第三極が迷走を始めた。。
第三極とは、自民、民主の二大政党に次ぐ三番目の政治勢力のことをいう。そういう意味では、厳密に言えば公明党も第三極に入るのだが、公明党は自民と連立しているので第三極とは言わない。衆院議員の現有勢力(解散前)で最大の第三極政党は小沢一郎率いる「国民の生活が第一」(48人。以下「生活」と略す)だが、NHKが11月19日に発表した世論調査によれば、支持率はわずか1.1%(26日に発表した支持率はさらに低下し0.9%。以下各党の支持率のカッコ内数字は26日発表のもの)でしかない。今度の総選挙で「生活」の大惨敗は必至の状況だ。
前回のブログで書いたように、小沢が民主党を飛び出した理由「消費税増税はマニフェスト違反」が、見え見えの「反対のための反対」にすぎなかったことに国民がそっぽを向いた結果である。もちろん消費税増税を喜んでいる国民など、たぶん一人もいないだろう。しかし消費税増税に反対するなら、消費税を上げなくてもこういう方法を取れば将来にわたって社会保障制度を維持・充実させることができる、という政策を提案し、その提案が党執行部から受け入れられなかったから、という理由だったら、「生活」の支持率はたぶん二桁台にのっていたであろう(解散前の衆議院議員総数に占める割合はジャスト10%)。「生活」は党名を「小沢の声が第一」と代えた方がすっきりする。いま「生活」は党勢を挽回すべく「脱原発」を旗印に新党(現時点では党名は「日本(にっぽん)未来の党」が有力視されている)を立ち上げようとしている滋賀県知事の嘉田(かだ)由紀子に秋波をおくり、合流をもくろんでいるが、1969年に衆議院議員に初当選して以降一貫して原発推進の立場をとってきた小沢が、選挙のためには基本的理念すら捨てるというなら、いっそのこと日本共産党に選挙協力関係を申し入れたらいかがか。共産党なら消費税増税に代わる財源ねん出の具体的政策を訴えているし、原発反対でも一致する(これはジョークではない。共産党が容認するかどうかは別だが)。
しかも小沢が言い張ってきた「マニフェスト違反」という口実自体がこじつけを通り越したイチャモン付けでしかないことがだれの目にも歴然だった。真実は「マニフェストに書いていなかった」というだけで、もしマニフェストに消費税増税をうたっていたら民主党は自公連立から政権を奪うことができなかった可能性は確かにあったとは思う。
実際にはその後の参院選で消費税増税をマニフェストに謳った自民が大量の票を獲得して、いわゆる「ねじれ現象」が生まれたことを考えると、前回の総選挙で民主が消費税増税を、社会保障のために国民に等しくお願いするしかない、とマニフェストで堂々と謳っていても勝利した可能性も少なくなかったと思う。
現に消費税増税に、すったもんだはしたが自公が賛成しても、自民の支持率はー0.3ポイントの24.7%(24.3%)と高く、公明に至っては1.3ポイントもアップの4.3%(4.3%)になり、自公合わせると29%(28.6%)にも達したことを考えても、少子高齢化に歯止めがかからない社会的状況の中で、消費税増税はやむを得ない選択肢であることに国民が理解を示した結果が、NHKが行った政党支持率調査に現れたと考えるべきだろう。また野田総理が解散後「選挙のことを考えれば、消費税を増税しない方が良かったかもしれない。しかし日本の将来の社会保障のことを考えると、政治家としてどうしてもやらなければならないことだった」という発言が支持されたのか、内閣支持率が低下し続けた状況に歯止めがかかり4.7ポイントも民主党支持率がアップして17.4%(16.6%とやや後退。この支持率低下は野田執行部が党議に同意書を提出しないと公認しない、と露骨な「野田政党」化を図り、鳩山由紀夫が政界引退するなどの波紋を呼んだことの影響と考えられる)と党勢が持ち直したことも考えると、わが国民はポピュリズム政治(大衆迎合主義)の欺瞞性に気づきつつあることを証明しているのかもしれない。それはいみじくも大哲学者プラトンが指摘した「民主主義は愚民政治だ」という民主主義の欠陥を、私たち日本人は克服しつつある兆しと考えてもいいかもしれない。
またアメリカでも、クリントン大統領時代にヒラリー・クリントンが実現できなかった国民皆保険制を、富裕層などの猛烈な反対を押し切って実現し、一時支持率が大幅に低下しながらも、「国民すべてが平等に医療を受ける権利がある」と最後まで信念を貫き通したオマリーが大激戦区のオハイオ州やフロリダ州で勝利し、共和党のロムニーを破って再選を果たしたことにも、アメリカが日本と同様民主主義政治の欠陥を克服しつつあると言えるかもしれない。この二国の政治状況は、「新民主主義」の始まりを意味するのではないかという予感がする。
またNHKが行った政党支持率調査とは違うが、朝日新聞が26日朝刊で発表した「衆院選比例投票先」の世論調査によると、自民が23%、民主が13%だった。 国会議員数(衆参両院)では第三極で最大勢力を誇る「小沢の声が第一」の影が薄らいでいく一方で、目が離せなくなったのが「日本維新の会」(以下「維新」と略す)である。朝日新聞の世論調査では9%に達した(朝日新聞に他の政党についての数字を問い合わせたが、不明とのことだった。朝日新聞は政局を左右するだろう3党についてのみ調査したのかもしれない。あまりフェアな調査方法とは言い難い)。
ここで皆さん、特にマスコミの政治記者の方にお尋ねしたい
「連立政権」
「野合政権」
「野合政党」
この三つの使い分けを意識しておられるだろうか。多分ないはずだ。
この三つのカテゴリー(「連立政党」というカテゴリーは存在しない)を当てはめるとこうなる。
「連立政権」――自公政権、民主・社会民主・国民新党の連立政権(民主政権)
「野合政権」――細川政権(日本新党・日本社会党・新政党・公明党・民社党・
新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合)、自社政権
