春風駘蕩

いつの時代でもこうありたい

再就職して満2年

2005年05月01日 | 日記
私は3年前の平成14年6月30日、61歳で前の職場を退職した。母の介護が理由で、退職後は私の住む鎌倉と
母がいる長崎を往復していた。鎌倉にいる時は、朝早く起て窓を開け、小鳥に餌をやるのが私の日課だった。
毎日、Tシャツと短パンで過ごし、妻とフィットネスで水泳を楽しんでいた。

しかし、楽しい日々も長くは続かなかった。8月の下旬、前の職場から「参与に就任してくれ」との電話が入った。
参与室は、東京・千代田区永田町のビルの一室、冷蔵庫、テレビ、電話、パソコン等、必要なものはすべて整っており、
好きな時に出勤すればよい。但し無給ということだった。

10月の初め、9月に遡って参与の辞令交付があり、その後、事務局長と昼食を共にした。その時、局長から10月27日投票
の衆参統一補欠選挙への協力要請があり、私は大阪10区と新潟5区の支援に入った。結果は5勝2敗。
福岡6区、大阪10区、新潟5区、千葉、鳥取で与党が勝利し、神奈川8区(無所属の江田氏)、山形4区(民主の浅田氏)
で負けた。

退職して6ヵ月が過ぎ、平成15年の正月を迎えた。1月14日は、私の満62歳の誕生日。この日朝から息子の車で
鎌倉を出発、逗子大崎公園で遊び、三浦半島を南下し、横須賀の「豊魚」で昼食。その後、城ヶ島を経て観音崎京急ホテルで
少し休み、引き続き三浦半島を北上して帰宅した。家族3人の三浦半島一周のドライブだったが、幸せな1日だった。

2月に入るとまた前の職場から電話があった。こんどは系列の団体が発行している広報紙見直しのプロジェクトチームを発足
させるのでメンバーに入ってくれとのことだった。数日後、第1回会合の案内状が届き、数回の会合の後、「改革案」をまとめた。
これでお役御免と思っていたら、4月からこの団体の広報部長に就任してくれということになった。

どうしようかと悩んだ。週2~3日の出勤という提案も受け入れられず、5月からの勤務が決まった。退職して10ヵ月後の
ことだった。あれから2年、私は64歳になった。その間、5日間ほどの入院を経験したが、元気に勤務している。

いまは、快適な職場で楽しく仕事が出来ることに感謝している。