味だけではなくて、時間なのだということを、読む方も書く方もしばしば忘れてしまっていることがある。それは言葉に慣れすぎてしまうからで、演劇の方で言うと、それは役にセリフ(声)があることに慣れすぎてしまうということになるだろう。時間の伸縮を支配しているのは、セリフがあってもなくても、板の上にいる俳優の演技そのものなのだ。
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