「野合政党」――旧民主党(新党さきがけの鳩山由紀夫や管直人ら・社会党右
派・鳩山邦夫ら自民離脱者)、新民主党(旧民主・自由党{旧新
生党→旧新進党つまり小沢グループ}・民政党・新党友愛・民
主改革連合)
では「維新」はどういう性質の政党か。上のようなカテゴリーで考えれば、ほとんどの方はお分かりになる。お分かりにならないようであれば、少なくともマスコミの政治部記者はすぐお辞めになることをお勧めする。政局を分析する場合、常にこの三つのカテゴリーを念頭に置くか置かないかで、浅はかな分析しかできないか、表面上の動向の背後にうごめいている政治家たちの思惑や計算が透けて見えてくるかの大きな差が生じる。
でも政治ジャーナリストだけが私のブログを読んでいただいているわけではないので、いちおう三つのカテゴリーの意味を説明しておこう。
まず「連立政権」は中心になる政党があり、その政党の政策を柱にしながらも連立を組む相手の政策にも配慮し安定した政治基盤をつくるための政権のことである。したがって双方の政策の基本点でおおむね合意ができていないとたちまち分解してしまう。
政策の一致点が少ないのに、ただ数合わせのために複数の政党が「結集」して多数派になり政権を獲得したケースを「野合政権」という。その極端なケースが自社政権である。細川内閣の成立によって自・社対立の55年体制にピリオドが打たれ、政権の座から引きずりおろされた自民が、ただ政権の座に戻りたい一心で55年体制の対立軸にあった社会党を取り込み、あまつさえ社会党党首の村山富一を担いで総理にするという「離れ業」(というより「禁じ手」と言った方がいいかもしれない)で再び与党に返り咲いたことは自民党史に消すことができない最大の汚点として残った。
細川政権も、ただ自民を政権の座から引きずりおろすことだけを目的にして政策論議すら交わさず、ひたすら「この指とまれ」で小政党を寄せ集めた「理念・政策なき政権」だった。実は細川政権を裏で画策して作り上げたのが小沢であった。が、すでに述べたように小沢の政治生命は事実上終わりを遂げた。そういう政局分析をするのが政治ジャーナリストの使命なのだが、残念ながらそういう論理的思考力をもった政治ジャーナリストは日本には私が知る限りひとりもいない。
最後に「野合政党」である。もともと野合政党だった旧民主が中心になって、思想も理念も政策も一致しない複数の政党を寄せ集めた新民主がその典型である。新民主にはなんと15ものグループ(自民の派閥のようなもの)が存在し、小沢グループの3割以上(明確な数字は判明しなかった)が離党したあとは絶対的多数のグループがなく、グループ同士の足の引っ張り合いに乗じて旧小沢グループの残党(小沢チルドレン)を「タナボタ」的に掌握し、また最大の支持母体である連合をバックにした輿石が新民主の実権を握って、肝心の野田が動きが取れない状態に追い込まれていたことが前回のブログ『なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのか――私の政局分析』で書いた。野合政党は必ずそういう運命をたどる。
もう皆さん、お分かりのように「維新」は野合政党以外の何物でもない。しかも新民主と違い、政権奪取の可能性もないのに(将来の話ではなく現在の話)、今なぜ野合政党をつくる必要があるのか。まず橋下は橋下自身の政治理念と基本的政策をベースに「橋下新党」(党名は「日本維新の会」で構わない)を立ち上げ、単独で総選挙の洗礼を受けて、橋下の政治理念や基本的政策がどの程度国民から理解され、そして支持されるかを見極めたうえで、次の総選挙で「維新」と政治理念や政策で共有し合える政党と選挙協力を結んで戦い、もし政権奪取の可能性が現実化した時に初めて「野合」に近い数合わせでもいいから(これは政権奪取のためのやむを得ざる許容範囲と私は認める)連立政権を目指すのが政治の王道である。
橋下徹が日本テレビの人気番組『行列の出来る法律相談所』にレギュラー出演して全国的知名度を上げ、地元関西地区のローカルテレビ・ラジオ番組にもたびたび出演して関西地区での知名度をさらにアップ、知名度だけを頼りに2008年、大阪府知事選に出馬して圧勝し地方自治の大改革を目指した。
橋下は『週刊朝日』が10月26日号で「ハシシタ 奴の本性」と題する連載記事の1回目で彼の出自を暴かれ、彼の父親のDNAがハシシタ政治の本性であるがごとき主張をしたことに激怒、朝日出版(朝日新聞社の子会社)の社長が引責辞任するという出版界だけではなくポピュリズム(大衆迎合主義)・マスコミ界の格好のネタになったことは皆さんご存知であろう。
またまた本筋から外れるが、そもそも週刊誌が全盛時代を築くきっかけとなったのは1956年(昭和31年)発行の『週刊新潮』と、1959年(昭和34年)発行の『週刊文春』である(いずれも出版社系)。それ以前に新聞社系の週刊誌は何誌かあったが、新聞社系の週刊誌は新聞では紙面の許容スペースでは書ききれない記事を細部にわたって書くというスタンスを取っていた。『新潮』や『文春』は新聞社系が新聞記事の補完的役割に徹していたことにくさびを打つため、新聞が取り上げないような事件(主にタレこみや内部告発の追跡取材)を中心に記事を掲載する方針を取ってきた。また新聞社系が取材を担当した記者が原稿も書くという、新聞の紙面と同様な作り方をしていたのに対し、出版社系では最初の『新潮』が取材記者と記事の書き手(業界用語で「アンカー」という)の分業体制を取ることにより、作業効率を大幅に向上させ、以降そうした分業体制が出版社系週刊誌の基本的作り方になっている。
ところが週刊誌が全盛期を迎えたのは『文春』が創刊された同じ年に発刊された講談社の『週刊現代』と10年後の1969年に小学館が発行した『週刊ポスト』が徹底的にスキャンダル記事路線で、先行した新聞社系を始め『文春』や『新潮』を追撃し始めたからである。さらにそうした状況に加速度を付けたのは1981年に発刊された『FOCUS』や1984年に発刊した『FRIDAY』などの写真週刊誌だった。写真週刊誌はもともと朝日新聞社の『アサヒグラフ』や毎日新聞社の『毎日グラフ』が先行していたが、週刊誌と同様新聞の補完的役割を果たすことが役割で、戦争現場などの生々しい写真を掲載する硬派の写真週刊誌だった。当然、赤字垂れ流し事業となり、現在は休廃刊になっている。
