何やら世の中が騒然としていて、目に見えない感染症に対する不安が、そこいらじゅうに漂っている。誰が重症化するかわからない、というところに、このウイルス感染の深刻な点がある。
それで、ここでは最近手元に取り出した本の話をしよう。彫刻家の高田博厚の『人間の風景』には、彼が交流した人々の思い出がつづられている。フランスに行く前の詩人中原中也との交友についての文章は、中原に関心のある人なら必読のものであろう。私は青山二郎の回想記の上にこの高田の文章をのっけてみたら、だいたいのところの中原中也の実像に近づけるのではないかと思う。点描されている長谷川泰子の姿も印象的である。高田がフランスに行くとき、見送りには二人がそろって来ていたという。
それに何と言っても、実際のロマン・ロランやルオーとのやりとりが圧巻である。ロマン・ロランが弾いてくれたベートーヴェンの演奏のなかに、彼のすべてが表現されていた、という一文などはことに印象に残る。
「私はよく『ジャン・クリストフ』の中のある箇所を思い出す。灰色の霧のこもった冬のパリで、クリストフは一文なしで、安宿の部屋は寒く、かぜをひいてしまう。やりきれないので、ルーブルへ行って、レムブラントのあの「天使の声をきくヨセフ」の絵の前に立つ。あそこだけが光っている。魂が温められて、熱病にかかったように、ふらふら外へ出て、リュ・ド・リヴォリ通りの通りへ来ると、向う側を昔会った女が歩いている。追いかけて通りを横切ろうとすると、雑踏する馬車にさえぎられてしまい、姿を見失う。夜中うなされていると、隣の部屋の見知らぬ女が、額にぬれた布を当てて介抱してくれているのがぼんやり眼に写る……。
これは非常に美しい描写である。そしてこの幻は何人にとっても真実事実なのである。なぜならレムブラントの絵がそういうものを持っているのである。ただこの「変らないもの」に対して、一に「自分」がどうあるかにかかっている。別にかぜを引かなくても、一文なしでなくても宜いのではあるが、これはこちらの精神の素朴な状態を示す一つの条件にすぎない。批評家、鑑定家が一点の絵を見ている姿ではなくて、人間が美に触れている時の状態である。そしてこれが自分に現せ、自分に書けるのは大変なことだろう。時間がかかって、こういうことが段々解ってくると、もうフランスでもパリでもなくなってしまう。「変らないもの」の全量に自分が立ち向っていることに気づく。」
高田博厚「古いものと新しいもの」より
「「変らないもの」の全量」に向かっていると、古いも新しいもないのだ、ということを高田は言う。これが、なかなか簡単ではない。人は流行に左右され、世間の評判に一喜一憂するものだ。
そもそも「変らないもの」とは何だろう。感じつつ考える、ということをしなくてはならない。それは謙虚でないとできないことでもある。
絵や音楽、詩歌、芸術全般において、その最上のものに触れると、人は自然に謙虚にならざるを得なくなる。そのうえで、自分に何ができるのだろうかと考えてみる時、無謀な挑戦に向けて、恐れげもなく立ちあがり、一歩だけでも歩いてみるということは、何もしないでいるよりはましかもしれない。また、それは無理に「表現」である必用はなくて、「やりきれないので、ルーブルへ行って、レムブラントのあの「天使の声をきくヨセフ」の絵の前に立つ。」ということだけでもいいのだろう。その時の心の位相を「観じ」ようとするところが、高田と小林秀雄の共通するところだ。フランス文化の持つ厳然とした精神性と「神」に突き当たった人の証言として高田の言葉は傾聴に値する。
とは言いながら、私などそういう智とははなから縁遠いのである。それでも、「「変らないもの」の全量」を思うことが、安易な死への誘惑と、死からの遁走との両方から人を救い出すものであることは、わかる。
それで、ここでは最近手元に取り出した本の話をしよう。彫刻家の高田博厚の『人間の風景』には、彼が交流した人々の思い出がつづられている。フランスに行く前の詩人中原中也との交友についての文章は、中原に関心のある人なら必読のものであろう。私は青山二郎の回想記の上にこの高田の文章をのっけてみたら、だいたいのところの中原中也の実像に近づけるのではないかと思う。点描されている長谷川泰子の姿も印象的である。高田がフランスに行くとき、見送りには二人がそろって来ていたという。
それに何と言っても、実際のロマン・ロランやルオーとのやりとりが圧巻である。ロマン・ロランが弾いてくれたベートーヴェンの演奏のなかに、彼のすべてが表現されていた、という一文などはことに印象に残る。
「私はよく『ジャン・クリストフ』の中のある箇所を思い出す。灰色の霧のこもった冬のパリで、クリストフは一文なしで、安宿の部屋は寒く、かぜをひいてしまう。やりきれないので、ルーブルへ行って、レムブラントのあの「天使の声をきくヨセフ」の絵の前に立つ。あそこだけが光っている。魂が温められて、熱病にかかったように、ふらふら外へ出て、リュ・ド・リヴォリ通りの通りへ来ると、向う側を昔会った女が歩いている。追いかけて通りを横切ろうとすると、雑踏する馬車にさえぎられてしまい、姿を見失う。夜中うなされていると、隣の部屋の見知らぬ女が、額にぬれた布を当てて介抱してくれているのがぼんやり眼に写る……。
これは非常に美しい描写である。そしてこの幻は何人にとっても真実事実なのである。なぜならレムブラントの絵がそういうものを持っているのである。ただこの「変らないもの」に対して、一に「自分」がどうあるかにかかっている。別にかぜを引かなくても、一文なしでなくても宜いのではあるが、これはこちらの精神の素朴な状態を示す一つの条件にすぎない。批評家、鑑定家が一点の絵を見ている姿ではなくて、人間が美に触れている時の状態である。そしてこれが自分に現せ、自分に書けるのは大変なことだろう。時間がかかって、こういうことが段々解ってくると、もうフランスでもパリでもなくなってしまう。「変らないもの」の全量に自分が立ち向っていることに気づく。」
高田博厚「古いものと新しいもの」より
「「変らないもの」の全量」に向かっていると、古いも新しいもないのだ、ということを高田は言う。これが、なかなか簡単ではない。人は流行に左右され、世間の評判に一喜一憂するものだ。
そもそも「変らないもの」とは何だろう。感じつつ考える、ということをしなくてはならない。それは謙虚でないとできないことでもある。
絵や音楽、詩歌、芸術全般において、その最上のものに触れると、人は自然に謙虚にならざるを得なくなる。そのうえで、自分に何ができるのだろうかと考えてみる時、無謀な挑戦に向けて、恐れげもなく立ちあがり、一歩だけでも歩いてみるということは、何もしないでいるよりはましかもしれない。また、それは無理に「表現」である必用はなくて、「やりきれないので、ルーブルへ行って、レムブラントのあの「天使の声をきくヨセフ」の絵の前に立つ。」ということだけでもいいのだろう。その時の心の位相を「観じ」ようとするところが、高田と小林秀雄の共通するところだ。フランス文化の持つ厳然とした精神性と「神」に突き当たった人の証言として高田の言葉は傾聴に値する。
とは言いながら、私などそういう智とははなから縁遠いのである。それでも、「「変らないもの」の全量」を思うことが、安易な死への誘惑と、死からの遁走との両方から人を救い出すものであることは、わかる。
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