さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

大橋弘『既視感製造機械』 近刊歌集瞥見 一 

2020年04月11日 | 現代短歌
 第二土曜日はだいたい短歌関係のことをやっている。ところが、このコロナ騒ぎで会はなくなるし、職場関係の用事も消滅した。それで八時頃に起き出して風呂に入り、手元に積んである歌集をめくってみた。全部読むいとまもないので、以下はざっとめくった感想にすぎないが、思ったことが消えないうちに書き留めておくことにする。作者にとっては、それでも何も言われないよりはいいはずなのだ。
 たったいま午前十時に、藤沢市長が防災放送で不要不急の外出自粛を呼びかける声が拡声スピーカーから流れた。それで、書くのを一時中断した。

さて、最初は大橋弘の新刊歌集『既視感製造機械』である。タイトルを見た時は、なんだかあまりいい感じを受けなかった。けれども、ぱっとまん中を拡げて「おれもまた荒廃をつくりだすことができるのだ」の一連十二首を読んだら、よくわかる気がするのだ。短歌の世界では、リアリズム系の人がこういう歌集をわからないと言って片付けてしまう時代があったが、今は完全に逆転した。大橋さんのような歌でないともう今の若い人は読まないだろう。

私はこの作者をずいぶん前から知っている。時折「桜狩」にのっている作品を見ては、個性的な作者だと思ってきた。二十年近く前だと思うが、何か不満を言って手紙で書き送ったこともあったような気がする。今度の歌集は、その時の歯がゆい感じがない。私が変わったのか、作者が変わったのか、たぶんその両方だと思うが、いい歌集に思えた。私はこのいまの「感じ」を信じることにする。

 そのかみのみやこを守る大鴉いま紅に焼かれつつあり

 真夜中は汝を電車にしてしまふはやくゆるめて抱かれてしまへ

 いづくとも知られず汝の去りしのち海に漂ふ桃の実の影

 桃のなだらかな、善悪のさかひめに沿つて舌は這ひゆく

古代中国の神話や、『古事記』の黄泉平坂で投げた桃の実のことを連想しながら読む。二首目や四首目は、何やら性愛の場面につながるエロティックな感じをにじませる。続きを読む。

 ふみつきの屋根ことごとく崩えゆくは雨に打たれしわたつみのいろ

 たましひをもてるわれらはたましひをゆらゆらさせて汁粉など食す

二首目の「電車」と、三首目の「海」の両方を受けて、この五首目の「わたつみ」が出てくるということが、イメージの論理として、私にはよくわかる気がする。それを、さらに現実の汁粉を食べる「われら」にまでひっぱって来てきちんと落着させる一連の運びなど、実にいい感じだ。

 おつと死者も生きてゐるのだ見えるだらう夜を運んでくる消防車

 朝な朝なクスリがきれて笑ひだすカニはかうしてヒトになつたよ

この「おつと死者も生きてゐるのだ」というおどけた口調には、それなりに年をとった人間でなければわからないような、生と死にたいするある感じ方というものがある。親しい死者がそこにいるという感じ、死者とともに自分は生きているのだという感じ方である。また「朝な朝なクスリがきれて笑ひだす」という歌には、現実の作者自身の実感も反映されているのだろう。 ※念のため、ここで言っている薬は、向精神薬系のものであろう。

 ビル風の真下に咲けば向日葵こそ冷酷なれとさとりは言へり

 まだ生きてゐたのか夜明けこれからも生きていくのか夜明けのやうに

「ビル風」の歌は一首だけみると難解にみえるが、続く「まだ生きてゐたのか」という歌を参照すればわかるだろう。根深く厭世的な作者、生き難いと感ずる作者がここには居て、朝起きた自分が「カニ」のように思える瞬間があって、そこから「人間」にもどって社会生活をするのだと思い決める、というような手続きを必要とする毎朝がある、なんてよくわかるではないか。

 あなたには聞こえない薔薇のこの薔薇の芯を朽ちてゆく幼児期

 引き波にさらはれおもちやは水底へからつぽのまま沈みてゆくなり

断じて表面的に言葉をいじくって遊んでいる歌ではない。「薔薇の芯」への言及には、個々の人間の抱える幼児期の記憶の淵源に対して、人は互いになかなか触れ得ないのだ、という深い認識がある。それは妻子や友人といった身近な他者と接しつつ日々感じる断絶感、わかり得ないという思いを言い留めるとするとこうなる、という歌なのだ。日本語の韻文表現のなかで完全に自前のものとなったシュルレアリスムと、一般化したもろもろの心理学的な知見の集積の上にこの一首はある。そうして、かすかに津波の記憶を揺曳している「からつぽのおもちや」の一首は、一連の「海」のイメージの展開をしめくくる秀逸な仕上がりとなっている。

 

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