こうして週刊誌のポピュリズムというか、スキャンダル路線が定着していく中で、読売新聞社だけはスキャンダル路線に迎合することを潔しとせず、『読売ウィクリー』を2008年に休廃刊した。新聞社の見識を示したと言えよう。だが、朝日新聞社は同じ年の2008年に出版部門を分離独立して朝日出版を設立し(と言っても朝日新聞社が100%出資した完全子会社)、朝日新聞社本体は朝日出版の刊行物に直接の責任を負わないという体制をとった。その結果、『週刊朝日』も朝日新聞社に気兼ねすることなく、利益追求重視のスキャンダル路線に転換した中で生じたのが例の「ハシシタ 奴の本性」と題するえげつない記事だった。
この記事の筆者は佐野眞一である。「現代の」代表的ノンフィクション作家だ(というより「過去の」と言った方が正確な表現だろう。というのは、もはや佐野はノンフィクション作家としての生命をこの記事の筆者となったことでおそらく失うだろうからである)。佐野は「この記事は週刊朝日のスタッフとの共同作業だ」と弁解しているが、こういう場合の共同作業とは何を意味するかをご存じない方に説明しておくが、週刊朝日の記者は取材をしたり資料を集めたり、言うなら佐野の手足を務めたにすぎず、記事の全責任は佐野が負うのがこの世界のルールである。
実は著者と編集者がしばしば(と、私が思っているだけかもしれないが)ぶつかるのは著作権と編集権の対立である。単行本の場合は書いた内容でもめることはあまりないと思う(少なくとも私の場合は文章に編集者が手を入れたことはほとんどない)。が、題名でもめることはしばしばあった。小説の場合は題名は著者が決めるケースが多いようだが、ノンフィクションやジャーナリズムの場合は編集長(担当編集者ではない)が決めるのがこの世界の常態である。著者の主張はまず通らない。著者としては書いた内容を反映した題名にしたいと思うのは当然だが、編集長は売らんがための題名をつけたがる。まだ、編集長が内容を読んだうえで内容と矛盾しない範囲(著者にとってのぎりぎりの許容範囲)なら我慢するが、原稿を読みもしないで「売れそうだ」と勝手に思い込んで内容と完全に矛盾した題名をつける場合がままある。私の場合は、あくまで私がこだわって押し切ったのは祥伝社から上梓した『忠臣蔵と西部劇』(1992年刊。89年には日米構造協議が始まるなど経済摩擦が激化していくさなかに書いた)の1冊だけだった。この題名だけでは私の意図が伝わらないと思い、サブタイトルに「日米経済摩擦を解決するカギ」と付けた。読者が書店で題名やサブタイトル、ひょっとしたらもっと重要な要素はカバーデザインかもしれないが、興味を持って手に取ってくれたときまず目が行くのはまえがきである。私は渾身の思いを込めて前書きの書き出しをこう書いた。
日米経済摩擦には、二つの側面がある。
一つの側面は、言うまでもなく貿易摩擦である。増える一方の日本の対米貿易黒字をどうするかという問題だ。
もう一つの側面は、もっと根が深い。いわゆる日本的経営や行政、さらには日本社会そのものが問われているからである。
日本社会の底流には、目的さえ正しければ手段は問わない、という考え方が横たわっている。ロッキード裁判で有罪判決を受けた全日空の若狭徳治名誉会長に、同情票が集まったり、社内での人望が揺るがないのも、「会社のためにやったこと」(若狭)だからである。つまり「会社のため」という目的の“正当性”によって、賄賂という手段の“反社会性”が塗り込められてしまったのである。
一方、アメリカは目的の“正当性”より手段の“正当性”を重視する傾向が強い。アメリカ人の目に、日本社会の構造が「米欧社会とは異質なアンフェアなもの」と映ったのはそのためである。
こうした日米のパーセプション・ギャップ(認識のずれ)は、『忠臣蔵』と西部劇に象徴的に反映されている。『忠臣蔵』は、主君の仇を討つという目的の“正当性”によって、無防備状態の敵を闇討ちするという行為が美化された物語である。
一方、西部劇では、目的の“正当性”だけでなく、手段の“正当性”が厳しく求められる(※本文で書いたが、西部劇における手段の正当性とは「丸腰の相手を撃ってはならない」「後ろから撃ってはならない」という2大ルールを意味しており、それがアメリカ社会の規範的ルールになっていることを「手段の正当性」として私は評価した。そのため「フェア」であること、すなわちフェアネスを世界共通のルールにすべきだと主張するのが本書の目的だった)。この、日米二つの社会の底流に横たわる価値観の対立が、日米経済摩擦の深層部を形成していると言えよう。(以下省略)
この本は山本七平や竹村健一は高く評価してくれたが、あまり売れなかった。もしこの本がヒットしていたら、その後の私の人生は大きく変わっていたであろう。売れはしなかったが、私にとっては32冊上梓した本のうちの代表作であり、今でも新鮮さを失っていないという自負がある。
老いぼれジジイの回想はこの辺でやめるが、単行本ですら、そういう状態だから、雑誌や週刊誌の場合は、編集者が著作権を平気で侵害するケースがしばしばどころか、しょっちゅうある。単行本の場合は担当編集者は一人つくだけだが、月刊誌でも編集者は7~8人いるし、週刊誌となると編集者は10人をはるかに超える。
