団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

常盤平団地の57年 続きですがKさんの事は忘れられない

2022-09-24 14:13:37 | 夫婦

キーボードを叩く老人の頭の中に次々と昔の情景が浮かんできます。

最近の台風の進路同様にあちらこちらと向きが変われば文章も変わっていきます。

お見苦しいのは承知の上で、題名迄くるくる変わる変な文章になって仕舞いました。ゴメンナサイ

それはそれは昔の話です。

私が5歳の頃、両親と息子二人の家族は高田馬場(当時の住所、東京市淀橋区戸塚町3丁目)へ引っ越しました。

母親と私達は贅沢にも上野からタクシーで(当時は円タクって言ってたようです)

ハッキリとはしないけれど、私の記憶もこの頃からの事が多いですね。

人はボケなければ、記憶と云うのが生まれて5~6歳の頃から一生覚えていられるんですね。

今、私はボケ頭で必死に昔を思い出して追いかけているんです。

一家が下谷から山の手の高田馬場へ引っ越したのは、父の親会社(測量機関係)が山の手の中野区に在って何かと仕事が、し易かったからだと思われます。

当時、間接的に親父の町工場は軍需景気で忙しくて従業員もオヤジ一人から4人位に増えていました。

T・kさんもその中の一人です。

但しKさんは母親の親戚の倅で長男ですから、言うなれば身内です。

厳しい父は身内も他の従業員と同様で特別扱いはしていませんでしたが・・

ところでT・Kさんと一家の夕食の話です。

年寄りのお手伝いさんを休ませるためか、親父自身が食べたかったのか?

