お彼岸が近づいて、今から80年も前のオヤジの事を思い出してしまいました。
太平洋戦争と云うより大東亜戦争前の昔の話です。
東京は下谷稲荷神社脇の平屋の家で、父が独立して小さな工場(こうば)を一人で営んでいた頃は、私達5人兄弟の内、当時生まれていたのは私と兄の二人、夫婦親子4人家族でした。
従って親父の職業は機械工だったようです。
10歳若かった母は家(こうば)の裏で煎餅屋さんをやっていたそうですが・・
こうばも煎餅屋も私の記憶には全く有りません。
オヤジ(と呼ばして下さい)が母の忙しい時に代わりに煎餅を焼き始めると、そこへ近所の子供たちが自然に集まって来て・・
煎餅を焼く匂いよりも親父が煎餅を焼き損なって・・
近所の子供達は失敗して焦げちゃったか割れちゃったかした煎餅を、その場で子供達に呉れてやってた話は母から戦後に良く聞いた話です。
若しかすると子供好きな親父はワザと出来損ないのお煎餅を焼いて、子供達に気前よく配ったのかも知れません。
母の煎餅稼業も長続きししていれば私の記憶にも残っているはずなんですが・・
父の失敗煎餅に母が呆れて止めてしまったのか・・
或いは店は潰れてしまったのか・・
85歳まで生きてた母からも、生前、煎餅屋の話はとうとう聞かずに亡くなって仕舞いました。
ですから両親の焼いた煎餅の欠片の記憶もないのです。
何しろ私も未だ小学校に上がる前の5歳の頃だと思うので、神社の鳥居の下で近所の子供達と遊んだ微かな記憶があるだけです。
そうそう関東大震災の直後、どういう訳か親父が上野の山の上でバナナを一房持って立っていたそうです。
何故上野の山なのか、何故バナナを持っていたのか・・
親父からは何も聞いていないし母からも聞いていません。
然し、当時は未だ母と世帯を持っていたとも考えられない・・
何故なら母の実家は深川ですから・・
明治生まれの両親は私たちに、自分の生い立ちを話すことも無く、とうに、あの世に逝ってしまっていますから・・
当時バナナがどんな存在だったかも知れませんし、店で買ったのかも・・
若しかしたら大地震のドサクサに何処かの店から失敬して来たのかも知れません。
下谷稲荷町の神社付近は関東大震災も太平洋戦争にも焼け残って・・
終戦後、私達夫婦が訪ねて行った時も、古い家屋は昔の儘で・・
勿論、誰か知らない人が住んでいるようでしたから・・
さて、話が逸れて仕舞いました・・長く成りそうです・・ボケ爺、ボケ頭、年寄りのたわ言です。ゴメンナサイ
関東大震災で握り飯が食べられたかわかりません。ゴチソウサマ