雑誌の企画は、著者側が売り込むケースもないわけではないが、大半は編集会議でテーマを決め、そのテーマにふさわしいと思った著述家に執筆を依頼する。週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」は、おそらく週刊朝日側が企画して佐野に執筆を依頼したのではないかと思える。佐野のこれまでの作品から考えると、そういう類のスキャンダラスな企画を売り込んだとは到底思えないからだ。佐野は1997年、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』で第28回大矢惣一ノンフィクション賞を受賞、さらに2009年にも『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞しているほどの著述家である。彼が自ら橋下の父親の問題を洗い出し、その父親のDNAを橋下が引き継いでいるなどというテーマを売り込んだりする人ではない、と私は思う。
活字離れは想像を絶するほどのスピードで進んでおり(私は「氷河期」を通り越して「ビッグバン」の時代になってしまったと思っている)、佐野ほどの著名なノンフィクション作家でも、仕事の機会は極めて少なくなっていたと思う。そのため、つい週刊朝日側からの執筆依頼に飛びついてしまったのではないだろうか。だが、たとえそうだったとしても、書き手が全く無名のライターで、売り出すためのやむを得ない行為とは、彼の場合は異なる。佐野の行為は大宅壮一ノンフィクション賞や講談社ノンフィクション賞の権威を汚した行為と、この世界からは烙印を押されたに等しい。
私自身、いつか機会を見て橋下の思い上がった独裁的振る舞いについて厳しい批判を加えるつもりでいた。だが、機を見て敏なる遊泳術を、いつからどうやって身に付けたのかは知らないが、橋下の独裁的政治・行政活動に対する批判的な目をマスコミが向けだした途端、一瞬にして柔軟な姿勢に豹変、ブログに書く機会を失ってしまったと思っていたら、突然の衆院解散、そして石原慎太郎率いる「太陽の党」との唐突な合併と、どうしても見逃すわけにいかない事態が出現したため、急きょ「維新」の立役者・橋下について分析することにしたというわけである。
橋下は94年早稲田大学を卒業後、司法試験に合格、2年間の司法修習で法曹資格を獲得、いったん大阪市内にある樺島法律事務所に10か月ほど在籍したのち98年にはやはり大阪市内に橋下総合法律事務所を開設、主に示談交渉による解決を看板にした。飛び込み営業をするなどして年間400~500もの案件を手掛けたという。
このキャリアについては私も正直疑問を抱かざるを得ない。弁護士不足を解消すべく文科省が法科大学院を乱立させ、法曹家を粗製乱造する以前であったとしても、実務経験が司法研修(医者の世界でいえばインターンのような制度)を入れてもわずか2年10か月ほどで大阪市内に個人の法律事務所をどうやって開設できたのだろうか。しかも橋下はいみじくも週刊朝日が暴いたように決して裕福な家庭に育ったわけではなく、むしろ苦学に近い状態で大学を卒業している。実務経験といっても司法修習時代に高級を貰えるわけがなく、また顧客を獲得することは不可能である。顧客との交渉は事実上樺島法律事務所に在籍していたわずか10か月に過ぎない、どの世界でもそうだが樺島法律事務所時代に担当した顧客をかっさらって個人事務所の顧客にすることなどできるわけがない。別に法律がそうした行為を禁じているわけではないが、そんなことをすればたちまち法曹界から締め出されてしまう。さらに個人事務所を開設し軌道に乗せるのにどれだけ費用がかかるか、橋下がどうやってこのような「奇跡」を実現できたのか、そのプロセスを週刊朝日は検証すべきだった。おそらく週刊朝日はその「奇跡」の真実をつかみ、その「奇跡」が橋下の父親との因果関係と結びついていたことを明らかにしようという意図があったのではないかと、
私は好意的すぎる見方かもしれないが、そう思う。ただいきなり父親がどういう人間だったのか、また「」という差別を意味する用語を使ってまで明らかにしてしまったこと、 しかも橋下の人格が父親のDNAを受け継いでいるかのごとき書き方をしたこと(これは佐野の言い逃れできない責任)が、橋下の反撃を世論が支持する要因になったと思う。そもそも橋下に限らず、人の人格形成と親のDNAとの関連性は科学的にまったく証明されていず、そのような行き過ぎたレトリックを使用したことで週刊朝日と佐野は墓穴を掘ってしまった。おそらくこれが週刊朝日問題の真実ではないだろうか。売らんがためには手段を問わない、という『忠臣蔵』精神が週刊朝日にも佐野にも根強く染み込んでいたというのが事件性を抜き差しならないものにしてしまった最大の要因だったのではないか。日本人が忠臣蔵精神から脱皮し、「目的を遂げるためには手段を問わない」という社会規範を全否定できるには私の孫の時代まで待つしかないかもしれない。
だいいち事務所を開設して飛び込み営業をして顧客を獲得し、年に400~500もの案件を手掛けるといった人間離れした行動が、法曹界では本当にできるのだろうか。橋下が国政に大きな影響力を持つようになったら、この時代の「奇跡」は必ずマスコミかノンフィクション作家によって暴き出される。実際私が売れ出した途端いろいろな方から有名人や大企業、さらにはテレビ番組のやらせなどのスキャンダル情報がうんざりするほど寄せられた。私はスキャンダルライターではないし、スキャンダルを暴くことでテレビ局から引っ張りだこになりたいなどと思ったことは一度もないので、そういった類の情報は一切無視してきたが、「いやな世界に身を置いてしまったな」という思いは実際何度かしたことがある。
橋下は自ら法曹家になって以降の「サクセス・ストーリー」の真実を今のうちに明らかにしておいた方がいい、と彼のためにそう思う。いまだったらどういう手練手管を使ってサクセス・ストーリーを作り出したのかを自ら告白しておけば、クリントン大統領が「不倫」を相手から暴露された時、正直に認め、ヒラリーとの間に生じた亀裂と夫婦関係破綻の危機にあることも告白したことで、窮地を脱したばかりか、むしろいったん急降下した支持率が逆転急上昇した事実を教訓にすべきだと願う。
またまた長いブログになってしまった。すでに9800字を超え、ブログの文字制限に達しようとしている。今回は前・後編の2回で終えるつもりなのでご容赦願いたい。(続く)
