さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

春日真木子『何の扉か』

2018年10月14日 | 現代短歌
 この歌集は、何と言っても、卒寿を迎える前後の作者の感慨を述べた作品群に読みどころがある。歌が生き生きとしていておもしろいし、自在な言葉の発する輝きに心を動かされるのである。

老いたるは化けやすしとぞ 廾 かぶれば花よ 私は生きる

※「廾」はここでは代字で、三画の「艸」に「くさかんむり」と振り仮名。「花よ」のあと一字空き。

九十歳のわれの腕に湯気ぬくし女のみどりごの桜じめりよ

 ※「腕」に「かひな」、「女」に「め」と振り仮名。

四代のをみなの揃ふ花筵 延びゆくならむわが待ち時間

この世紀まるまる生き継ぐ曾孫らに母国語ありや敢へなし母国

日本語がローマ字化さる戦きを語るわれらにながし戦後は

 ※「戦き」に「おのの(き)」と振り仮名。

花桃のひらきてわれは九〇歳 ああ零からの出発の春

 ※「零」に「ぜろ」と振り仮名。

 後記には、「九十歳を九〇歳と記せば一〇度目の零からのあらたな出発です」とあって、「あらたな」という自らを励ますような一語に力を感じ取る読者もいるのではないかと思う。
結社の「水甕」は、2013年に創刊100年を迎えた。それに伴って作者は来し方を振り返る機会が多かった。歌集冒頭の一連は、父の思い出をうたったものである。

手文庫の奥に見いでし封筒に「要保存」とぞ父の朱書きの

孔版の黄ばみし文書はGHQ校正検閲の通達なりき

検閲を下怒りつつ畏れゐし父の身回り闇ただよへり

校正をGHQへ搬びしよわれは下げ髪肩に揺らして

 三首めの「検閲を下怒りつつ」というのは、心のうちに怒りをこらえながら、という意味である。春日真木子は戦中・戦後の検閲の両方を経験し、それを証言してきた生き証人である。戦時中の雑誌は、表紙に「撃チテシ止マム」という標語を入れないと雑誌が発行できなかったということを、私は短歌誌上の春日氏の文章によって教えられた。一番ダイレクトでわかりやすいこの事実が、特に学校では教えられていないのである。
作者の父親は、歌人の松田常憲(つねのり)である。今度の歌集中には、昭和二十年の戦争末期の謄写版刷りでの歌誌発行の様子を伝える歌も収められている。

さなきだに用紙削減きびしかり なかんづく恐る検閲の眼を

きはまりは編集後記含みある言葉かこれは深く汲むべし

ザラ紙の誌面なでつつせつなけれ口授してゆかなこのせつなさを

 ※「口授」に「くじゆ」と振り仮名。

潔く辞めむと言ふ父潔わるく続けよと宣らす尾上柴舟

 ※「潔わるく」に「いさぎわるく」と振り仮名。

警報の解くればゲートル巻きしまま謄写に向かふあな甲斐甲斐し

 空襲によって印刷所も焼け、存亡の危機に立たされた雑誌をめぐっての松田常憲と尾上柴舟とのやりとりもおもしろい。おしまいにもう一首引く。

風は伸び冬木をめぐり吹きゆけり考へぶかく木は曇りをり

 こういう歌の話をゆっくりと自分の身の回りのみなさんとしたいなと、思うことはある。秒速で動く世の中に対しては、過現未の時間の帯を「いま」の周囲にひろげて、こちらが豊かにふくらんでみせたらいいのだ。それが生の豊かさというものである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