さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

まだまだ暑いので (一部訂正)

2018年08月28日 | 現代短歌
 二〇一八年の夏はことに暑かったので、すずしく秋の扉を開けてくれるような歌を読みたいと思う。伊藤一彦歌集『遠音よし遠見よし』から。

林中に黄蓮華升麻の花食べし鹿うつくしくなり秋待たむ
  ※「升麻」に「しようま」と振り仮名。

下句の句割れが、「鹿うつくしくなり」という様式的な語の運びにアクセントを与えて、当たり前にならないようにしている。

からみあふごとくに見えてからむなく水は仲間と渓谷走る

飲むときに千年を超ゆ水彦の棲むと思へる渓流の水

 雨が降ってから川の水となるまでに千年もかかるという水は実際にあるそうだ。「からみあふ」ように見えて「からむな」き水が、「仲間と渓谷」を「走る」のだという。これを読む時に生まれる幸せな感じはなんだろう。ここには伊藤一彦の円熟した歌境がある。先頃、この歌集につづけてもう一冊歌集を出したばかりの著者である。あれは詞書が読み物としておもしろい本である。この『遠音よし、遠見よし』にもそういう要素はあって、若山牧水に関係して作られた歌で、解釈に迷うような歌には、たいてい詞書が付けられている。

  「海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず」(『砂丘』)

かすみたる鋸山をながめつつ小枝子がことを思ひ出でしか    伊藤一彦

 詞書として引いてある短歌に『砂丘』とあるのは、牧水の歌集のことで、「海越えて鋸山はかすめども」とあるのがなかなかよい描写句。「小枝子がこと」は「小枝子のこと」、「思ひ出でしか」は、「思いだしたか」の意。

 著者には2015年刊の『若山牧水 その親和力を読む』という好著がある。牧水が惹かれた小枝子という女性は、かの大歌人に身を賭した恋をさせるほどのすばらしい女性だったとはとても思われない。それは若気のいたりと言ったら気の毒なような、不幸なこだわりであったが、そのあたり伊藤一彦の本を読んでみたら、また別種の感慨を得られるかもしれない。

 ※今見たら、「思ひ出でしか」のここでの私の訳が書き間違っていた。動詞「思ひいづ」連用形+過去の助動詞「き」の連体形+疑問の助詞「か」で、「思い出したのか」。これを「思い出した」だと、牧水でなくて作者が思い出したことになる。「しか」を「き」の已然形ととっている。それもまったくのまちがいとは言えないが、しかし、ここは牧水の気持をおもいやっているのだから、疑問形であろう。


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