第三極とは、自民、民主の二大政党に次ぐ三番目の政治勢力のことをいう。そういう意味では、厳密に言えば公明党も第三極に入るのだが、公明党は自民と連立しているので第三極とは言わない。衆院議員の現有勢力(解散前)で最大の第三極政党は小沢一郎率いる「国民の生活が第一」(48人。以下「生活」と略す)だが、NHKが11月19日に発表した世論調査によれば、支持率はわずか1.1%(26日に発表した支持率はさらに低下し0.9%。以下各党の支持率のカッコ内数字は26日発表のもの)でしかない。今度の総選挙で「生活」の大惨敗は必至の状況だ。
前回のブログで書いたように、小沢が民主党を飛び出した理由「消費税増税はマニフェスト違反」が、見え見えの「反対のための反対」にすぎなかったことに国民がそっぽを向いた結果である。もちろん消費税増税を喜んでいる国民など、たぶん一人もいないだろう。しかし消費税増税に反対するなら、消費税を上げなくてもこういう方法を取れば将来にわたって社会保障制度を維持・充実させることができる、という政策を提案し、その提案が党執行部から受け入れられなかったから、という理由だったら、「生活」の支持率はたぶん二桁台にのっていたであろう(解散前の衆議院議員総数に占める割合はジャスト10%)。「生活」は党名を「小沢の声が第一」と代えた方がすっきりする。いま「生活」は党勢を挽回すべく「脱原発」を旗印に新党(現時点では党名は「日本(にっぽん)未来の党」が有力視されている)を立ち上げようとしている滋賀県知事の嘉田(かだ)由紀子に秋波をおくり、合流をもくろんでいるが、1969年に衆議院議員に初当選して以降一貫して原発推進の立場をとってきた小沢が、選挙のためには基本的理念すら捨てるというなら、いっそのこと日本共産党に選挙協力関係を申し入れたらいかがか。共産党なら消費税増税に代わる財源ねん出の具体的政策を訴えているし、原発反対でも一致する(これはジョークではない。共産党が容認するかどうかは別だが)。
しかも小沢が言い張ってきた「マニフェスト違反」という口実自体がこじつけを通り越したイチャモン付けでしかないことがだれの目にも歴然だった。真実は「マニフェストに書いていなかった」というだけで、もしマニフェストに消費税増税をうたっていたら民主党は自公連立から政権を奪うことができなかった可能性は確かにあったとは思う。
実際にはその後の参院選で消費税増税をマニフェストに謳った自民が大量の票を獲得して、いわゆる「ねじれ現象」が生まれたことを考えると、前回の総選挙で民主が消費税増税を、社会保障のために国民に等しくお願いするしかない、とマニフェストで堂々と謳っていても勝利した可能性も少なくなかったと思う。
現に消費税増税に、すったもんだはしたが自公が賛成しても、自民の支持率はー0.3ポイントの24.7%(24.3%)と高く、公明に至っては1.3ポイントもアップの4.3%(4.3%)になり、自公合わせると29%(28.6%)にも達したことを考えても、少子高齢化に歯止めがかからない社会的状況の中で、消費税増税はやむを得ない選択肢であることに国民が理解を示した結果が、NHKが行った政党支持率調査に現れたと考えるべきだろう。また野田総理が解散後「選挙のことを考えれば、消費税を増税しない方が良かったかもしれない。しかし日本の将来の社会保障のことを考えると、政治家としてどうしてもやらなければならないことだった」という発言が支持されたのか、内閣支持率が低下し続けた状況に歯止めがかかり4.7ポイントも民主党支持率がアップして17.4%(16.6%とやや後退。この支持率低下は野田執行部が党議に同意書を提出しないと公認しない、と露骨な「野田政党」化を図り、鳩山由紀夫が政界引退するなどの波紋を呼んだことの影響と考えられる)と党勢が持ち直したことも考えると、わが国民はポピュリズム政治(大衆迎合主義)の欺瞞性に気づきつつあることを証明しているのかもしれない。それはいみじくも大哲学者プラトンが指摘した「民主主義は愚民政治だ」という民主主義の欠陥を、私たち日本人は克服しつつある兆しと考えてもいいかもしれない。
またアメリカでも、クリントン大統領時代にヒラリー・クリントンが実現できなかった国民皆保険制を、富裕層などの猛烈な反対を押し切って実現し、一時支持率が大幅に低下しながらも、「国民すべてが平等に医療を受ける権利がある」と最後まで信念を貫き通したオマリーが大激戦区のオハイオ州やフロリダ州で勝利し、共和党のロムニーを破って再選を果たしたことにも、アメリカが日本と同様民主主義政治の欠陥を克服しつつあると言えるかもしれない。この二国の政治状況は、「新民主主義」の始まりを意味するのではないかという予感がする。
またNHKが行った政党支持率調査とは違うが、朝日新聞が26日朝刊で発表した「衆院選比例投票先」の世論調査によると、自民が23%、民主が13%だった。 国会議員数(衆参両院)では第三極で最大勢力を誇る「小沢の声が第一」の影が薄らいでいく一方で、目が離せなくなったのが「日本維新の会」(以下「維新」と略す)である。朝日新聞の世論調査では9%に達した(朝日新聞に他の政党についての数字を問い合わせたが、不明とのことだった。朝日新聞は政局を左右するだろう3党についてのみ調査したのかもしれない。あまりフェアな調査方法とは言い難い)。
ここで皆さん、特にマスコミの政治記者の方にお尋ねしたい
「連立政権」
「野合政権」
「野合政党」
この三つの使い分けを意識しておられるだろうか。多分ないはずだ。
この三つのカテゴリー(「連立政党」というカテゴリーは存在しない)を当てはめるとこうなる。
「連立政権」――自公政権、民主・社会民主・国民新党の連立政権(民主政権)
「野合政権」――細川政権(日本新党・日本社会党・新政党・公明党・民社党・
新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合)、自社政権
