さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

「毎日新聞」9月15日の社説の訂正を ※改題

2019年04月28日 | 大学入試改革
 ここ数年間にわたって、A県の教育委員会は、文科省の指示に従って、一単位あたり35時間の授業時間数を確保しなければいけないと言って現場に指示を出し、年間計画の提出と、一単位当たりの授業時間数の平均の数を正確に計算して嘘偽りなく報告する義務を現場に課した。

 その結果どういうことが起きたかというと、長期休業、つまり夏休みや冬休みや春休みの時間を削って授業時間数を増やしたり、行事を精選、つまり削って授業の時間を増やさざるを得なくなった。具体的には、順に列挙すると、かつては一日をつぶして外に出かけて芸術鑑賞会としてやっていたものが、ほぼ全滅した。それから学期に二日から三日を使ってやっていた球技大会の日数が半減するか、または廃止された。さらに、文化祭と体育祭を二つともやっていた学校が、多く隔年にせざるを得なくなった。また、それを回避するための苦肉の策として、文化祭の開催を九月一日とし、夏休みを削って以前は九月最初だった二学期の始業式を八月下旬に持って来るという奇策をとるほかはなくなった学校もある。また、従来の日程を変えたくない学校は、一時間50分だったものを、55分や60分や65分にせざるを得なくなった。

 一単位あたり35時間の授業時間数、ということが至上命令として現場に徹底されるのである。これが教育委員会というものの体質なのだ。上意下達。文科省では柔軟な言葉を言っているのかもしれないが、現場はこの通りである。

 その結果、どういうことが起きているかというと、A県に限らず、現実に教育実習生の人数が減っている。どこの県のこととは言わないが、「〇〇県はブラックだから志望しない方がいい」と実際に大学が指導している例もあると卒業生の学生から聞いた。 ※追記すると、A県では今年は採用試験の受験者が減っている。

 かつては長い夏休みがとれた学校の先生は、今は五日の夏休みが現実にとれない人が大勢いる。土・日などの通常の休日を別にして、年間で年休を一日しかとっていない先生が大勢いる。その筆頭が、実は管理職である。もっとも過労なのは管理職である。いつも七時半まで残って仕事をしていて、たいてい土・日も出勤している。それから「総括教諭」もたいへんである。仕事が大変だから、「総括教諭」になりたがる人数が減り、欠員があって補充がきかない。そのため制度自体が破綻しかけている。こういう状況のなかでの「一単位あたり35時間の授業時間数確保」という至上命令があるわけなのだ。

 みんなで楽しくない現場を作り出して、苦しんでいる。ただ、先生たちは真面目だから、声を上げない。「総括教諭」を辞退すると、次の転勤の時に報復人事がある、ということが、現場ではまことしやかに語られている。実際にそういう人事は存在すると考えられていて、「ますますなり手がいなくなっちゃうのに、何でそういうことをするかなあ」ということを、先日も何人かが昼食をとりながら話していた。もっともこれは都市伝説のようなもの
で、組合でもそんなことは事実として存在しない、と言っている。

 平成は、私の現場では、上の言う事にさからえないメンタリティーの役人が大きな顔をすることによる弊害が目に余る時代であった。私には、「令和」の「令」は、命令の「令」のように見える。令和は、平成以上に上意下達の空気が強まる社会となるのではないか。それを突破するものは何だろう。オリンピックのメダルの数だろうか。

 人生で何が大事かというと、お祭りのような「非日常」の時間のなかではない、ふだんの「日常」の時間なかで、どのように過ごしやすい生活・労働の時間を生み出してゆくことができるか、ということに尽きるのではないか。職場においても、働くことについての感じ方の感覚、かつて山本七平が言った「空気」に弱い感性を克服することが大切である。

 「アクティブ・ラーニング」ということを文科省が主唱した。すると、学校目標には「アクティブ・ラーニングを積極的に推し進める」という言葉が書き込まれ、「アクティブ・ラーニング」という言葉が独り歩きするのである。

 佐藤優は、近著『国語ゼミ AI時代を生き抜く集中講義』のなかで、「アクティブ・ラーニングも、単なる思いつきを発表したり、その場しのぎの意見を言い合ったりするだけの場になってしまっては、学びにとっては逆効果なのです。
 アクティブな表現は、パッシブな知識なしにはできません。」
と書いている。
つづけて「…学びにおいてもっとも基本となる「型」とは何でしょうか。それが本書のテーマである「国語」のいちばんの基礎となる力、すなわち「読む力」です。」とも書いている。

 これはX県の話だか、今度の新学習指導要領改訂をにらんで、「読む」「書く」「話す・聞く」の三つの目標を先に立てて、そこから逆算したシラバス(授業計画案)を提出せよという指示が教育委員会から出された。しかも、一つ一つの教材ごとに、これは「読む」ことを目標としたもの、これは「書く」ことを目標にしたもの、というように明示しなければならないのだという。仕方がないので、そういう形式のシラバスを作成したけれども、たとえば一つの文章を読んで、いちいちそこで身に付くものが「読む」力、「書く」ちから、「話す・聞く」ちからと分けられるような教材など、あるはずもないだろう。みんな有機的にくっついていて、本来分けられないのものをなんで分けようとするのか。ばっか、じゃなかろうか、というのが、正直な感想である。これを文科省とその意向を受けた(つもりの)教育委員会とがいっしょになって現場に強要している。絶望的に幼稚である。

現在文科省は、財界の意向を受けたかたちで、「現代の国語」週二時間、「論理国語」二、三年生で週四時間の教科書の中から「文学」を排除した教科書を作れと教科書会社に指令を出している。その先頭にいるのが、大滝一登視学官である。この人がかかわって作った新学習指導要領についての本はひどく出来が悪くて、読んだひとはみんながっかりした、使えない、と言っている。

財界のひとたちは、十代に文学、小説や詩を読んだりする機会を高校生たちから奪うことを恥ずかしいとは思わないのだろうか。若いうちに一生の心の栄養となるような文章を読むことが、何がわるいのだろうか? 

夏目漱石の「私の個人主義」などは、定番の教材すぎるから、「論理国語」にはのせられない、のせようと思うなら、「それなりの論理武装をしてきてください」と大滝一登視学官は明言したそうだ。耳を疑う暴言である。

知人からメールが入って、雑誌「現代思想」がこの件について特集をしているそうだから、明日は買いに行こうと思っている。

※ 追記 「毎日新聞」9月15日の社説で「論理国語」を問題にしてとりあげているが、「現代の国語」が問題になっていない。これは間違いだ。
「現代の国語」には文学を入れるなと文科省の担当官は言っている。二時間しか国語の時間がとれない学校の生徒は、「現代の国語」のせいで一年生のうちは文学に触れられないことになる。


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