週に一度多分土曜日か日曜日か?・・多分日曜日です。

大人の休みは日曜日?いえ日曜日も工場は休んでいなかったのかも・・休みは盆と暮れは??、

私が知っているのは正月の3か日だけ・・お年玉が楽しみで・・

他に、確か「藪入り」って言うのが有つて・・お休みは年に僅かで・・ホント今では考えられない労働基準法なんて無かった時代の昔話です。

オヤジは、Tさん、子供達を含めて家族全員に好きな出前の丼を取って食べさせてくれたのです。

正月でもなければ盆休みでもないなかでのTさん含めての出前の夕食は当時としては、一家が世間並以上の贅沢だったのかも知れません。

そしてオヤジはヤッパリ食いしん坊・・

私も、その血を引いているのかも知れません。

オヤジは上寿司を、Tさんは上うな重を、私達子供はちらし寿司丼か親子丼だったと思いますが・・「ゴチソウサマでした」って言っておきます。

「なんでも好きな物をと・・」当時子供ですからメニュー等は分かりません。

オヤジは晩酌を少々だったか・・ご機嫌でした・・確か・・子供たちも大はしゃぎの夕ご飯・・週一度の夕飯でしたが・・

Tさんは座敷の隅で一人用の小さなお膳を前に、私達とは離れた場所で黙々とうな重を食べていたようです。

家族と身内の違いで、私達は大きなお膳を囲んで賑やかに夕餉を楽しんでいるのに・・

身内と云っても従業員の一人、差別と云えば差別ですが・・当時はそれが当たり前だったようです。

若いT・Kさんは奉公の身で、私の家から早稲田専門学校(現早稲田大学の前身)の夜学へ通いながら親父の右腕として働いて働いて・・

T・Kさんが二十歳になったある日、親父が私達をT・Kさんの前に座らせて「今日からKちゃんでは無くてKさんと呼びなさい・・分かったね」って・・

T・Kさんが成人して大人になったということです。

でも、Kさんは両親の薦めも有って兄貴分としても私達をあちらこちら連れて行ってくれました。

海水浴、縁日、バッタ取り、年の離れた兄貴分として両親の信頼は抜群だったKさんでしたから・・

ある年の夏の事です。

Tさんと弟分で通いのUちゃんが仕事を終えてから、日が暮れてから母親に頼まれて私達兄弟を200mくらい先、4丁目の中野湯に連れて行ってくれました。

きっと近所の青山湯が、お休みだったのでしょう。

お風呂でT・Kさんから体を洗って貰った後・・中野湯を出て4人は直ぐ脇の窯の有る横丁の暗がりへ導かれました。

どっから手に入れたか、兄貴分のKさんから私達の手にそれぞれアイスキャンディーが一本づつ渡されて・・

暗い中野湯の裏で4人固まってコッソリと無言で長いアイスキャンディーを食べたんです。

暗闇の中で、湯上りの火照った体と喉に冷たいアイスキャンディーの旨かったことったら・・

食べ終わってKさんが「ナイショだぞ・・家へ帰ってからも・・」

勿論、私は両親よりもKさんと共通の秘密を持ったことで何故かワクワク、ドキドキして・・

年上の兄も同様だったと思います。

あの時のアイスキャンディーの甘さは忘れられません。

気の合った男同士の約束の一端を担いで夜の帰り路もウキウキドキドキで・・

私の母は「スイカを食べたら水は駄目、天麩羅食べたらスイカも水も駄目」のダメダメ尽くしで美味しいものを食べるのが怖かった昔の話です。

今はスイカ食べてからでも平気で何でも食べたり飲んだりしちゃうけど・・母親が子供の胃袋に注意してくれたから今長生きしているのかもしれません。

やがて二十歳になったTさんに赤紙が来て軍隊に入り・・

その後、Kさんが一度だけ我が家に来たことも覚えています。

その時、重くて立派な軍刀をチョットだけ触らしてもらったので・・

戦後、復員してからは、下請けですが精密機械の部品を製造する工場を経営して親会社から「Tさんのとこのパーツは高いけれど製品に間違いが無いから他に代えられない」・・Kさんは家で働いて、親父から仕込まれた技術を引き継いで・・Tさんは苦笑いしながら「親父さんは厳しかったけど感謝しているんだよ」って言っていました。

親父が63歳で亡くなってからは私の母親の面倒も見てくれて、私達兄弟の親代わりとして面倒も掛けたことも・・

そのT・Kさんも亡くなられて・・

 米寿の祝いにと鯖寿司を娘がネットで送ってくれました。

オヤジが取ってくれたチラシ寿司の丼はズッシリ重い陶器に入ったちらし寿司でしたが・・

変われば変わる出前ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


常盤平団地の57年 食いしん坊の親父を思い出す 続く・・

2022-09-22 21:11:52 | 食いしん坊

お彼岸が近づいて、今から80年も前のオヤジの事を思い出してしまいました。

太平洋戦争と云うより大東亜戦争前の昔の話です。

東京は下谷稲荷神社脇の平屋の家で、父が独立して小さな工場(こうば)を一人で営んでいた頃は、私達5人兄弟の内、当時生まれていたのは私と兄の二人、夫婦親子4人家族でした。