「野合政党」――旧民主党(新党さきがけの鳩山由紀夫や管直人ら・社会党右
派・鳩山邦夫ら自民離脱者)、新民主党(旧民主・自由党{旧新
生党→旧新進党つまり小沢グループ}・民政党・新党友愛・民
主改革連合)
では「維新」はどういう性質の政党か。上のようなカテゴリーで考えれば、ほとんどの方はお分かりになる。お分かりにならないようであれば、少なくともマスコミの政治部記者はすぐお辞めになることをお勧めする。政局を分析する場合、常にこの三つのカテゴリーを念頭に置くか置かないかで、浅はかな分析しかできないか、表面上の動向の背後にうごめいている政治家たちの思惑や計算が透けて見えてくるかの大きな差が生じる。
でも政治ジャーナリストだけが私のブログを読んでいただいているわけではないので、いちおう三つのカテゴリーの意味を説明しておこう。
まず「連立政権」は中心になる政党があり、その政党の政策を柱にしながらも連立を組む相手の政策にも配慮し安定した政治基盤をつくるための政権のことである。したがって双方の政策の基本点でおおむね合意ができていないとたちまち分解してしまう。
政策の一致点が少ないのに、ただ数合わせのために複数の政党が「結集」して多数派になり政権を獲得したケースを「野合政権」という。その極端なケースが自社政権である。細川内閣の成立によって自・社対立の55年体制にピリオドが打たれ、政権の座から引きずりおろされた自民が、ただ政権の座に戻りたい一心で55年体制の対立軸にあった社会党を取り込み、あまつさえ社会党党首の村山富一を担いで総理にするという「離れ業」(というより「禁じ手」と言った方がいいかもしれない)で再び与党に返り咲いたことは自民党史に消すことができない最大の汚点として残った。
細川政権も、ただ自民を政権の座から引きずりおろすことだけを目的にして政策論議すら交わさず、ひたすら「この指とまれ」で小政党を寄せ集めた「理念・政策なき政権」だった。実は細川政権を裏で画策して作り上げたのが小沢であった。が、すでに述べたように小沢の政治生命は事実上終わりを遂げた。そういう政局分析をするのが政治ジャーナリストの使命なのだが、残念ながらそういう論理的思考力をもった政治ジャーナリストは日本には私が知る限りひとりもいない。
最後に「野合政党」である。もともと野合政党だった旧民主が中心になって、思想も理念も政策も一致しない複数の政党を寄せ集めた新民主がその典型である。新民主にはなんと15ものグループ(自民の派閥のようなもの)が存在し、小沢グループの3割以上(明確な数字は判明しなかった)が離党したあとは絶対的多数のグループがなく、グループ同士の足の引っ張り合いに乗じて旧小沢グループの残党(小沢チルドレン)を「タナボタ」的に掌握し、また最大の支持母体である連合をバックにした輿石が新民主の実権を握って、肝心の野田が動きが取れない状態に追い込まれていたことが前回のブログ『なぜ野田総理は「解散・総選挙」を急いだのか――私の政局分析』で書いた。野合政党は必ずそういう運命をたどる。
もう皆さん、お分かりのように「維新」は野合政党以外の何物でもない。しかも新民主と違い、政権奪取の可能性もないのに(将来の話ではなく現在の話)、今なぜ野合政党をつくる必要があるのか。まず橋下は橋下自身の政治理念と基本的政策をベースに「橋下新党」(党名は「日本維新の会」で構わない)を立ち上げ、単独で総選挙の洗礼を受けて、橋下の政治理念や基本的政策がどの程度国民から理解され、そして支持されるかを見極めたうえで、次の総選挙で「維新」と政治理念や政策で共有し合える政党と選挙協力を結んで戦い、もし政権奪取の可能性が現実化した時に初めて「野合」に近い数合わせでもいいから(これは政権奪取のためのやむを得ざる許容範囲と私は認める)連立政権を目指すのが政治の王道である。
橋下徹が日本テレビの人気番組『行列の出来る法律相談所』にレギュラー出演して全国的知名度を上げ、地元関西地区のローカルテレビ・ラジオ番組にもたびたび出演して関西地区での知名度をさらにアップ、知名度だけを頼りに2008年、大阪府知事選に出馬して圧勝し地方自治の大改革を目指した。
橋下は『週刊朝日』が10月26日号で「ハシシタ 奴の本性」と題する連載記事の1回目で彼の出自を暴かれ、彼の父親のDNAがハシシタ政治の本性であるがごとき主張をしたことに激怒、朝日出版(朝日新聞社の子会社)の社長が引責辞任するという出版界だけではなくポピュリズム(大衆迎合主義)・マスコミ界の格好のネタになったことは皆さんご存知であろう。
またまた本筋から外れるが、そもそも週刊誌が全盛時代を築くきっかけとなったのは1956年(昭和31年)発行の『週刊新潮』と、1959年(昭和34年)発行の『週刊文春』である(いずれも出版社系)。それ以前に新聞社系の週刊誌は何誌かあったが、新聞社系の週刊誌は新聞では紙面の許容スペースでは書ききれない記事を細部にわたって書くというスタンスを取っていた。『新潮』や『文春』は新聞社系が新聞記事の補完的役割に徹していたことにくさびを打つため、新聞が取り上げないような事件(主にタレこみや内部告発の追跡取材)を中心に記事を掲載する方針を取ってきた。また新聞社系が取材を担当した記者が原稿も書くという、新聞の紙面と同様な作り方をしていたのに対し、出版社系では最初の『新潮』が取材記者と記事の書き手(業界用語で「アンカー」という)の分業体制を取ることにより、作業効率を大幅に向上させ、以降そうした分業体制が出版社系週刊誌の基本的作り方になっている。
ところが週刊誌が全盛期を迎えたのは『文春』が創刊された同じ年に発刊された講談社の『週刊現代』と10年後の1969年に小学館が発行した『週刊ポスト』が徹底的にスキャンダル記事路線で、先行した新聞社系を始め『文春』や『新潮』を追撃し始めたからである。さらにそうした状況に加速度を付けたのは1981年に発刊された『FOCUS』や1984年に発刊した『FRIDAY』などの写真週刊誌だった。写真週刊誌はもともと朝日新聞社の『アサヒグラフ』や毎日新聞社の『毎日グラフ』が先行していたが、週刊誌と同様新聞の補完的役割を果たすことが役割で、戦争現場などの生々しい写真を掲載する硬派の写真週刊誌だった。当然、赤字垂れ流し事業となり、現在は休廃刊になっている。
