さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

小林幹也『九十九折』 歌集歌書瞥見 二

2020年04月13日 | 現代短歌
 塚本邦雄の弟子筋の人が、師風に染まらないような歌を作ってみせるとき、私はおもしろいと思うことが多い。歌集のなかにこんな歌を見つけた。

  笠要らんかェ~の声にブウと応じたる豚よ 晦日の雪はつらいか
    ※「晦日」に「みそか」と振り仮名。

  地蔵の笠、今朝新品に換はれどもあはれ朱印の企業名あり

 巻末の「笠地蔵異聞」の一連から引いた。ここに出てくる「市場」というような場所の力が、現代の日本では衰弱してしまっており、それにインターネットが拍車をかけている。

  カレー屋の亭主の勘定見守れる真鍮の象レジのうしろに

  断崖の隙間に萩の花が咲く 実朝もまた隙間の花か
    ※「断崖」に「きりぎし」と振り仮名。

 「真鍮の象」みたいなものを見ている歌が、この歌集にはたくさんあって、わるくない。はじめの方の「卒業式次第の行間」の一連では、そういう歌が少しめんどうくさい。要は数の配分の問題だ。 
別の話になるが、現在はコロナ禍から壊滅的な打撃を被っているこの「カレー屋」のような全国の小商いを守ることが急務だ。「V字回復用」の予算分も全部先に注入すべきで、今度の緊急補正の予算は配分を誤っていると私は考える。

 切れかけのこよりか 天橋立を子に見せたがるわがうたごころ

作者は大学やカルチャーで短歌や和歌を教える歌の専門家の一人である。一首先に引いた源実朝という存在が、断崖の隙間に咲く萩の花だというのは、うつくしいイメージだ。天橋立は、言わずと知れた古来の歌枕だが、「切れかけのこより」のようにも見えると、ざっくり言ってみせるのは、自分の甘い感傷を対象化するためである。

 お供への卵ひと呑みしたるのちに背を向けて眠る三輪山
  ※「背」に「そびら」と振り仮名。

三輪の祭神は蛇だから卵をのんで昼寝をする。いい歌だ。司馬遼太郎が「街道をゆく」の旅で常に同道した画家の須田剋太のエピソードをいま思い出した。おもしろいので長くなるが、コロナ禍で出社停止になって退屈しておられる方のために引いてみる。

「浦和時代、町に道具屋さんがあって、骨董などをならべていました。そこの主人が変な言葉をつかうので、須田さんは気味わるく思っていました。それが京都弁であることに気づかなかったのです。江戸時代なら須田さんのような人もいたでしょうが、昭和ヒトケタのころですから、この世に京都弁が存在することに気づかないほうが希少価値だったでしょう。    
(略)
……軍需景気で大もうけしている社長さんが、戦時下の須田さんの孤立(?)をあわれみ、会社の寮の番人にしてくれたのです。その寮が京都の八瀬にありました。
 そんなわけで、使いの人が浦和から須田さんをつれて京都に降りたのです。そのとき須田さんは、フォームで京都の人が話しているのをきいて、「ああ、あの道具屋さんのことばは京都のことばだったのか」と気づいたそうで、まことに好もしい迂遠さでした。

 京都からやがて奈良へうつりました。大和の国中の盆地にある天香具山や畝傍山、耳成山といった大和三山を須田さんはみて、「あれは造った山ですか」と人にきいたといいますから、なにやらきわだったのどかさでありました。そのような時期、名古屋の杉本健吉画伯が奈良に仮寓していて、仮寓者同士、終生の友人になりました。」
              司馬遼太郎『須田剋太「街道をゆく」とその周辺』より

ついでに書くと、コロナ禍で私が最近注目しているその須田剋太の大阪での回顧展が中止になった。残念である。私はまた注文していないが、そのカタログは売るようだから、零細な美術館を助けるために、みなさんもぜひ注文しましょう。絵は、ヤフーのオークションだと福井県のcircledis さんが安く売っている。すこし脱線しすぎてしまった。話をもどして、

  浜辺にて弁当蓋を閉ぢる手の動き浦島太郎を模して

  玄米をカレーの沼に沈ませて旧王朝の地層を崩す

  マシュマロを焼けばどろりと初恋を秘めたる杜の樹液のねばり

さり気ないが、気のきいた歌が多い。食べ物の歌もしゃれている。三首目は、だいたいマシュマロって焼くもんだろうか、というところも含めて、なんか変な歌だけれど、おもしろい。

  園児らが山猫さんと呼ぶ人は山根さんだと知る夕まぐれ

  「パパの欲しい物はなあに♡」と聞かるれば鸚鵡返しに「干し芋」といふ
 
平和な生活というのは、他愛ないものなのであって、それが大事。短歌はそういうものを守るためにある。

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