キーボードを叩く老人の頭の中に次々と昔の情景が浮かんできます。
最近の台風の進路同様にあちらこちらと向きが変われば文章も変わっていきます。
お見苦しいのは承知の上で、題名迄くるくる変わる変な文章になって仕舞いました。ゴメンナサイ
それはそれは昔の話です。
私が5歳の頃、両親と息子二人の家族は高田馬場(当時の住所、東京市淀橋区戸塚町3丁目)へ引っ越しました。
母親と私達は贅沢にも上野からタクシーで(当時は円タクって言ってたようです)
ハッキリとはしないけれど、私の記憶もこの頃からの事が多いですね。
人はボケなければ、記憶と云うのが生まれて5~6歳の頃から一生覚えていられるんですね。
今、私はボケ頭で必死に昔を思い出して追いかけているんです。
一家が下谷から山の手の高田馬場へ引っ越したのは、父の親会社(測量機関係)が山の手の中野区に在って何かと仕事が、し易かったからだと思われます。
当時、間接的に親父の町工場は軍需景気で忙しくて従業員もオヤジ一人から4人位に増えていました。
T・kさんもその中の一人です。
但しKさんは母親の親戚の倅で長男ですから、言うなれば身内です。
厳しい父は身内も他の従業員と同様で特別扱いはしていませんでしたが・・
ところでT・Kさんと一家の夕食の話です。
年寄りのお手伝いさんを休ませるためか、親父自身が食べたかったのか?
週に一度多分土曜日か日曜日か?・・多分日曜日です。
大人の休みは日曜日?いえ日曜日も工場は休んでいなかったのかも・・休みは盆と暮れは??、
私が知っているのは正月の3か日だけ・・お年玉が楽しみで・・
他に、確か「藪入り」って言うのが有つて・・お休みは年に僅かで・・ホント今では考えられない労働基準法なんて無かった時代の昔話です。
オヤジは、Tさん、子供達を含めて家族全員に好きな出前の丼を取って食べさせてくれたのです。
正月でもなければ盆休みでもないなかでのTさん含めての出前の夕食は当時としては、一家が世間並以上の贅沢だったのかも知れません。
そしてオヤジはヤッパリ食いしん坊・・
私も、その血を引いているのかも知れません。
オヤジは上寿司を、Tさんは上うな重を、私達子供はちらし寿司丼か親子丼だったと思いますが・・「ゴチソウサマでした」って言っておきます。
「なんでも好きな物をと・・」当時子供ですからメニュー等は分かりません。
オヤジは晩酌を少々だったか・・ご機嫌でした・・確か・・子供たちも大はしゃぎの夕ご飯・・週一度の夕飯でしたが・・
Tさんは座敷の隅で一人用の小さなお膳を前に、私達とは離れた場所で黙々とうな重を食べていたようです。
家族と身内の違いで、私達は大きなお膳を囲んで賑やかに夕餉を楽しんでいるのに・・
身内と云っても従業員の一人、差別と云えば差別ですが・・当時はそれが当たり前だったようです。
若いT・Kさんは奉公の身で、私の家から早稲田専門学校(現早稲田大学の前身)の夜学へ通いながら親父の右腕として働いて働いて・・
T・Kさんが二十歳になったある日、親父が私達をT・Kさんの前に座らせて「今日からKちゃんでは無くてKさんと呼びなさい・・分かったね」って・・
T・Kさんが成人して大人になったということです。
でも、Kさんは両親の薦めも有って兄貴分としても私達をあちらこちら連れて行ってくれました。
海水浴、縁日、バッタ取り、年の離れた兄貴分として両親の信頼は抜群だったKさんでしたから・・
ある年の夏の事です。
Tさんと弟分で通いのUちゃんが仕事を終えてから、日が暮れてから母親に頼まれて私達兄弟を200mくらい先、4丁目の中野湯に連れて行ってくれました。
きっと近所の青山湯が、お休みだったのでしょう。
お風呂でT・Kさんから体を洗って貰った後・・中野湯を出て4人は直ぐ脇の窯の有る横丁の暗がりへ導かれました。
どっから手に入れたか、兄貴分のKさんから私達の手にそれぞれアイスキャンディーが一本づつ渡されて・・
暗い中野湯の裏で4人固まってコッソリと無言で長いアイスキャンディーを食べたんです。
暗闇の中で、湯上りの火照った体と喉に冷たいアイスキャンディーの旨かったことったら・・
食べ終わってKさんが「ナイショだぞ・・家へ帰ってからも・・」
勿論、私は両親よりもKさんと共通の秘密を持ったことで何故かワクワク、ドキドキして・・
年上の兄も同様だったと思います。
あの時のアイスキャンディーの甘さは忘れられません。
気の合った男同士の約束の一端を担いで夜の帰り路もウキウキドキドキで・・
私の母は「スイカを食べたら水は駄目、天麩羅食べたらスイカも水も駄目」のダメダメ尽くしで美味しいものを食べるのが怖かった昔の話です。
今はスイカ食べてからでも平気で何でも食べたり飲んだりしちゃうけど・・母親が子供の胃袋に注意してくれたから今長生きしているのかもしれません。
やがて二十歳になったTさんに赤紙が来て軍隊に入り・・
その後、Kさんが一度だけ我が家に来たことも覚えています。
その時、重くて立派な軍刀をチョットだけ触らしてもらったので・・
戦後、復員してからは、下請けですが精密機械の部品を製造する工場を経営して親会社から「Tさんのとこのパーツは高いけれど製品に間違いが無いから他に代えられない」・・Kさんは家で働いて、親父から仕込まれた技術を引き継いで・・Tさんは苦笑いしながら「親父さんは厳しかったけど感謝しているんだよ」って言っていました。
親父が63歳で亡くなってからは私の母親の面倒も見てくれて、私達兄弟の親代わりとして面倒も掛けたことも・・
そのT・Kさんも亡くなられて・・
オヤジが取ってくれたチラシ寿司の丼はズッシリ重い陶器に入ったちらし寿司でしたが・・
変われば変わる出前ですね。