こうして週刊誌のポピュリズムというか、スキャンダル路線が定着していく中で、読売新聞社だけはスキャンダル路線に迎合することを潔しとせず、『読売ウィクリー』を2008年に休廃刊した。新聞社の見識を示したと言えよう。だが、朝日新聞社は同じ年の2008年に出版部門を分離独立して朝日出版を設立し(と言っても朝日新聞社が100%出資した完全子会社)、朝日新聞社本体は朝日出版の刊行物に直接の責任を負わないという体制をとった。その結果、『週刊朝日』も朝日新聞社に気兼ねすることなく、利益追求重視のスキャンダル路線に転換した中で生じたのが例の「ハシシタ 奴の本性」と題するえげつない記事だった。
この記事の筆者は佐野眞一である。「現代の」代表的ノンフィクション作家だ(というより「過去の」と言った方が正確な表現だろう。というのは、もはや佐野はノンフィクション作家としての生命をこの記事の筆者となったことでおそらく失うだろうからである)。佐野は「この記事は週刊朝日のスタッフとの共同作業だ」と弁解しているが、こういう場合の共同作業とは何を意味するかをご存じない方に説明しておくが、週刊朝日の記者は取材をしたり資料を集めたり、言うなら佐野の手足を務めたにすぎず、記事の全責任は佐野が負うのがこの世界のルールである。
実は著者と編集者がしばしば(と、私が思っているだけかもしれないが)ぶつかるのは著作権と編集権の対立である。単行本の場合は書いた内容でもめることはあまりないと思う(少なくとも私の場合は文章に編集者が手を入れたことはほとんどない)。が、題名でもめることはしばしばあった。小説の場合は題名は著者が決めるケースが多いようだが、ノンフィクションやジャーナリズムの場合は編集長(担当編集者ではない)が決めるのがこの世界の常態である。著者の主張はまず通らない。著者としては書いた内容を反映した題名にしたいと思うのは当然だが、編集長は売らんがための題名をつけたがる。まだ、編集長が内容を読んだうえで内容と矛盾しない範囲(著者にとってのぎりぎりの許容範囲)なら我慢するが、原稿を読みもしないで「売れそうだ」と勝手に思い込んで内容と完全に矛盾した題名をつける場合がままある。私の場合は、あくまで私がこだわって押し切ったのは祥伝社から上梓した『忠臣蔵と西部劇』(1992年刊。89年には日米構造協議が始まるなど経済摩擦が激化していくさなかに書いた)の1冊だけだった。この題名だけでは私の意図が伝わらないと思い、サブタイトルに「日米経済摩擦を解決するカギ」と付けた。読者が書店で題名やサブタイトル、ひょっとしたらもっと重要な要素はカバーデザインかもしれないが、興味を持って手に取ってくれたときまず目が行くのはまえがきである。私は渾身の思いを込めて前書きの書き出しをこう書いた。
日米経済摩擦には、二つの側面がある。
一つの側面は、言うまでもなく貿易摩擦である。増える一方の日本の対米貿易黒字をどうするかという問題だ。
もう一つの側面は、もっと根が深い。いわゆる日本的経営や行政、さらには日本社会そのものが問われているからである。
日本社会の底流には、目的さえ正しければ手段は問わない、という考え方が横たわっている。ロッキード裁判で有罪判決を受けた全日空の若狭徳治名誉会長に、同情票が集まったり、社内での人望が揺るがないのも、「会社のためにやったこと」(若狭)だからである。つまり「会社のため」という目的の“正当性”によって、賄賂という手段の“反社会性”が塗り込められてしまったのである。
一方、アメリカは目的の“正当性”より手段の“正当性”を重視する傾向が強い。アメリカ人の目に、日本社会の構造が「米欧社会とは異質なアンフェアなもの」と映ったのはそのためである。
こうした日米のパーセプション・ギャップ(認識のずれ)は、『忠臣蔵』と西部劇に象徴的に反映されている。『忠臣蔵』は、主君の仇を討つという目的の“正当性”によって、無防備状態の敵を闇討ちするという行為が美化された物語である。
一方、西部劇では、目的の“正当性”だけでなく、手段の“正当性”が厳しく求められる(※本文で書いたが、西部劇における手段の正当性とは「丸腰の相手を撃ってはならない」「後ろから撃ってはならない」という2大ルールを意味しており、それがアメリカ社会の規範的ルールになっていることを「手段の正当性」として私は評価した。そのため「フェア」であること、すなわちフェアネスを世界共通のルールにすべきだと主張するのが本書の目的だった)。この、日米二つの社会の底流に横たわる価値観の対立が、日米経済摩擦の深層部を形成していると言えよう。(以下省略)
この本は山本七平や竹村健一は高く評価してくれたが、あまり売れなかった。もしこの本がヒットしていたら、その後の私の人生は大きく変わっていたであろう。売れはしなかったが、私にとっては32冊上梓した本のうちの代表作であり、今でも新鮮さを失っていないという自負がある。
老いぼれジジイの回想はこの辺でやめるが、単行本ですら、そういう状態だから、雑誌や週刊誌の場合は、編集者が著作権を平気で侵害するケースがしばしばどころか、しょっちゅうある。単行本の場合は担当編集者は一人つくだけだが、月刊誌でも編集者は7~8人いるし、週刊誌となると編集者は10人をはるかに超える。