従って親父の職業は機械工だったようです。

10歳若かった母は家(こうば)の裏で煎餅屋さんをやっていたそうですが・・

こうばも煎餅屋も私の記憶には全く有りません。

オヤジ(と呼ばして下さい)が母の忙しい時に代わりに煎餅を焼き始めると、そこへ近所の子供たちが自然に集まって来て・・

煎餅を焼く匂いよりも親父が煎餅を焼き損なって・・

近所の子供達は失敗して焦げちゃったか割れちゃったかした煎餅を、その場で子供達に呉れてやってた話は母から戦後に良く聞いた話です。

若しかすると子供好きな親父はワザと出来損ないのお煎餅を焼いて、子供達に気前よく配ったのかも知れません。

母の煎餅稼業も長続きししていれば私の記憶にも残っているはずなんですが・・

父の失敗煎餅に母が呆れて止めてしまったのか・・

或いは店は潰れてしまったのか・・

85歳まで生きてた母からも、生前、煎餅屋の話はとうとう聞かずに亡くなって仕舞いました。

ですから両親の焼いた煎餅の欠片の記憶もないのです。

何しろ私も未だ小学校に上がる前の5歳の頃だと思うので、神社の鳥居の下で近所の子供達と遊んだ微かな記憶があるだけです。

そうそう関東大震災の直後、どういう訳か親父が上野の山の上でバナナを一房持って立っていたそうです。

何故上野の山なのか、何故バナナを持っていたのか・・

親父からは何も聞いていないし母からも聞いていません。

然し、当時は未だ母と世帯を持っていたとも考えられない・・

何故なら母の実家は深川ですから・・

明治生まれの両親は私たちに、自分の生い立ちを話すことも無く、とうに、あの世に逝ってしまっていますから・・

当時バナナがどんな存在だったかも知れませんし、店で買ったのかも・・

若しかしたら大地震のドサクサに何処かの店から失敬して来たのかも知れません。

下谷稲荷町の神社付近は関東大震災も太平洋戦争にも焼け残って・・

終戦後、私達夫婦が訪ねて行った時も、古い家屋は昔の儘で・・

勿論、誰か知らない人が住んでいるようでしたから・・

さて、話が逸れて仕舞いました・・長く成りそうです・・ボケ爺、ボケ頭、年寄りのたわ言です。ゴメンナサイ

関東大震災で握り飯が食べられたかわかりません。ゴチソウサマ

 

 

 


常盤平団地の57年 87歳の終りに

2022-09-19 15:54:17 | 夫婦

87歳も今日で終わりです。

アッという間ですが、一年間、いろいろ有りました。

良いことも、落ち込んだ日々も・・

勿論、遠出は出来ず、精々後期高齢者は奥様の先導で病院とかスーパーとかへ行くのが87歳の日課です。

勝手ですが・・

「奥様、どうかこのまま、お元気で来年3月の誕生日をお迎えになられるように心からお願い申し上げます」

 榮太樓は奥様の推奨です。

なんでも半分づつで戴きます・・感謝してゴチソウサマ

 

 