雑誌の企画は、著者側が売り込むケースもないわけではないが、大半は編集会議でテーマを決め、そのテーマにふさわしいと思った著述家に執筆を依頼する。週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」は、おそらく週刊朝日側が企画して佐野に執筆を依頼したのではないかと思える。佐野のこれまでの作品から考えると、そういう類のスキャンダラスな企画を売り込んだとは到底思えないからだ。佐野は1997年、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』で第28回大矢惣一ノンフィクション賞を受賞、さらに2009年にも『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞しているほどの著述家である。彼が自ら橋下の父親の問題を洗い出し、その父親のDNAを橋下が引き継いでいるなどというテーマを売り込んだりする人ではない、と私は思う。
活字離れは想像を絶するほどのスピードで進んでおり(私は「氷河期」を通り越して「ビッグバン」の時代になってしまったと思っている)、佐野ほどの著名なノンフィクション作家でも、仕事の機会は極めて少なくなっていたと思う。そのため、つい週刊朝日側からの執筆依頼に飛びついてしまったのではないだろうか。だが、たとえそうだったとしても、書き手が全く無名のライターで、売り出すためのやむを得ない行為とは、彼の場合は異なる。佐野の行為は大宅壮一ノンフィクション賞や講談社ノンフィクション賞の権威を汚した行為と、この世界からは烙印を押されたに等しい。
私自身、いつか機会を見て橋下の思い上がった独裁的振る舞いについて厳しい批判を加えるつもりでいた。だが、機を見て敏なる遊泳術を、いつからどうやって身に付けたのかは知らないが、橋下の独裁的政治・行政活動に対する批判的な目をマスコミが向けだした途端、一瞬にして柔軟な姿勢に豹変、ブログに書く機会を失ってしまったと思っていたら、突然の衆院解散、そして石原慎太郎率いる「太陽の党」との唐突な合併と、どうしても見逃すわけにいかない事態が出現したため、急きょ「維新」の立役者・橋下について分析することにしたというわけである。
橋下は94年早稲田大学を卒業後、司法試験に合格、2年間の司法修習で法曹資格を獲得、いったん大阪市内にある樺島法律事務所に10か月ほど在籍したのち98年にはやはり大阪市内に橋下総合法律事務所を開設、主に示談交渉による解決を看板にした。飛び込み営業をするなどして年間400~500もの案件を手掛けたという。
このキャリアについては私も正直疑問を抱かざるを得ない。弁護士不足を解消すべく文科省が法科大学院を乱立させ、法曹家を粗製乱造する以前であったとしても、実務経験が司法研修(医者の世界でいえばインターンのような制度)を入れてもわずか2年10か月ほどで大阪市内に個人の法律事務所をどうやって開設できたのだろうか。しかも橋下はいみじくも週刊朝日が暴いたように決して裕福な家庭に育ったわけではなく、むしろ苦学に近い状態で大学を卒業している。実務経験といっても司法修習時代に高級を貰えるわけがなく、また顧客を獲得することは不可能である。顧客との交渉は事実上樺島法律事務所に在籍していたわずか10か月に過ぎない、どの世界でもそうだが樺島法律事務所時代に担当した顧客をかっさらって個人事務所の顧客にすることなどできるわけがない。別に法律がそうした行為を禁じているわけではないが、そんなことをすればたちまち法曹界から締め出されてしまう。さらに個人事務所を開設し軌道に乗せるのにどれだけ費用がかかるか、橋下がどうやってこのような「奇跡」を実現できたのか、そのプロセスを週刊朝日は検証すべきだった。おそらく週刊朝日はその「奇跡」の真実をつかみ、その「奇跡」が橋下の父親との因果関係と結びついていたことを明らかにしようという意図があったのではないかと、
私は好意的すぎる見方かもしれないが、そう思う。ただいきなり父親がどういう人間だったのか、また「」という差別を意味する用語を使ってまで明らかにしてしまったこと、 しかも橋下の人格が父親のDNAを受け継いでいるかのごとき書き方をしたこと(これは佐野の言い逃れできない責任)が、橋下の反撃を世論が支持する要因になったと思う。そもそも橋下に限らず、人の人格形成と親のDNAとの関連性は科学的にまったく証明されていず、そのような行き過ぎたレトリックを使用したことで週刊朝日と佐野は墓穴を掘ってしまった。おそらくこれが週刊朝日問題の真実ではないだろうか。売らんがためには手段を問わない、という『忠臣蔵』精神が週刊朝日にも佐野にも根強く染み込んでいたというのが事件性を抜き差しならないものにしてしまった最大の要因だったのではないか。日本人が忠臣蔵精神から脱皮し、「目的を遂げるためには手段を問わない」という社会規範を全否定できるには私の孫の時代まで待つしかないかもしれない。
だいいち事務所を開設して飛び込み営業をして顧客を獲得し、年に400~500もの案件を手掛けるといった人間離れした行動が、法曹界では本当にできるのだろうか。橋下が国政に大きな影響力を持つようになったら、この時代の「奇跡」は必ずマスコミかノンフィクション作家によって暴き出される。実際私が売れ出した途端いろいろな方から有名人や大企業、さらにはテレビ番組のやらせなどのスキャンダル情報がうんざりするほど寄せられた。私はスキャンダルライターではないし、スキャンダルを暴くことでテレビ局から引っ張りだこになりたいなどと思ったことは一度もないので、そういった類の情報は一切無視してきたが、「いやな世界に身を置いてしまったな」という思いは実際何度かしたことがある。
橋下は自ら法曹家になって以降の「サクセス・ストーリー」の真実を今のうちに明らかにしておいた方がいい、と彼のためにそう思う。いまだったらどういう手練手管を使ってサクセス・ストーリーを作り出したのかを自ら告白しておけば、クリントン大統領が「不倫」を相手から暴露された時、正直に認め、ヒラリーとの間に生じた亀裂と夫婦関係破綻の危機にあることも告白したことで、窮地を脱したばかりか、むしろいったん急降下した支持率が逆転急上昇した事実を教訓にすべきだと願う。
またまた長いブログになってしまった。すでに9800字を超え、ブログの文字制限に達しようとしている。今回は前・後編の2回で終えるつもりなのでご容赦願いたい。(続く)