常盤平団地の57年 休日

2022-09-19 12:22:05 | 夫婦

「洗濯するもの有るんなら早く出して・・」

「脱がなきゃ出せないでしょ・・」

「昨日日曜日で今日は敬老の日か?・・自分なりの休日も有るしな~」

「自分なりの休日?自分なりのね~」

「朝っから暑いわね~・・」

「ウン・・これから空気が乾いてくるから・・」

「天気予報判るの?お父さんは・・」

「オウ・・俺が決めるんさね~」

偉そうに言ったがこれは当てになりません・・TVで早速台風の情報を仕入れる87歳です。

チョッと千葉県はそれるようです・・

 バウムクーヘンと云えばドイツ生まれのユウハイムしか無かった昔のデパートの事を思い出しました。

当時は美味しくて家族で切り分けて食べたご馳走です。

ドイツ菓子と無添加と云う言葉でフアンになった古い私です・・明日は誕生日・・ゴチソウサマ


常盤平団地の57年 題は「駅の階段」でいいかな?~

2022-09-17 16:52:29 | 夫婦

 毎年銚子商工信用組合支店長が誕生日のお祝いに梅干しを下さいます。

大銀行にはない心遣いかも・・

早朝散歩12000歩余りを終えてから

今週火曜日、今日は免許更新センターへ新しい免許証を貰いに行くので・・早や目のお昼ご飯 9月13日 PM12時半 常盤平自宅出発です。

駅まで歩いてキップを買って・・

常盤平⇒八柱(新京成線)迄は一駅=150円

新八柱⇒新松戸(JR武蔵野線)迄は一駅(ホームを乗り換えて)新松戸⇒南柏(常磐線)迄は二駅=180円

南柏駅前⇒流山免許センター迄は(東武バス180円)=免許証更新手数=2500円・・3年免許証はどうにか貰いました。

流山免許センター⇒柏駅西口迄は(東武バス200円)=補聴器センター=0円・・補聴器の話はこの次に取っておきます。

帰り、柏⇒新松戸(JR千代田線)迄は三駅⇒新松戸⇒新八柱(JR武蔵野線)迄は一駅=180円

八柱⇒常盤平(新京成線)迄は一駅=150円

往復6駅で乗り換え、うち5駅で階段を上ったり下ったりで

PM4時頃に無事帰宅出来ました・・オツカレサマ

ウイークデー火曜日の午後です。

大勢の若い男女の学生さん達が駅の階段をスタスタと歩いて私を追い越していきました。

私は階段の手すりに掴まって、1歩ずつ歩いて下って上ってホームを移動します。

他の乗客達は慣れたもんで階段の隅っこで手摺に掴まって藻掻く私の方には見向きもせずに通り過ぎて夫々の目的の電車ホームへ歩いて行きました。

でも、こんな時に手を貸してくれたり、声を掛けてくれたりする人がいないのは。寧ろ幸いなのです。

今の私、マイペースなら何処までも?歩けます。

皆さん仕事や勉強に忙しい毎日「ご苦労さんです」と老人はユックリ呟くのみです。

前回、後期高齢者免許試験場の帰り、新京成常盤平駅のホームでひっくり返って、周りの人や車掌さんに助けられたときは心から嬉しかった私ですが・・

お陰様で熱中症も大分回復いたしました。

それにしても、これ程、乗り換えて電車、バスに乗るのは久しぶり・・東武バスを利用するのも3年ぶりです。

東武バスの車内には令和4年の新500円硬貨が車内両替機で使用できない旨の掲示が出ていました。

ポケットの500円硬貨を調べたら、まさしく令和4年と刻印が・・

手に取って繁々と硬貨を眺めるのも久しぶり・・

いつもポケットを探って一番大きな硬貨が500円硬貨と判断するから・・

今回の免許センターへ行くのに百円硬貨を沢山持って行くように忠告してくれた奥様に感謝して令和4年の500円硬貨は奥様の手に渡りました。

今日、記事を書くのに「この間の令和4年の500円硬貨の写真撮らして・・」

「アラッ・・若しかして使っちゃったかもよ~・・」

早速小銭入れの中を探してくれたのですが・・「ない無い・・ない・・」

 みんな平成生まれです。若しかすると令和4年生まれは珍しいのかも知れません。

それにしても今は各駅ともホーム端にエレベーターが着いていますし、又ターミナル主要駅にはエスカレーターも動いているので足腰の悪い年寄りは大助かりです。

然し今回の駅の乗り換えで利用させて頂いたのは新八柱駅のエレベーターのみでした。

JR新八柱駅の階段は乗降客も多くてモタモタしていると普通の乗客に迷惑をかけますので予めエレベーターの利用を予定していましたので・・これは正解でした。

ローカル駅に階段は付き物ですが・・

 それにしても良く自分の家に帰って来たもんだと感心する87歳でした。

 家から200mの、とある場所で、どこからか、やって来て、臨時の露店を広げるモグリ?の八百屋さんがいるそうです。

「このカボチャ40円だって!・・」「ホント?かよ~!」「ナスもピーマンも安かったのよね~・・」

嬉しそうな奥様です。

早速、大好きな梅干し入りの旬の野菜の煮物が大きな容器に入れられて登場しました。

前にも何度か作ってくれた、この野菜の煮物は1週間は持ちそうですが、カボチャ、ナス等旨くて、いくらでも口に入って仕舞うので・・

最後に残った梅干しも程よく味が染み込んでいて・・

これなら梅干し苦手な私でも食べられる美味しさです。

ノンアルビールのお供で食して、2日間で完食です。

料理上手?な奥様ですが、近頃はお買い物にも磨きが掛かって来て、コロナ禍で家にいる私を支えて下さいます。

ゴチソウサマ